Kindle版もあります。
歴史の重要な瞬間に彼らは何を目にしたか? 20世紀の独裁者5人に仕えた料理人たちの悲喜こもごもの人生。2021年度〈グルマン世界料理本賞〉受賞作。
著者はあるとき、ユーゴスラヴィアの独裁者チトーの料理人についての映画を見て、歴史上の独裁者に仕えた料理人たちに興味を抱く。そしてついに本物の独裁者の料理人を探す旅に出る。
本書に登場する独裁者はサダム・フセイン(イラク)、イディ・アミン(ウガンダ)、エンヴェル・ホッジャ(アルバニア)、フィデル・カストロ(キューバ)、ポル・ポト(カンボジア)。彼らに仕えた料理人たちは、一歩間違えば死の危険に見舞われた独裁体制下を、料理の腕と己の才覚で生き延びた無名の苦労人ばかりである。著者はほぼ4年かけて4つの大陸をめぐり、たとえ料理人が見つかっても、説得してインタビューに応じてもらうまでが一苦労で、なかには匿名で取材に応じる人もいた。
インタビューを再構成する形で料理人たちの声が生き生きと語られ、彼らの紆余曲折の人生の背後に、それぞれの国の歴史や時代背景が浮かび上がる。各章にレシピ付き
「独裁者の晩餐」といえば、ガブリエル・ガルシア=マルケスの『族長の秋』を思い出します。
いや、思い出したくもないし、フィクションとはいえ、積極的に誰かに伝えたい話ではないのですが、良くも悪くも「とんでもないもの」が独裁者の食卓には乗せられる、というイメージが僕にはあります。
この本、サダム・フセイン(イラク)、イディ・アミン(ウガンダ)、エンヴェル・ホッジャ(アルバニア)、フィデル・カストロ(キューバ)、ポル・ポト(カンボジア)という、5人の第二次世界大戦後の歴史に残る「独裁者」たちに仕え、信頼されていた(であろう)料理人たちが、独裁者たちがどんなものを食べていたのか、あるいは、独裁者の周囲には、どんな人たちがいて、独裁者に消されないために、どんな立ち回りをしていたのか、が語られています。
ひとことで「独裁者」と言っても、ウガンダのアミン、カンボジアのポル・ポト両氏のように「大勢の人を殺戮した、人道的犯罪者」とほとんどの人にみなされている権力者もいれば、サダム・フセイン、フィデル・カストロ両氏のように「地域の事情も考えると功罪あって、悪人と確信するのは躊躇われる権力者もいます(アルバニアのエンヴェル・ホッジャ氏については、僕はほとんど知識がないので保留)。
「たくさんの人を殺した独裁者」という観点でいえば、毛沢東やスターリン、ヒトラーなどのほうが「大物」ではありますが、彼らに関しては、厨房の当事者に直接話を聞くことが難しかったのかもしれません。
ちなみに、「北朝鮮の料理人」にも取材はしたそうなのですが、この本には未収録です。
なんでも好きにできたはずの権力者たちなのですが、この本を読むと、日替わりのすごく豪華な晩餐をしていたわけではなく(もちろん、その地域の食糧事情を考えると、かなりの贅沢はしていたようですが)、自分の故郷の料理や、お抱えの料理人がつくったお気に入りのメニューを口にすることが多かったのです。
そして、食事の際には、つねに「毒殺」のリスクがあって、それを実行するのが可能な料理人は、独裁者と距離が近く、信頼が大きかったのと同時に、疑われ、告発されやすくもありました。
サダム・フセインの料理人の項より。
だからサダムのための仕事の大半は、機嫌のいい日を察して、その日に何か好物を作ることと、そうでない日は近づかないことだった。いや、サダムにひどい仕打ちをされるんじゃないかとい不安はなかった。だが機嫌の悪いときに何か口に合わないものがあると、肉か魚の代金を管理部の窓口に返せと言いかねなかった。そういうことが実際に何度もあったんだ。たとえば何かを食べて、塩が利きすぎだと思うと、私を呼びつけた。
『アブー・アリ、ティッカにこんなに塩をかけたのはどこのどいつだ?』となじった。
(中略)
