琥珀色の戯言

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【読書感想】TOKYOオリンピック物語 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

TOKYOオリンピック物語

TOKYOオリンピック物語

内容(「BOOK」データベースより)
敗戦からの復興と繁栄を世界に知らしめた日本初のオリンピック。この大会のために集められその後の日本のシステムを変革させていった若き精鋭たち。選手村食堂で一万人の選手の食事作りに命を燃やしたシェフ。驚く方法で伝説の五輪ポスターを作り上げたデザイナー。歴史に残るドキュメンタリー作品を作り上げた映画監督ほか、知られざる奇跡の物語。徹底取材十五年、単行本刊行時にはメディア各社で絶賛された傑作ノンフィクションを文庫化。ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞作。


 1964年に開催された「東京オリンピック」から、もう半世紀が経ちました。


 この本を読んでいると、あの頃の日本は、けっして「ものすごく豊か」ではなかったかもしれないけれど、未来への信頼と希望があったのだな、というのが伝わってくるのです。


 多くの人が「日本で、東京で行われるオリンピックのために」無報酬、あるいは、タダ同然の安い賃金で、ハードな仕事に就いていました。
 いまの僕の感覚からすれば、「国家的ブラック事業」であり、「やりがい搾取なんじゃないか?」と言いたくもなるのですが、当時の人たちは、目に見える報酬が無くても、本当によく働いたみたいです。


 この本の第一章には、短距離の選手たちのスタートダッシュを迫力ある写真にした「東京オリンピック」のポスターができるまでのエピソードが綴られています。
 僕は東京オリンピックの時代には生まれていないのですが、このポスターは、どこかで見たことがあるんですよね。
 これを撮影するために、最新鋭の機材と、日本人、そしてアメリカの基地から陸上経験のある人たちが集められたのですが、採用された1枚の写真のために、彼らは30回も短距離のスタートをしたそうです。
 機材を調整しながらですから、長時間の撮影にもなりました。
 この本によると、当時のポスターというのは、「火の用心」を呼びかける、イラスト入りの標語メインのようなものがほとんどで、これほどインパクトのあるポスターは、他にはなかったそうです。


 このポスターの制作に深く関わった亀倉雄策さんは、こう語っています。

 これまで日本では星の数ほどたくさんのポスターが作られてきた。しかし、亀倉のポスターほど、人々の印象に残っている作品は他にない。
 彼自身はポスターの制作とあの時の東京大会を次のように振り返る。
「あの仕事で僕は世界中から賞をもらいました。フランスのデザイン評論家がスタートダッシュのポスターを見て、日本にも優秀なデザイナーがいるんだなって言った。それまでフランス人のグラフィックデザイナーは日本のデザインなんて見向きもしなかった。カッサンドルの作品に比べれば三流だとバカにしていた。それがあれ以来、がらっと変わった。
 東京大会には優秀な人間が集まった。選手だけじゃない。デザイン、建築、映画……、日本中から才能が集まってチームワークで仕事をした。それまでの日本人はチームワークが苦手でね。自分を殺して集団で何かやるなんてことは得意じゃなかった。それが変わった。共同作業ができるようになった。それに、遅刻もしなくなった。東京オリンピック以前の日本人は江戸時代の八っつぁん、熊さんみたいなもので、時間にはルーズだし、会議には遅れてくるのが当たり前だった。日本人は時間を守るとか団体行動に向いているというのは嘘だ。どちらも東京オリンピック以降に確立したものだ。みんな、そのことを忘れている」


 「東京オリンピック」という大きなイベントを運営するにあたって、さまざまな「新しいシステム」が導入され、人と人との交流も生まれました。


 オリンピック当時32歳だった日本IBMシステムエンジニア・竹下亨さんは、こんな話をされています。

「リアルタイムで競技の結果を集計したのは、歴史上東京オリンピックが初めてのことでした」
 竹下は静かな声で、淡々と経緯を語った。
「ローマ大会までは、記録をタイプしたものを本部に電話で送る、あるいは運ぶことが記録集計でした。スコーバレー(1960)、インスブルック(1964)のふたつの冬季大会ではコンピュータが登場しましたが、リアルタイムではありません。バッチシステムといって、データを溜めて処理するシステムです。しかも冬季大会は種目も選手数も夏よりもはるかに少ない。比較にはなりません」

「オリンピックでは連日、国別のメダル獲得数が出ているでしょう。あれを始めたのは東京大会からです。競技関係者から、ぜひやってほしいと言われたので開発したのです」

 おまけのような形で始まった国別メダル獲得数の速報だが、いざ、大会が始まってみると、プレスも日本国民もいちばん熱狂したのがその数字だった。とりわけ日本が取ったメダルの数に注目が集まった。夜のテレビニュース、朝の新聞では必ず日本が獲得したメダルの数が報じられ、日本選手がひとつでもメダルを獲得すると、ついつい嬉しくなってしまうのが庶民感情だったのである。


 あの「日本のメダル数」へのこだわりが国民に生まれたのも、東京オリンピックから、だったんですね。
 それまでは、個々の日本代表選手の成績への興味はあっても、「国別メダル獲得競争」という意識は乏しかったそうです。
 それが、「コンピュータでさまざまな競技記録を効率よく処理できるようになった『おまけ』として」出るようになったデータが、「国家の威信」に結びつき、人々を熱狂させるようになったのです。


