琥珀色の戯言

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【読書感想】スポーツウォッシング なぜ<勇気と感動>は利用されるのか ☆☆☆


Kindle版もあります。

「為政者に都合の悪い政治や社会の歪みをスポーツを利用して覆い隠す行為」として、2020東京オリンピックの頃から日本でも注目され始めたスポーツウォッシング。
スポーツはなぜ”悪事の洗濯”に利用されるのか。
その歴史やメカニズムをひもとき、識者への取材を通して考察したところ、スポーツに対する我々の認識が類型的で旧態依然としていることが原因の一端だと見えてきた。
洪水のように連日報じられるスポーツニュース。
我々は知らないうちに”洗濯”の渦の中に巻き込まれている!

「なぜスポーツに政治を持ち込むなと言われるのか」「なぜ日本のアスリートは声をあげないのか」「ナショナリズムヘテロセクシャルを基本とした現代スポーツの旧さ」「スポーツと国家の関係」「スポーツと人権・差別・ジェンダー・平和の望ましいあり方」などを考える、日本初「スポーツウォッシング」をタイトルに冠した一冊。


「スポーツウォッシング」という言葉を耳にしたことがありますか?
僕は最近ときどき出てくるこの概念に対して、「何をいまさら」としか思えないのです。

僕自身、50年も「運動音痴」として生きてきて、「スポーツ強者の傲慢」には、子どもの頃の外遊びから学校の体育の時間、大人になってからの休日のソフトボール大会まで、うんざりし続けてきたのです。
イジメをやったり、運動ができない人をバカにしたりする「スポーツマン」もたくさんいたし。

基本的に、スポーツを観るのは大好きなのは矛盾しているのですが、子どもの頃は、高校野球の中継をみながら、「この高校生たちの大部分は、人生のピークが10代半ばになってしまうのだな」と思っていました。
大人になってあらためて考えてみると、「甲子園に出た」というピークがあるだけたいしたもので、僕の人生なんて、長い下り坂をだらだら歩き続けているようなものです。書いていて悲しくなってきた。

WBCで優勝した日本代表の選手たちは凄かったし、僕も翌日くらいまで大変良い気分で過ごせましたが、日本全体の歓喜の輪をみながら、「すごいのは大谷翔平選手や栗山監督や代表の選手たち個人やチームであって、『日本』という国でも、ましてや僕でもないんだよな」とも思っていました。大谷選手が1年間に100億円の契約をしても、僕に1円でも入ってくるわけではないですし。

「同じ日本人」とはいうけれど、それならみんな同じ地球人じゃないか、と思うレベルに「他人」なんですよ。
だからといって、中継を観ていれば「応援」はするんですけどね。どちらかというと「緊張感がある、すごい試合をみたい」というのが国際試合への期待です。

僕は長年のカープファンで、カープの躍進は嬉しかったのだけれど、その一方で、「やっぱり選手たちは『自分のため』に野球をやっているんだな」と思い知らされることもありました。チームスポーツの場合は、逆転サヨナラ勝ちして喜んでいるファンもいれば、サヨナラ負けしたほうのファンは、落胆しているわけです。
阪神タイガースの優勝は、それ以外のチームが優勝できなかった、ということです。
X(Twitter)などで、その「両側」をみていると、勝っても負けても、いたたまれない気分になってきます。
いや、それは嘘だな。僕の場合、勝てばうれしいし、負ければブロック機能が活躍することになります。

そもそも、選手の不倫や暴行、イジメなどが報じられまくった2023年に、本気で「スポーツは、クリーンですばらしい」と信じている人が、そんなにいるのだろうか?
「ああ、野球などのスポーツに限ったことではないけれど、若い頃からひとつのことに全力を集中してきたり、活躍すればちやほやされる環境で生きてきた人は、人が傷つくことに無頓着になりやすい、あるいは善悪の概念が欠落してしまうことがあるのだな」
2023年は、それを、多くの人があらためて思い知らされた年ではありました。

とはいえ、「何も応援しない、所詮は他人事」と割り切って生きていけるほど、強くもなれない。

スポーツは、人々の感情を揺り動かすことができるだけに、さまざまな「宣伝の道具」として利用されやすいのです。

 (2022年の)北京の冬季オリンピックでは、中国政府の抑圧的な人権政策への批判として、開会式の外交的ボイコットという手段をとる国が続出した。さらに、オリンピック閉会式の数日後、パラリンピック開会式前の2月24日にロシアがウクライナ領土へ侵略を開始したことが休戦協定に反するとして、ロシアとベラルーシパラリンピック選手団は出場禁止処分となり、すでに現地入りしていた選手たちは大会に参加せず帰国することになった。
 スポーツの熱狂で、人々の関心や意識をこれらの大会の問題から目をそらせようとしている、として用いられた言葉が、「スポーツウォッシング」だ。
 この用途を説明する際には、米パシフィック協会で、自らもオリンピックのアメリカサッカーチーム代表という経歴を持つジュールズ・ボイコフ氏の論述が援用されることが多い。ボイコフ氏の文章は用語の定義としてとても簡潔で良くまとまっている。ここでもまず、それを引用しておこう。

「オリンピックが、開催地がスポーツ・ウォッシングをする絶好の機会になっているのは、歴史が証明している。スポーツイベントを使って、染みのついた評判を洗濯し、慢性的な問題から国内の一般大衆の注意を逸らすのだ」(『オリンピック 反対する側の論理』作品社)