だが数日後、サダムの機嫌が良くなると、私の給料から代金を差し引いたことを思い出して、カーミル・ハンナーにこう言った。
『今日はアブー・アリがすばらしいレンズ豆のスープを作ってくれた。塩加減がちょうどいい。この間差し引いた分を返してやれ、そこにもう50(ディナール)足してやりなさい』
この間のスープと今日のスープは何も違わなかったかもしれないが、サダムはそういう人だった。次に何を言いだすか、見当がつかなかった。差し引くときもあれば、返してくれるときもあった。月末にはいつも給料分を上回っていた。
(中略)
それから年に一度──君はうらやましがるだろうね──サダムは我々ひとりひとりに新車を買ってくれた。毎年違う型だ。私は三菱も、ボルボも、シボレー・セレブリティも持っていたよ。その日、管理部が我々から古い車のキーを集めて、新しい車のキーをくれた。だれにも何も訊かれなかった。出勤して、退勤するときには、ガレージに新車があったんだ」
機嫌が変わりやすく、何を考えているかわからない。褒められたり、罰せられたりすることはあるけれど、トータルでは、給料分を上回っている。そして、無事に勤めていれば、他者に自慢できるような、豪華なプレゼントがもらえる。
サダム・フセインにとって、これは「思いつき」だったのか、「人心掌握術」だったのか?あるいは、その両方だったのか?
身近な料理人にとってのサダム・フセインは、タチの悪い冗談で周りを困らせることもあるけれど、基本的には気まぐれで気前のいい主人だったようです。
サダムの息子、ウダイとクサイもひどいもので、特にウダイはひどかった。あるときウダイが街中を車で走っていると、兵士と手をつないで歩いている娘が目に入った。彼は車を停めてその娘を誘拐し、兵士の方はボディーガードが連行した。ウダイはこの娘を好きなようにし、娘は直後に自殺した。婚約者は射殺された。
ウダイは素手で人を殺せた。配下の者が気に入らないことをしたとき、みずから殴った──たいていは金属棒で足の裏を。たとえば彼の料理人のひとりがそういう目に遭った。私の知っている男だ。ウダイはそいつの作った料理が口に合わないと言って、意識不明になるまで殴りつけたんだ。
フセインのふたりの息子は私たちのいる宮殿によく来ていた。ウダイは私に出くわすたびに、もし親父がお前らを保護していなければ、全員殺してやるんだがという例の目つきでこっちを見たものだ。
ティクリーティの一族全員のうち唯一善良な人物がサダムだった。ああいう連中の間で彼はどうやって生き延びたんだろうね」
料理人たちの話を読んでいると、「独裁者」本人よりも、独裁者の身内や、独裁者に気に入られようとして取り入ったり、他者を蹴落としたりしようとする人たちのエピソードのほうが印象に残るのです。
サダム・フセインも、長年信頼していた友人が息子に殺害されてしまい、その際には息子を収監したのですが、間もなく、解放し、罪をゆるしてしまいます。
独裁者にとっては、独裁者でいることそのものが危険で、信頼できる(可能性が高い)のは身内(親族)しかいない。
ところが、親族は血縁で得た権力に酔ってしまい、やりたい放題で、一族の権力を脅かす長年の盟友を排除してしまう。
そうなると、なおさら、身内しか頼れない独裁者は、身内を「見逃す」しかなくなるのです。
独裁者の周囲への猜疑心はどんどん増していき、粛清が続いていく。
使用人も、一度甘い汁を吸ってしまうと「お気に入りのあいつがいなくなれば、自分がもっと寵愛されるのではないか」と「ライバル」を蹴落としにかかる。
料理人たちは、政治的な権限や地位はないけれど、権力者の「側近中の側近」として、権力争いに巻き込まれることも多いのです。
というか、この本に出てくる料理人たちは、みんな、「権力者の心変わりや誤解、同僚からの告発」あるいは「権力者の交代」によって、程度の差はあるものの、命の危険にさらされています。
ウガンダでミルトン・オボテ、イディ・アミンの両大統領の料理人だったオトンデ氏は、こんな話をしておられます。
