戦後、無になった日本へ追い打ちをかけるように現れたゴジラがこの国を負に叩き落す。 史上最も絶望的な状況での襲来に、誰が?そしてどうやって?日本は立ち向かうのか―。
2023年映画館での鑑賞20作目。 公開初日の夕方からの回で、奮発してDOLBY CINEMAで観てきました。
観客は僕も含めて100人くらい。
ものすごく公開を楽しみにしていた、というよりは、庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』のあとに、「素晴らしい特撮技術に、説明的なセリフとベタな展開」の山崎貴監督が、どんな『ゴジラ映画』をつくったのだろうか?という、やや意地悪な興味もあり、公開日に観てきました。
ちょうど公開日に、DOLBY CINEMA上映をやっている映画館の近くに行く予定もあったので。
家のテレビで配信されてから観るよりは、映画館でゴジラの姿を見て、大音量の咆哮を聴いたほうが盛り上がる映画であることはまちがいありません。
ただ、DOLBY CINEMAの差額分の価値があるかと問われたら、僕自身は普通の上映で十分だったと思いました。
この映画のゴジラ、かなり迫力があるんですよ。重量感も理不尽なまでの強さも伝わってくるし、口から吐き出すビーム(放射能火炎?)は、核兵器を想像させる威力があります。「感情」のようなものは表さず、ただひたすら、目の前にある邪魔なものを排除する怪物。個人的には、人間の味方になったり、優しさをみせるゴジラよりも、こういう「初期っぽいゴジラ」のほうが好きです。
というか、この『ゴジラ−1.0』は、1954年公開の第1作の『ゴジラ』を現代のSFX技術で再構築したような作品だと感じました。
映像作家、特撮監督としての山﨑貴さんには信頼を置いているのですが、ストーリーテラーとしては、あまり好きではないのです。
この『ゴジラ−1.0』を観ながら、僕は何度も、「シンジ、エヴァに乗れ。乗らないなら、帰れ」という碇ゲンドウさんの言葉を思い出していました。
主人公の元特攻隊員・敷島はそういう「観客を苛立たせるキャラクター」として描かれていて、それを見事に演じきっている神木隆之介さんは凄い役者なのでしょう。
でもなんかもうめんどくさいヤツなのに浜辺美波さんに居着かれて、その関係もはっきりせず、大変もどかしくはあります。
登場人物の多くが説明的なセリフとオーバーアクト気味でもあり、これは山崎貴さんの作風なのか、昔の『ゴジラ』をあえて踏襲して、「太平洋戦争後すぐの日本」っぽく見せるために、あえてやっているのかよくわかりません。
この『ベスト・オブ・映画欠席裁判』という本の『ALWAYS 三丁目の夕日』の回で、こんなやりとりがありました。
ガース(柳下毅一郎さん):いや、どうも監督は「全部セリフでわかりやすく説明してやらなきゃ観客にはわからないんだ」と信じてるみたい。だって、子供が自動車に乗せられて去った後、吉岡は少年が書き残した手紙を見つけるんですが、そこには「おじさんといたときがいちばん幸せでした」って書いてあって、それが子供の声で画面にかぶさるんですよ!
ウェイン(町山智浩さん):そんなもん、金持ちの息子になるのに憂鬱そうな子供の顔を見せるだけで充分だろうが! どうしてセリフで観客の心を無理やり誘導するんだ?
ガース:誘導どころか無理やり手を引っ張って、「ハイ、ここが泣くところです!」って引きずりまわしているみたいなもんです。観客に自主的に考えさせる隙をいっさい与えないんですよ。
ウェイン:最近の小説やマンガもみんな同じだけどね。「悲しい」とか書き手の感情がそのまま書いてある。それこそ夕日や風景に託して言外に語るという和歌や俳句の伝統はどこへ行っちゃったんだ?
相変わらず説明的なセリフが多く、かえって白けがちなのですが、イヤミばかりのおばさんが急にいい人になったり、自立心旺盛で気が強そうだった浜辺美波さんが、次のシーンでいきなりデレデレになったりもして、バランスが悪い。
観る側は、「終戦直後の日本は、みんな生きるために突然『転向』していった……ってことかな……」と脳内補完を求められます。
あれこれと理由をつけて、政府は情報を隠蔽し、米軍は直接ゴジラとは戦わない、だから、みんなの力で、という方向に持っていっているのですが、あれだけ東京がやられたら、さすがに米軍も放ってはおかないのでは……
これはこれで、「今の(2023年の)日本国民たちは、なんでも『他人のせい』『世の中のせい』『政府のせい』にして、まずは自分たちの力でできることをやろうという気概を失ってしまっているのではないか」という警鐘のようにも思うのです。
どんなに「命は大事です。自分を傷つけてまで、他人のために何かをやるなんてバカバカしい」というメッセージがSNSで拡散されても、現実には「みんなのために、誰かがリスクを覚悟でやらなければならない事例」は存在しているし、それをやろうという人も(今のところは)いてくれる。
とはいえ、特攻賛美、みたいになってはいけないから、「生きろ!」という『もののけ姫』みたいなメッセージも混ぜられていて、「で、どっちなの?」みたいな宙ぶらりんな気分にもなるんですよね。
その「どっちかわからない時代の均衡点みたいなところを、みんな生きているんだ」と言いたいのだろうか。
僕は「圧倒的に強くて怖くて神々しい『ゴジラ』が街を破壊しまくり、人々を虫けらのように踏み潰していくシーン」が見たいのであって、「戦争は終わっていない問題」は隠し味としては「あり」なのかもしれないけれど、ここまで前面に押し出されてくると、何万人も死んでるのに、自分のトラウマの清算を優先するなよ……と感じてしまいます。
『三丁目の夕日』や『永遠の0』『ダンケルク』『シン・ゴジラ』を思い出させる要素もあり、過去の作品へのオマージュも込めつつ「原点回帰」した2023年の『ゴジラ』であり、「何を考えているのかわからなくてやたらと強い『ゴジラ』の凄み」は伝わってくるのです。
その一方で、ゴジラが出てこない人間ドラマのシーンは陳腐で退屈ではありました。2時間ゴジラが暴れ回る映画というのは、観客も飽きるしお金もかかるし無理なのはわかる。そして、『シン・ゴジラ』で、2010年代のスタイリッシュな「お役所ドラマ」をやられてしまった後では、差別化のためには、むしろ「最初の『ゴジラ』の時代」に寄り添うしかなかったのかもしれません。
そして、僕がネチネチ言っているほど、今の観客は、山崎監督の作風に違和感は持っていないような気もするのです。
最近は「察することを求められるより、過剰なくらいに説明してくれる、ハッピーエンド、もしくは『ちゃんと泣かせてくれる』映画」をみんな観たがっている。正直、僕だって、映画を観てモヤモヤした気分にはなりたくないなあ、って思うようになっている。
もしかしたら、「仮面ライダー俳優がイケメンスターやグラビアに出てくるヒロインなのが当たり前」な時代を生きてきた若年層には、こういう「ドロドロとした、『昭和』や『太平洋戦争』を引きずった特撮映画」は、かえって新鮮なのだろうか。
何はともあれ、この映画が大ヒットすることで、また今後も『ゴジラ』映画が作り続けられていくのであれば、それはそれで良かったな、とも思っています。
あと、音楽はすごく良かった。というか、あのテーマ曲が流れるだけで、つい「許す!」って気分になってしまうのです。
しかし、今の日本にゴジラが襲来したら、とりあえず増税されそうだな……