琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】民主主義とは何か ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

トランプ大統領をはじめとする「ポピュリスト」の跋扈、旧社会主義諸国および中国など権威主義国家の台頭など、近年の世界の政治状況は、民主主義という制度の根幹を揺るがすかのような観を呈しています。日本の状況を見てみても、現行の政権が「民意」の正確な反映、すなわち「民主主義的な」政権だといわれると、頸をかしげる人も少なくないのではないでしょうか。はたして民主主義はもう時代遅れなのか? それとも、まだ活路はあるのか?  それを議論するためには、まず何よりも、民主主義とは、そもそもどのような制度なのかを「正しく」知らなければならないでしょう。今では自明視されている「民主主義」という制度ですが、人が創ったものである限りそれもまた歴史的な制度として、さまざまな紆余曲折を経て現在のようなものになったのであって、決して「自然」にこのようなになったわけでではないのです。 そこで本書では、ギリシアアテナイにおける民主主義思想の「誕生」から、現代まで、民主主義という制度・思想の誕生以来、起こった様々な矛盾、それを巡って交わされた様々な思想家達の議論の跡をたどってゆきます。その中で、民主主義という「制度」の利点と弱点が人々にどのように認識され、またどのようにその問題点を「改良」しようとしたのか、あるいはその「改革」はなぜ失敗してしまったのかを辿ることにより、民主主義の「本質」とは何なのか、そしてその未来への可能性を考えてゆきます。 またあわせて、日本の民主主義の特質、その問題点についても分析してゆきます。 民主主義という思想・制度を知るための、平易な政治思想史の教科書としても最適です。


 僕自身は太平洋戦争後の「民主国家」となった日本に生まれ、戦争を直接体験することもなく、半世紀くらいの時間を生きてきました。
 太平洋戦争を経験した世代が「敗戦によって、価値観が激変するのを体験した」のと比較すると、「民主主義が正しいのは当然」だという状況で生きてきたのです。
 ところが、「国や国民を分断しつつ、多数派の人気を得て権力の座につくポピュリズム政治家」や「新型コロナウイルスが広がっていくなかでの独裁的な政治形態の国(たとえば中国)での感染対策のスピードと効率の良さ」などを見て、「本当に民主主義って、正しいのだろうか? 有能なトップであれば、独裁制のほうが良いのではないか?」なんて、考えてしまうのです。

 それこそ、僕が30年以上前に読んだSF小説銀河英雄伝説』で、ヤン・ウェンリー提督がつねづね言っていたように「専制国家のトップが常に有能とは限らないし、そうでないときの弊害が大きい」のと、「民主主義は、個々の国民がその政治について責任を持つという点で、専制政治にまさる」ということなのでしょうけど。


fujipon.hatenablog.com


この本のタイトル「民主主義とは何か」というのを見て、「何をいまさら」みたいな気分になったんですよ。
しかしながら、実際に読みはじめてみると、目から鱗が落ちるとはこういうことか、と思ったのです。
われわれは、「民主主義」のことを、知っているつもりで、ほとんど理解していない。


著者はこの本の最初に、こう問いかけてきます。

 例えば、次のどちらが正しいでしょうか。

A1「民主主義とは多数決だ。より多くの人々が賛成したのだから、反対した人も従ってもらう必要がある」

A2「民主主義の下、すべての人間は平等だ。多数派によって抑圧されないように、少数派の意見を尊重しなければならない。

 どうでしょう。どちらも正しそうです。

 次はどうでしょうか。

B1「民主主義国家とは、公正な選挙が行われている国を意味する。選挙を通じて国民の代表者を選ぶのが民主主義だ」

B2「民主主義とは、自分たちの社会の課題を自分たち自身で解決していくことだ。選挙だけが民主主義ではない」

 これも難しいところです。

 最後にもう一つ、考えてみましょう。

C1「民主主義とは国の制度のことだ。国民が主権者であり、その国民の意思を政治に適切に反映させる具体的な仕組みが民主主義だ」

C2「民主主義とは理念だ。平等な人々がともに生きていく社会をつくっていくために、終わることのない過程が民主主義だ」

 どちらの言い分も耳にしたことがあるはずです。


 民主主義は、その概念が生まれた(とされる)ギリシアのポリスの時代から、ずっと同じことを指しているのではなく、時代によって変化し続けてもいるのです。

 以前観た、『リンカーン』という映画を思い出します。
 この映画では、リンカーン奴隷制度を終わらせるために、合衆国憲法修正第13条を下院議会で批准させるまでの議会での懸命の多数派工作が描かれているのです。

fujipon.hatenadiary.com


素晴らしい映画なのですが、僕は観ていて、「民主主義というもの」について、考えさせられたんですよね。
民主主義っていうのは、ひとつの国のなかで、さまざまな異論が出て、争っているような事項に関して、「国会で賛成多数であれば、規定の投票数を一票でも上回っていれば、それまで反対していた人も含めて、すべてがその決定に従わなくてはならないシステム」なんですよね。
この映画でいえば、あれだけ「憲法修正案」に反対していた人たちも、それが「可決」されれば、おとなしく従わなければならないし、実際に反対派たちはそうしました。
99対1ならともかく、51対49でも、49の側は、51に従わなければならない。
この映画の憲法修正の場合には、3分の2をめぐる攻防ですけど。
実際、51対49ならば、49の側が決まったことに現場で抵抗すれば、かなり混乱するだろうし、51の思い通りにはならないでしょう。
それでも、「民主主義国家」では、多くの場合、負けたほうは「自分の主張を引っ込めて従う」のです。
51対49と、49対51の実際の「差」は、わずかなものです。
敗れてもその決定に従うという「良心」がなければ、民主主義は成立しない。