オボテは厨房に何かを注文するための特別な呼び鈴を持っていた。呼び鈴を鳴らして、私以外のだれかが来ると、『何の用だ? オトンデが来るべきだ』と言った。
だから、たとえ肉を切っている最中でも私が行った。エプロンをきれいなのに替え、布巾で手を拭き、かつてメンサヒブのもとに駆けつけたように走っていった。するとオボテは新聞から目も上げずに、『チャイ』と言った。紅茶だ。それで熱い紅茶を持っていくんだが、私には他の誰も思いつかなかった専売特許があった。朝、仕事を始める際に、紅茶にぴったりのほろほろしたクッキーを焼いておくんだ。首相が紅茶を所望するたび、私はティーカップと共に、焼き立ての香ばしいクッキーをいくつか小皿にのせて持っていった。これは私のトレードマークだった。頼まれたことだけをするんじゃなく、次に何が必要になるか予測せよ。おかげで仕事の節約にもなった。なぜなら五分後にまたエプロンを替え、手を拭いて、甘いものを持って馳せ参じなくてもよかったから。あるいは、クッキーを昼日中に焼いて、30分無駄にせずに済んだから。
年を経るごとに事態は悪化した。宮殿のだれもが命を落とした人を知っていた。我々が直接知っていた人たち──オボテ時代の大臣やUPC(ウガンダ人民会議)の政治家──は跡形もなく姿を消した。その後、手足と耳と舌を切り落とされた死体となって見つかった。
そんな怪物のためにどうやって料理を作れたのかと訊くんだね。そうだな、私には四人の妻と五人の子供がいた。アミンに束縛されていたから、逃げられなかった。いつ、そうされたのかも気づかなかった。彼の金なしでは立ち行かなかっただろう。私は完全にアミンに依存していて、向こうもそれを知っていた。同じように彼は、ボディーガードや大臣や友人たちも自分に依存させたんだ。
それに私は、アミンに殺される人々をどうやっても助けられないと知っていた。だってどうすれば? アミンを毒殺する? そうなれば私も命を落としていたはずだ。それに次の大統領がもう人殺しはしないと、どうやって信じられる?
ちょっと気が利いて、大統領に気に入られる料理人だったオトンデ氏は、「人食い」とおそれられたクーデタ―で政権を握ったアミン大統領のもとでも仕事を続けています。
後世、観客席から独裁者のひどい行状をみている僕などは、「なんでそんなヤツを誰も止めなかったのか?そんな権力者に尽くしていたのか?と問いたくなるのですが、「その場」で、権力者から恐怖と恩恵を与えられている状態では、「自分自身や家族が生き延びること」しか考えられなくなってしまったのです。
「独裁者の使用人」ではなくても、「会社の指示で」とか「業務成績を上げるために悪いこととは知りながら」という理由で「悪いこと」をやってしまう人は、大勢いるのです。というより、その状況下で、「自分の正義を貫いて命をかけたり、仕事(収入)を失う」という選択ができる人は、ほとんどいないのではなかろうか。
独裁者の側も、暗殺やクーデターの恐怖におびえ、アメとムチを使い分け、「あの人は何をやるかわからない」と周囲に思わせるようなふるまいをしていきます。
どんな独裁者でも、人間であるかぎり「食べる」という行為から逃れることはできないわけで、この本には、独裁者と呼ばれた人々の「人間らしい、親しみを感じる一面」も描かれています。
それと同時に「権力者のそばにいることの恍惚と不安」も伝わってくるのです。
人は、独裁者として権力を握るのではなく、誰でも、権力を握り続けると「独裁者的」になっていくしかないのかもしれません。
読んでいて、「どこまで彼らは『真実』を話しているのだろうか?」とも、思いました。
ほとんど、嘘ではない。けれど、「言えないこと」「自分を守るために記憶から消してしまったこと」の存在も伝わってくるのです。
そんな「人間が歴史を当事者として語ること」の難しさを感じることも含めて、とても味わい深い証言集です。