- 作者: 楠部三吉郎
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2014/09/01
- メディア: 単行本
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内容(「BOOK」データベースより)
アニメ「ドラえもん」を始めた男。アニメ誕生35年目に初めて明かされた舞台裏。「銀座のさんちゃん」が心から贈る最初で最後の感謝状。
『シンエイ動画』の創業者であり、現名誉会長の楠部三吉郎さんが、アニメ『ドラえもん』の歴史と、『ドラえもん』を支えてきた人々を語ったものです。
アニメ制作会社の社長さんなのだから、楠部さん自身もマンガやアニメが大好きで、自分で絵を描いたり、制作者に指示をしたりしていたのではないかと思いきや、潔いくらい、楠部さんが「自分はクリエイターではなくて、セールスマンなのだ」と強調しておられます。
「先生、独立したんですが、何もやることがありません。この先、どうなるのかもわかりません。でも企画を立ち上げたい。そこでお願いですが、『ドラえもん』をアニメ化させてもらえませんか? どうか『ドラえもん』をボクにあずけてください!」
1977年秋、私は、新宿は十二社にある藤本弘先生——藤子・F・不二雄先生の事務所にいました。
先生はしばらく黙っていました。
即答してもらえなかったのには理由があります。
『ドラえもん』というのは、先生のアニメ化された作品の中ではある意味特別な存在で、1973年4月から日本テレビ系で放送されたものの、視聴率7%という散々な結果。わずか半年で打ち切られてしまっていたのです。
私は生粋のアニメーターじゃありません。アニメーターであったこともないし、目指したこともない。アニメやマンガのファンですらありません。何者かと問われたら、セールスマンというしかない。『巨人の星』の作画監督などをやっていた兄(楠部大吉郎)の誘いで、営業マンからこの世界に飛び込んでいました。
最初に所属したのは、アニメ制作会社の東京ムービー。
楠部さんは、当時所属していたプロダクションの内部紛争などに巻き込まれ、独立して『シンエイ動画』を設立することになります。
(もとの会社が『Aプロダクション』という名前だったので、新しいA、『シンエイ動画』という名前になったそうです。
独立はしたものの、仕事がなくて困っていた楠部さんが白羽の矢を立てたのが、東京ムービーでアニメ作品を手掛けていた藤子作品だったのです。
これを読んでみると、『ドラえもん』は人気マンガではあったものの、一度アニメ化に失敗しており、藤子・F先生もそのことを気にかけていたことがわかります。
生真面目で趣味は読書や映画鑑賞、あまり社交的ではなかった藤子・F先生と、毎晩銀座に繰り出して女性たちにモテ、遊び一般に通じていた楠部さんというのは、水と油のような組み合わせだな、と思いながら読んでいたのですが、藤子・F先生は、楠部さんのことを深く信頼していたようです。
自分にないものを持っている人だと感じていたのか、愛すべき人物だと思っていたのか、楠部さんの義理堅さに感銘を受けていたのか。
楠部さんが『ドラえもん』の再アニメ化を藤子・F先生に認めてもらうために、あの高畑勲さんが一肌脱いだ、なんていう話も紹介されています。
楠部さんがようやく藤子・F先生に再アニメ化の許可を得て、お礼に小切手を持っていたときの話。
先生は怒ったね。
後にも先にも、形相も口調も変わるような怒りは、この時が最初で最後でした。
先生の怒りはしかし、静かで悲しい怒りだったのです。
「楠部くん、僕はあなたにレポートを出せと言ったこと自体、大変失礼なことだと思っているんです。いままで自分の作品は、良縁に恵まれてきました。『オバQ』にしても、『パーマン』にしても、みな幸せな家庭へ嫁に出すことができました。でも、『ドラえもん』だけは出戻りなんです。さんざんな仕打ちを受けて戻って来た、かわいそうな娘です。でも僕にとっては目の中に入れても痛くない、かわいい娘なんです。だからもし、もう一度嫁に出すことがあったら、せめて婿は自分で選ぼうと、そう決めていました。それで、失礼は承知の上で、レポートを書いてもらったんです。そして、私があなたを選んだ。私が選んだ婿から、お金を取れますか?」
この時、私は藤本弘という男に惚れていました。
「あなたにあずけるのに1年間なんて期限は切りません。日の目を見なくたっていい。楠部くん、『ドラえもん』はあなたにあずけたんです」
これ、読んでいた僕も涙が止まらなくなりました。
傷ついた「出戻り娘」が、いまでは、藤子・F先生のたくさんの娘たちのなかでも、いちばんみんなに愛されているのですから、わからないものですね。
藤子・F先生は、人を見る目があったのだなあ。
いまは春休みの恒例となっているドラえもん映画の第1作が『のび太の恐竜』になった経緯も紹介されています。
新宿の事務所に早速出向きました。
かくかくしかじか、長編アニメの件を伝えると、先生、快諾すると思いきや、予想に反した答えを返してきたのです。
「楠部くん、僕は短編作家です」
藤本先生、どこまでも謙虚なのです。ようするに、長編マンガを描いたことがないと、控え目に断ってくる。確かに映画にするのは、長編の原作が必要でした。一話読み切りのドラえもんには該当する作品がありません。
「先生、ボクは先生が短編だけの作家だなんて思いません」
アニメが映画化されるということは、『ドラえもん』がさらに大化けするチャンスです。正直、逃してなるものか、と思いました。
先生に懇願しながら、咄嗟に、頭の中であるひとつのマンガが思い浮かびました。
「先生、そうです。ピー助です。ボクは、あのピー助が、白亜紀に行った後、どうなったのか、非常に興味を持っています。あの続きを描いていただけませんか?」
この咄嗟の思いつきが、『のび太の恐竜』、そして、ドラえもん映画を生んだのです。
もちろん、当時のドラえもん人気を考えると、なんらかの形で映画化された可能性は高いとは思いますけど、こんなに成功したかどうかはわかりません。
僕が子供の頃、観に行きたい!と自分から親に頼んで映画館に連れていってもらった最初の映画が、この『のび太の恐竜』なんですよ。
楠部さん、『クレヨンしんちゃん』の連載でネタにされてしまったこともあるそうです。
<(株)シンエイ物産社長・巣苦辺三和郎 自分の射程距離内に入った女は必ず触る別名スケベシャチョー>
「私は女性のおしりを触り続けて58年!! 触りすぎたおかげで今ではすっかり指紋がなくなってしまったよ ムッヒッヒッヒッヒッ」
なんてスケベ丸出しの自慢発言。マンガの中では、若いホステスのお尻を触って、「なにすんじゃい、このエロハゲ」とホステスから「ばしっ」と叩かれています。
いやー、笑わせてもらいました。ほとんど事実ですから反論のしようがありません。
こんなふうにネタにされて、それを自分自身でも笑い飛ばせる人なんですよね、楠部さんって。
正直、ちょっとうらやましいような気がします。
いや、そんなにお尻を触りたいわけじゃないですよ。
『大人だけのドラえもんオールナイト』というイベントでの藤子・F先生と大人のファンとのやりとりなども、読んでいてなんだか嬉しくなってきます。
ああ、僕を幸せにしてくれた藤子・F先生も、こうして、映画の『ドラえもん』を一緒に観ることができて、すごく幸せだったんじゃないかな、って。
『ドラえもん』と藤子・F・不二雄先生が大好きな僕には、魅力あふれる本でした。
『ドラえもん』の四次元ポケットには、作った人たち、そして、観ている人たちの幸せがいっぱい詰まっている、そんな気がします。