そもそも、「選挙で決められた代表者が政治を行う」のが、本当に「民主主義」なのか?という問いかけもなされています。
政治家は選挙のときだけ有権者に媚び、有権者も失政を自分たちが選んだはずの政治家の責任にしてしまう。ギリシアのポリスと現代の国家では人口が違いすぎるので、みんなで一か所に集まって討議する、なんていうのは、現実的には不可能なのかもしれませんが、「選挙で選ばれた代表者が政治を行う」というのは、あくまでも「やりかたのひとつ」でしかありません。
これを書きながら考えていたのですが、今のIT技術を使えば、重要な議題について、リアルタイムで全員参加の国民投票を行う政治というのも、けっして不可能ではない気もします。
でも、そういう議論が出てこないというのは、「民主主義が正しいと思ってはいるけれど、選挙以上に自分が直接政治に関わりたいと思っている人は少ない」ということなのでしょう。
僕自身「政治的な働きかけをしてくる人」に接すると、警戒してしまいます。


著者は「民主主義の歴史」を辿るなかで、さまざまなことを読者に問いかけているのです。

 ここで一つ指摘しておく必要があるのが、古代ギリシアにおける戦争と民主主義の結びつきです。
 現代において、しばしば平和と民主主義の関係に注目が集まります。いわゆる「デモクラティック・ピース(民主的平和)」論が主張するように、民主主義国家の間では戦争が減るという研究もあります。独裁的指導者の下では、その恣意的な判断によって戦争が可能であるのに対し、民主主義国家においては、より多くの当事者が政治的決定に参加します。戦争によって損害を受ける人々から反対の声が上がり、結果的に戦争が抑止される可能性が高まるというわけです。ナショナリズムに煽られ、「民主的支持の下に」戦争が行われるという反論もありえますが、今日なお、民主主義と平和の結びつきを強調する説が有力であるといえるでしょう。
 これに対し、古代ギリシアにおいて、民主主義の発展と戦争の間には、密接な関係がありました。アテナイなどのポリスにおいて、なぜ平民の力が台頭したのでしょうか。その一つの原因となったのは、平民の戦争への参加でした。


(中略)


 もちろん、このことは、戦争がなければ民主主義の発展がないという意味ではありません。戦争と民主主義の関係が不可分であるというわけでもありません。しかしながら、20世紀においても、多くの国々で女性参政権が実現したのは、二つの世界大戦の後でした。総力戦の時代において、国のために戦うのは前線の兵士だけではありません。男性に代わる労働力として多くの女性が工場労働などに動員されました。結果として、女性の協力なくして戦争の遂行も不可能となったことが、女性参政権が実現するきっかけになりました。戦争と民主主義の前進との間の、独特な結びつきといえるでしょう。


 人々が「権利」を得るということは、「義務」や「負担」とトレードオフの場合がほとんどなのです。
 そういう意味では、「自分は面倒なことはやりたくないけれど、自分に都合がいい政治をやってほしい」というのは、あまりにも身勝手な考え方だと言えるのかもしれません。
 戦争には、人々の「格差」を縮小するという面もありますし。

 もちろん、だから戦争をやるべきだ、とは微塵も思いませんが(僕などは、ホラー映画で最初にやられるキャラみたいな、戦争になったら真っ先に死ぬタイプですし)、少なくとも、「選挙をやれば民主主義」「投票に行けば政治に参加している」というのは、「民主主義に対する多くの考え方、参加の仕方のうちのひとつでしかない」のです。

 著者は、1961年に『統治するのはだれか』を発表したアメリカの政治学者、ロバート・ダールの「多元主義的な民主主義」についても触れています。

 ダールにいわせれば、民主主義という言葉は、歴史において長く使われた結果、意味が曖昧になってしまいました。とくに古代ギリシアでは、市民が民会に集ってそこで決定をしましたが、19世紀以降に発展したいわゆる現代の民主主義国家は、これとまったく異なるものです。現代の民主主義国家とは、古代ギリシア的な民主主義の要素に、それとは明らかに異質なものを取り込んだものにほかなりません。
 その最もたるものは、これまでも繰り返し指摘したように政党です。古代ギリシアでは公共の利益に反するものとされた党派や分派は、近代の議会制民主主義ではむしろ政党として、その不可欠の要素とみなされるようになりました。現代ではさらに、政党だけでなく、多様な利益集団の存在が承認され、その多様性や多元性が重視されています。巨大化した社会において、個人はその利害を守るために組織や集団をつくらざるをえません。そのような集団は、古典的な公共の利益の理念を否定しますが、むしろ国家による一元的な支配を抑制し、集団間の自由な競争によって望ましい帰結を生み出すと考えられるよおうになったのです。ダールはこのような状況を「複数の支配」、すなわち「ポリアーキー」と呼んで、その実態を実証的に分析しようとしました。


 「民主主義」の歴史や、さまざまな思想家の考え方が新書一冊にまとめられていて、ページ数以上に読み応えがありますし、「自分は『民主主義』について、知ったかぶりをしていただけだった」ことを思い知らされます。
 いまの世の中で、「民主主義は正しいのか?」を考える前に「歴史のなかで、すでに、こんなにも多くの人が『民主主義』について試行錯誤してきた」ことを知っておいて損はないはずです。


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