- 作者:佐藤 優
- 発売日: 2021/05/10
- メディア: 新書
Kindle版もあります。
プーチン、習近平、トランプ、ヒトラー、スターリン……権謀術数が蠢く政治の世界で、「悪」と謗られる男たちがなぜ権力を掌握することができたのか。佐藤優が読み解く、独裁者たちの手腕と人間力の神髄!
歴史を学んで、「独裁者」たちがやってきた酷い所業を知ると、「なんでこんな人が、権力を握ることになったのだろう?」と疑問になるのです。
ヒトラーやナチスは、第二次世界大戦後の世界で「悪の象徴」であり続けているわけですが、いまのドイツ人たちの先祖の多くは、あの時代にヒトラーを支持していたんですよね。もちろん、消極的に、だったのかもしれないけれど。
プーチン、習近平、ドナルド・トランプ、金正恩、バッシャール・アル・アサド(シリア)、エンベル・ホッジャ(アルバニア)、アドルフ・ヒトラー、毛沢東、スターリン、カダフィ大佐、金日成(以上、敬称略)という11人の独裁者について、佐藤優さんが紹介した本なのですが、佐藤さんは、彼らを「こんな酷いことをした悪人たち」というスタンスで論じているのではありません。
彼らが権力を握ったのには、それなりの理由があるし、行った「悪事」についても、結果的にはその時代に政治的な安定をもたらすためには必要だったものもある、と評しているのです。
そして、彼らは、他人を見下し、弾圧するだけの権力者ではなく、人間的な魅力を垣間見せることもあったのです。
独裁者、といっても、ここに出てくるような20世紀以降の権力者たちは、少なくともその権力を握るまでの過程で、国民、あるいは属している組織からの圧倒的な支持を得ています。
『北斗の拳』のラオウのような、「個人の圧倒的な力だけで、逆らうものを徹底的に抑えつけてきた」わけではないのです(いや、ラオウにも人間的な魅力はあるとは思いますけどね)。
ここに出てくる11人のなかで、もっとも知名度が低いのは、アルバニアのエンベル・ホッジャという人ではないでしょうか。
この本の「はじめに」で、佐藤優さんは、こう書いています。
私が20世紀の独裁者の中で最も興味を持っているのが、アルバニアに君臨したエンベラ・ホッジャである。
ホッジャは1941年にアルバニア共産党を創設、イタリア・ファシスト軍とナチス・ドイツ軍を相次いで撃退したのち、1944年に新生アルバニアの首相に就任すると、理想の共産主義国家の建設に邁進する。鉄の意志でマルクス・レーニン主義を貫き、スターリンの方法論に忠実であろうとしたホッジャは、そこからブレたと見るや、大国のソ連や中国と大げんかすることも躊躇しなかった。いかなる「修正主義者」たちの存在も許さず、かつての同志ですら抹殺し尽くした。アルバニアの人民の自由を徹底的に奪い、信仰心をも取り上げて、「世界初の無神論国家」をつくりあげた。事実上の鎖国状態を保ちながら平等を実現させて、決して人民を飢えさせることのない国を守り続けたのだ。ホッジャの死後、アルバニアは少しずつ国を開いていた結果、外からのさまざまな情報がアルバニア国内に入り込み、人々は雪崩を打って海外に亡命した。決して飢えることはない国から、人々は逃げ出したのである。アルバニアという国は内側から瓦解した。市場経済において国際競争力のある商品が何もなかったアルバニアはたちまち経済的にも破綻し、国内は大混乱に陥った。今や国際テロリズムや犯罪の温床となっている。
国民を飢えさせない。誰もが平等に生きられる社会をつくる──。そのためには、パンを10個も20個も独り占めするような自由を許さず、パンを等しく人々に分配しなければならないとホッジャは考えた。エンベル・ホッジャとは、ドストエフスキーの名著『カラマーゾフの兄弟』に登場する大審問官だったのである。そして、ホッジャが構築した楽園は崩壊した。
ホッジャという人は、理想を実現するためには妥協を許さない人だったのです。
そして、彼が厳格にアルバニアを「閉じた世界」にしているあいだは、人々は繁栄や発展を享受できない代わりに、飢えることもなかった。
ところが、ホッジャの死にともなって、外の世界との交流が盛んになると、人々は「飢えないし、内部では平等な国」から、どんどん逃げ出していったのです。
この本のなかで、カダフィ大佐も出てくるのですが、カダフィ大佐が欧米との対話を進めるようになり、リビアへの諸外国の影響が強くなったことで、カダフィ大佐は結果的に権力と命を失い、リビアは今も混乱のなかにあります。
西欧が理想とする「民主主義国家」というのが、どこにでもあてはまるベストの政治形態とはかぎらない。
「ひどい独裁」のあとに、「もっとひどい混乱」に陥ってしまった国はたくさんあるのです。
佐藤さんは、ロシアのプーチン大統領のこんな姿を紹介しています。
ロシアでプーチン大統領と会談予定だった小渕恵三首相が急病で倒れたあと、後継首相の森喜朗さんとの会談を要請するために、鈴木宗男さんがプーチン大統領に会ったときの話です。
プーチンとの会談の席で、鈴木は小渕総理の魂が乗り移ったかのように日露外交のために言葉を尽くしていた。
