琥珀色の戯言

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【読書感想】イラク水滸伝 ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

権力に抗うアウトローや迫害されたマイノリティが逃げ込む
謎の巨大湿地帯〈アフワール〉
―――そこは馬もラクダも戦車も使えず、巨大な軍勢は入れず、境界線もなく、迷路のように水路が入り組み、方角すらわからない地。

中国四大奇書水滸伝』は、悪政がはびこる宋代に町を追われた豪傑たちが湿地帯に集結し政府軍と戦う物語だが、世界史上には、このようなレジスタンス的な、あるいはアナーキー的な湿地帯がいくつも存在する。
ベトナム戦争時のメコンデルタ、イタリアのベニス、ルーマニアのドナウデルタ……イラクの湿地帯はその中でも最古にして、“現代最後のカオス”だ。

・謎の古代宗教を信奉する“絶対平和主義”のマンダ教徒たち
フセイン軍に激しく抵抗した「湿地の王」、コミュニストの戦い
・水牛と共に生きる被差別民マアダンの「持続可能な」環境保全の叡智
・妻が二人いる訳とは?衝撃の民族誌的奇習「ゲッサ・ブ・ゲッサ」
・“くさや汁”のようなアフワールのソウルフード「マスムータ」
イスラム文化を逸脱した自由奔放なマーシュアラブ布をめぐる謎……etc.

想像をはるかに超えた“混沌と迷走”の旅が、今ここに始まる――
中東情勢の裏側と第一級の民族誌的記録が凝縮された
圧巻のノンフィクション大作、ついに誕生!


 映画『ドラえもん のび太の大魔境』(リメイク版ではない、旧作のほう)が公開されたのは、1982年の3月でした。
 当時、『コロコロコミック』に連載されていた原作漫画の冒頭で、のび太が「人間の手による開発や人工衛星からの観測で、地球上にはもう『秘境』は失われてしまった」と嘆く場面があったのを、この本を読んでいて思い出しました。
 あれから40年、いまや、ネット社会となり、地球上のあらゆる場所を居ながらにしてGoogleマップで見ることができるようになりました。
 もはや、ネットで検索できない「秘境」なんて存在しない、と僕は思っていたのです。
 テレビ番組『クレイジージャーニー』のように、「関係者以外は侵入するのが危険すぎる場所」は存在するとしても。

 この本の紹介の「権力に抗うアウトローや迫害されたマイノリティが逃げ込む 謎の巨大湿地帯〈アフワール〉」というのを読んで、僕は『クレイジージャーニー』的な、あるいは映画『地獄の黙示録』の舞台となったジャングルのような場所を想像していたのです。
 ましてや、あの戦場となったイラク
 まだ、地球上には、こんな「(よく知られていない場所)」が存在していたのか、と感慨深いものがありました。
 いや、みんな(とくに海外の研究者が)が興味を持たなかった場所、というべきなのか。
 「辺境作家」として知られる、どこに行っても地元民に溶け込んでしまう語学とコミュニケーションの達人、高野秀行さんでも、これは危険なのでは……

 日本では、濃尾平野を流れる木曽川長良川揖斐川のデルタ地帯に、かつては権力から独立した人々が住んでいた。織田信長を最も苦しめたという長島の一向宗徒がそれだ。
 イラクの湿地帯はその中でも最古である。なにしろ、至近距離で人類の最初の文明が誕生しているのだ。文明が誕生したとほぼ同時に、文明(国家的な権力)から逃れるアジール(避難所)が出現したのかもしれない。「元祖・水滸伝」といってもいい。
 イラクではそれがつい最近、1990年代まで続いた。反フセイン勢力が湿地帯に逃げ込んで抵抗していたらしい。フセインは怒り、大軍を繰り出して攻めるが、湿地ではどうにもならない。そこで最後にこの独裁者がとった手段は「水を止めること」だった。ティグリス川とユーフラテス川に堰を築き、湿地帯に流れ込む水を文字通り堰き止めてしまった。水がなければ、生活ができない。水の民は都市部や他の地域へ移住を余儀なくされ、何千年も続いた「元祖・水滸伝」は姿を消した──。
 そのように漠然と耳にしていたわけだが、記事によれば、フセイン政権が崩壊した後、なんと住民が堰を壊して水が再び流れこむようになり、湿地帯は半分ぐらい復元されているという。水牛を連れた水の民もある程度は戻ってきているらしい。
 水滸伝、再びなのだ。

 現在は、この巨大湿地帯〈アフワール〉で、組織的な反政府活動が行われているわけではないようですが、イラクにこんな湿地帯があるというのを僕ははじめて知りました。
 

 イラク料理にはどんなものがあるのか。
 真っ先に挙げられるのが「サマッチ・マスグーフ」。これは直訳すれば「焼き魚」なのだが、私たちは「鯉の円盤焼き」と名付けた。
 砂漠のイメージが強いイラクで、鯉が国民的な料理とは意外すぎるが、事実である。その証拠に、私たちは最初の1週間で4回これを食べた。誰かが食事に招いてくれるとかなりの確率で鯉なのである。店にもよるが、だいたい一匹日本円にして1500円〜2000円だろうか。
 鯉は大昔からイラクに存在した。紀元前3000年くらいのシュメール時代では晩秋に起きる洪水を「鯉の洪水」と呼んでいたと粘土板に記されているという。