 スポーツウォッシングという言葉は、オリンピック批判にのみ使用されるわけではもちろんない。
 人々の興奮と共感と感動を集める大規模スポーツ大会のソフトパワーをテコにして、開催地に都合の悪い事実をヴェールの下へ覆い隠してしまおうとする行為には、押し並べてスポーツウォッシングという指摘があてはまるだろう。これに利用されるスポーツ大会は、ゴルフや競馬からモータースポーツ、サッカー、そしてオリンピックまで実に多岐にわたる。また、スポーツウォッシングを使って自らに都合の悪い事実を洗い流そうとする国家や政権は、独裁国家権威主義的体制に限ったことではない。


「スポーツウォッシング」の歴史上の代表例として、ヒトラーナチス政権下での1936年のベルリンオリンピックが挙げられています。

 ヒトラーが敗北したことを知っている2023年の僕からみれば、あのベルリンオリンピックは、「まさに典型的なオリンピックを利用した国家の宣伝、イメージ戦略」=「スポーツウォッシング」だと思います。
 しかしながら、当時出場していた選手たちは、少なくともドイツとその衛星国の選手を除けば、結果を出すために全力で競技をやっていたのでしょうし、リアルタイムでみていた人たちは、すっかり「洗濯」されてしまっていたことが紹介されています。

ニューヨーク・タイムズ」は「ヒトラーは今日の世界において、最高では無いとしても屈指の政治的指導者だ。ドイツ国民はさんざん悪くいわれているが、人を温かくもてなしてくれる、実に穏やかな人びとで、世間から称賛されてしかるべきだ」(1936年8月16日)、「訪れた人びとの心に深く刻まれたのは、素晴らしい親切、細やかな思いやり、丁寧なもてなしを受けたという印象だった」(同)などの記事を掲載していたことを、ボイコフ氏は著書『オリンピック秘史』(早川書房)の中で紹介している。
 余談になるが、ナチスにあまりにもあっさりと<洗濯>されていいように手玉に取られてしまうマスメディアの姿は、東京オリンピックが近づくにつれて礼賛報道一色に染め上げられていった2021年の日本のスポーツ報道を見ているようでもある。


 2021年の東京オリンピック開催への評価は、新型コロナウイルスの流行下でもあり、「そもそもやるべきだったのか」と直前まで言われ続けていましたが、競技が始まってみると、「こんなつらい時期に感動をありがとう!」みたいな報道が多かったような気がします。
 とはいえ、新型コロナウイルスという予想外の因子が加わってしまったがために、困惑のまま終わってしまった、という印象が僕には強いのです。
 実際、長年努力してきた世界のトップレベルの選手たちが、「目標」に向かって闘う姿は、否定しづらいものがありますし。

 競技者たちに罪はない、という考え方もあるでしょう。
 でも、最近のオリンピックでは「プロ選手の出場」が増えてきていますし、アマチュア資格のまま、CMなどで高収入を得ている選手も少なくありません。
 
 なぜ、スポーツ選手が「稼げる」かというと、有名な選手は、国家や企業の宣伝やイメージ戦略のために大きな価値を持っているから、ではあるのです。
 「中継料を払ってくれる大国の人々が見やすい時間に決勝をリアルタイムで放送する」という商業的な理由で早朝や夜中に競技が行われたり、国家の英雄として利用されたりするのは「おかしい」と思う人も多いはずです。

 それはそうなのだけれど、じゃあ、誰もいないスタジアムで、スポンサーもつかず、報酬も得られないのに、人生を賭けて世界のトップに立とうとするのは、選手にとっては、あまりにも不毛(あるいは気高すぎる行為)ではあります。

 あまりにも露骨な、ナチスの宣伝とか、国家的なドーピングでのメダル獲得とかは論外としても、法を遵守してオリンピックで活躍した「自国の英雄」みたいな存在まで、「スポーツウォッシング」として断罪されるべきなのか。

 もちろん、著者は、そこまで責めよう、という姿勢ではないのですが、海外のスポーツ選手が「人権」や「政治」に対して発するメッセージに比べて、日本の選手はまだ、その影響力を使って「発信」することに消極的であることを指摘しています。

 そしてここで自らの無知と不明を告白しなければならないのだが、これらの事実を重大な人権問題として自分自身が明確に認識するようになったのは、じつはカタールGPが始まって10年少々が経過した2010年代も半ばになった頃だった。
 友人のイギリス人ジャーナリストが、カファラシステム(出稼ぎ労働者のパスポートを雇用者が「預かる」仕組み)など重大な人権侵害に対する抗議の意思表示だとして、現地取材の「個人的ボイコット」を始めた。その際に、彼が参考資料として示したビジネスインサイダーの記事では、この段階ですでに1200人の出稼ぎ労働者がサッカースタジアム建設で命を落としていると指摘されていた。


 人々がスポーツに熱狂するほど「スポーツウォッシング」の効果は上がるし、選手たちにとっては、「利用価値の上昇」は、収入や待遇の向上につながります。
 そして、ほとんどの観客は、過酷なスタジアム建設労働で命を落とした1200人のことを思い出しながらサッカーの試合を見るのは「興醒め」だと感じてしまうのです。
 観客だって、嫌なことが多い人生のなかの楽しみとしてスポーツ観戦をしているのだから、そこまで「意識の高さ」を求められるときついですよね。

 どこまでが「スポーツウォッシング」にあたるのか、観客はスポーツイベントにどう向き合えばいいのか?
 この本を読んでも、僕にはその答えはわからなかったし、突き詰めていえば、今の世界そのものが「すべては宣伝と洗脳」なんですよね。
 でも、そのなかで、みんな生きていかなければならない。ときには、知らないふりをして。


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