「この席に小渕さんが座っているように思う」とプーチンが言ったとたん、鈴木の目から涙があふれた。プーチンはしばらくそんな鈴木の様子を見つめていたが、やがてプーチンの瞳からも涙がこぼれ落ちたのである。この席で、森・プーチン会談の日程が決まったことが、その後の北方領土交渉を肯定的に切り開いていくことにつながった。これが政治の力である。
会談が終了し、退室しようとする鈴木にプーチンが声をかけた。
「できればのお願いなのだが」と前置きし、ロシア正教会のアレクシイII世総主教(最高指導者)訪日の際に天皇陛下に謁見できるように働きかけをしてもらえないか、と言う。
「もしも迷惑にならなければ」とプーチンは付け加えた。
鈴木は「全力を尽くす」と約束し、実際にその謁見を実現させた。
プーチンは信頼する相手にしか「お願い」はしない。しかも、無理難題を押し通すのではなく、あくまでも「迷惑にならなければ」という態度で依頼する。
具体的な人間関係を通じて相手の民族や国家を見極め、時に鉄仮面の下に感情をさらけ出し、人の心にぐっと入り込んでくる。
独裁者の多くは、人の心を掴む術に長けている。一方で、自分の地位を盤石なものとするために、敵と見定めた相手には容赦しないのである。
こういう「涙」も、どこまで本物の感情なのだろう?と考えてしまうところはあるのですが(たぶん、佐藤さんも外交の場では、そんなふうに内心身構えてもいたはずです)、こういう「ときおり、ごく近い人には見せる情の篤さ」みたいなものが、人をひきつけるのかもしれません。
独裁者というのは、身近な人には細やかな気遣いを見せることがあるのです。
その一方で、長年の盟友でも、自分の「理想」や「革命」にとって有害だと判断すると、容赦なく「切って」しまう面もある。
佐藤優さんが、以前、キリスト教について語った本のなかで、「神というのは、理不尽で、人間には何をやるかわからないからこそ『神』なのだ」と仰っていたのですが、独裁者というのも、この「神」と同じような存在なのでしょう。
本人がどこまで意識して行動しているのかはさておき。
周りは、わからないからこそ、「信じる」「従う」しかない。
佐藤さんは、ヒトラーの項で、「いかなる独裁者といえども恣意的に自らの意思を押し通すことはできない、本当の意味で全権を有したカリスマ独裁者は、実は、歴史上存在しない」と述べています。
ここで重要なのは、体制のあらゆるレベルで猛烈な競争、すなわち「忠誠心競争」が行われていたという(イアン・カーショーの)指摘である。たとえば、親衛隊(SS)と国防省は重複する課題をヒトラーから課せられ競争し、外交に関してもナチ党の外交部局と外務省は競合関係にあった。それぞれのグループがヒトラーの意向を「忖度」して、競争し、ナチス・ドイツ第三帝国が一枚岩であるという擬制が生じた。
究極の忖度政治がとられるなかで、どの側近グループにとっても、ヒトラーが独裁者のように映ることが自らの利益にかなうようになった。たしかにヒトラーは、アジテーションで人を誘引するカリスマ性を有していたが、同時に周囲の人間はそれを利用したのである。利益を追求する政治エリート、経済エリート、文化エリートの力の均衡をつくり出し、組織化していくことこそが、独裁者の才能なのだ。
(中略)
たとえば、ワンマン経営の社長がいる会社があるとして、その会社が不祥事を起こしたとしよう。すると従業員たちは、「社長は本当にひどかった」とか、「悪いとは思ったけど誰も何も言えなかった」などと口にするだろう。しかし実態は違っていて、不祥事が起こるまでその従業員たちは、ワンマン社長の周りに派閥をつくって、その中で出世競争なり評価なりを得ようとして進んで行動していたはずである。過去の企業不祥事の例を振り返れば、きっと思い当たる節があるだろう。日産の元会長カルロス・ゴーンを側近が手のひらを返して叩きまくったことは記憶に新しい。
構成員がそれぞれのグループの中でうまく立ち回り利益を追求することで、ワンマンなトップの方針は加速度的に助長され、やがて引き返しようのないところに行きつく。ヒトラーもこの例に漏れず、気がつけば独ソ戦という泥沼の中で降りようがなくなってしまったのだ。
ヒトラー「だけ」が悪かったのか?
誰か、何かのせいにしないと、やってられない面はあるのもわかるのです。
あのホロコーストを「人間なら誰でも、置かれた状況によっては、ああいう行為に手を染めてしまう可能性がある」とは思いたくない。僕だってそうです。
ナチスは「最悪の事例」だったとしても、「ナチス未満」の「周りが忖度したり、お気に入り争いをしたりしてしまったゆえにアンタッチャブルになってしまった独裁者」はたくさんいるのです。
日産の例でも、本当にゴーン会長を「悪」だとみなしていて、みんなが協力して追い落とそうとすれば、それは不可能ではなかったはずなんですよ。
「逆らうなんて不可能だった」のは、気持ちはわかるし、僕だって逆らえなかったと思う。
とはいえ、「だから抵抗しなくていい、できないのが当然なんだ」ということにしてしまうと、悲劇は繰り返される。
新型コロナ禍のなかで、「独裁的な政治のほうが、有事に即座に対応できるのではないか」と思いかけていた僕のような人間が、独裁者を生む土壌になるのかもしれない。読みながら、そう考えずにはいられませんでした。