 高野さん一行は、なんとかツテをたどってイラク渡航し、アフワールでさまざまな人と出会うことになるのですが、地元では「ご馳走」である、この「鯉の円盤焼き」が読んでいるだけでお腹いっぱいになるくらい出てきます。権力に盲従することはないけれど、一度「客人」と認めた人に対するもてなしや気配りといった、湿地の人々の考えかたや文化が伝わってくるのです。
 とはいえ、美味しいとはいえ、同じ料理が、大量にずっと続くというのは、かなり辛そうではありますが。

 イラクの人々は、与えられた状況のなかで、それぞれの暮らしを続けているようにみえます。
 その一方で、フセイン大統領による独裁とアメリカとの戦争がイラクに与えた影響の大きさも垣間見えるのです。

 イラクで命脈を保っている「マンダ教」という古い宗教の司祭の話。

「サダム(フセイン)はどの宗教も宗派も同じように扱った。どんな人でも自分に忠実ならよくて、刃向かうなら弾圧しただけだ。だからセクト間の対立もなかった」
 独裁者の下では宗教や民族による対立は生まれないという皮肉な証言である。その無派閥状態はアメリカによって破壊されたと彼はつけ加えた。


 僕は「自由」や「民主主義」を是とする国、文化の中で半世紀生きてきたので、どうしてもそのシステムを肯定したくなるのですが、アメリカは独裁者を排除することで、イラクの人々を幸せにできたのだろうか?それとも、目先の幸せよりも、長い目でみて理念やシステムを「改善」しようとしたのだろうか、と考え込んでしまいます。


 高野さん一行は、湿地帯の舟大工に船を造ってもらうことをきっかけにして、地元の人脈をつくり、地域に溶け込んでいこうとするのです。
 外部から来た「研究者」というスタンスではなく。

 ずっと湿地帯の舟大工を雑とか適当と言ってきたが、ちょっとちがうのかもしれない。
 これは「プリコラージュ」なのだ。プリコラージュとはフランスの文化人類学クロード・レヴィ=ストロースが提唱した概念で、「あり合わせの材料を用いて自分で物を作ること」とか「その場しのぎの仕事」といった意味であり、文明社会の「エンジニアリング」と対照をなすとされる。
 エンジニアリングではまず設計図を描き、それに従って、決められたパーツを順番に組み立てていく。
 いっぽう、非文明社会のプリコラージュは計画性をもたず、今目の前にある者をとりあえず使う。私も各地でそれを目にしている。
 例えばアフリカのコンゴの村の人たちは、きちんとした槍を作らず、槍の穂先だけ持ち歩くことがあった。必要なときはその辺に生えているヤシの枝を切って柄の代わりにする。柄だけが折れれば新しい枝を見つける。
 また、ミャンマーの山岳地帯に住む少数民族の人たちは、森の中で一夜を過ごす時、竹や木、葉っぱなどを用いて、ものの30分ほどで仮の小屋を作ってしまう。何日ももつものではないが、これで今晩の雨風はしのげる。今とりあえず間に合えば、あとはどうでもいいのである。これがプリコラージュの基本的なスタンスだ。
 アフワールの舟大工の作業は、コンゴの村人の槍やミャンマー少数民族の仮小屋に比べれば、もっと技術や道具を使っているし、できあがったものも長持ちするはずなので、正確にはプリコラージュとエンジニアリングの折衷と言うべきかもしれない。
 プリコラージュは素人仕事とバカにされがちだが、この舟造りを冷静に見ると考えも変わってくる。もし、このタラーデ(舟)をエンジニアリングの手法で造ったらどうなるか。極めて緻密な作業と高度な技術が要求されるにちがいない。時間もかかるはずだ。ちょっとでもミスをすると全てが狂って台無しになる恐れがあるし、一部の特別な職人にしか扱えない代物になるだろう。でも、この方法なら、ある程度経験を積めば誰でも造れそうだ。


 高野さんのノンフィクションは、いつも、「研究成果の発表」のような感じではなく、「どのようにして、その地域や人々に近づき、彼らと生活を共にしたのか」というプロセスが丁寧に書かれているのです。
 この『イラク水滸伝』は、けっこう分厚い本なのですが、頑張って読んでも、「驚くべき新発見!」が出てくるわけではないし、読みながら、「なんかダラダラと長いなあ、ちょっと退屈だなあ」とも感じていました。

 でも、もうすぐ読み終える、という段になって、僕は突然、この本を読み終えるのはもったいない、と感じたのです。
 世界の学者たちが、あらためて書き残そうとは思わなかった、あるいは、興味はあったけれど、うまくアプローチできなかった「ひとつの文化」を、ここまで丁寧に、内側に入り込んで面白く記録したノンフィクションは、極めて稀であり、僕は「何かすごいもの」を、それと気づくことなく読みながしてしまったのではないか、と。

 これは、あくまでも先人の研究の肩に乗った高野さんの目から見た「アフワール」なのだけれど、高野さんは、ちゃんと「自分が見たこと、聞いたこと」を書いているのです。「神や上位者の視点から」ではなく。

 40年前、『のび太の大魔境』を読みながら、僕も「もう世界に秘境なんて存在しないよな」と思ったのですが、どんなにインターネットや人工衛星が発達しても、「人々が目を向けない場所」は、どの時代にもあるのかもしれませんね。
 そして、「人がどう暮らしているのか」は、そこに実際に行ってみないとわからない。


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