 ちなみに、この東京オリンピックで培った経験は、銀行の大規模オンラインシステムの開発などに活かされ、日本のコンピュータシステムを大きく進化させていくことになります。
 そして、この東京オリンピックで使われたシステムが、その後のオリンピックの基盤となっていったのです。


 選手村食堂の責任者は、帝国ホテルの名料理長村上信夫さんでした。
 入村している選手や関係者の食事は、大規模なもので、「1万人のお腹を満たす(選手たちの摂取カロリーは多いので、実質的には人数×2くらいで、最大2万人分くらい)」ための運営が求められていたのです。

 東京オリンピックを経験し、料理人たちがもっっとも変わったのは、調理のシステムを覚え、その後日常の仕事を効率的にしたことだろう。冷凍食品の活用、サプライセンターの設置、そして共同作業のノウハウを覚えた料理人たちは元の職場へ戻ってから、得た知識と知恵を活用した。
 そして、東京大会が生んだ大量調理とサービスのシステムは、1970年に大阪で行われた万国博覧会でいっそう広まり、ファミリーレストランを初めとする外食産業の誕生へと結びついていく。
 実は、地方から来た料理人がいちばん驚いたのは冷凍食品の利用やサプライセンターの設置ではなく、料理人が力を合わせて料理を作ることだった。村上が部下たちに指示すると、職人である部下たちが文句ひとつ言わず、歯車のように連携して仕事をしたので、地方の料理人たちはびっくり仰天したのである。たとえばサンドイッチの作り方だ。村上は毎日、300人前のそれを用意するのに、徹底的なシステム調理を行った。料理人たちは分業化されたそれぞれの工程だけを担当し、あっという間に300人前を作った。
 それまで、サンドイッチといえば、アラカルトで作るものと思い込んでいた地方から来た料理人は、村上の仕事のやり方に目を見張ったのである。

 1964年という時代には、日本国内でも、東京と地方には「情報格差」や「技術の格差」が大きかったのです。
 日本中から、料理人、建築、映像、物流など、さまざまな技術者が集結して、「オリンピック」という大事業に共同してあたることによって、さまざまな「技術の革新と拡散」もみられたのです。
 

 また、「オリンピックをきっかけに変わったもの」として、こんなものもあります。

 一連の仕事のなかで共同作業の成果が表れた成功例が、ピクトグラムの制作だろう。ピクトグラムとは一般に絵文字と呼ばれるもので、たとえば「非常口」と漢字で記す代わりにドアの上に人が出ていく姿をシルエットで描いたものをいう。今ではピクトグラムははるか昔から存在したものと思い込んでいる人も多いが、ピクトグラムが標準化されたのは東京オリンピックが世界初であり、開発したのは日本のグラフィックデザイナーたちだ。
「それまでにも世界のあちこちに絵文字の標識や案内は存在しました。しかし、どれもそれぞれが勝手に作ったものだったのです」
 解説するのはグラフィックデザイナーの村越愛策。勝見の弟子で、ピクトグラム研究の第一人者である。
「私は直接、オリンピックの仕事はしていませんが、同じ時期に羽田空港のなかのピクトグラムやサイン計画に携わっていました。オリンピック以前の日本には外国人が少なかったから、英語の案内なんて町にはありませんでした。でも、オリンピックには世界中から人がやってくるでしょう。その時、英語、フランス語、スペイン語、ロシア語……とすべての言葉で場所の表記をするのは不可能です。それで勝見先生が絵文字を作ろうと言い出したのです」


 現在でも、ピクトグラムがもっとも発達しているのは日本だ。アメリカではどこへ行っても英語で表記がしてある。アメリカを来訪する人間は誰でも英語が理解できるという前提に立っている。
 ヨーロッパの場合は、英語、フランス語、ドイツ語といった、ふたつ以上の言葉で案内標識が記されているのがほとんどだ。2ヵ国語も3ヵ国語もしゃべれる人間が多いから、いくつかの言語で表記しておけば事足りるのだろう。ことさらに絵文字を作らなくても、不便なく隣の国を旅することのできる人間が暮らしている地域だ。
 ところが日本は事情が異なる。オリンピック東京大会が開催されるまで、世界各国から、大勢の人間が来日する機会はなかった。占領されたことはあっても、アメリカ軍が主体だったから、英語の表記さえ併記しておけばよかった。ところがオリンピックではそうはいかない。世界各国から人がやってくる。標識を作るにしても、英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、中国語など、さまざまな国の言語でずらずらと表記したら、わずらわしくて、標識の体をなさないのである。そこでピクトグラムを開発して標識を制作することになった。


 このピクトグラムの制作が終わった際に、こんな出来事があったそうです。

 ピクトグラムの制作は12人のグラフィックデザイナーが担当し、終えるまでに3ヵ月を要した。ひとりの担当が最後の1枚を描き上げた時、勝見は全担当者を呼び集め、「諸君、まことにありがとう」と丁寧に頭を下げた。その後、書類を配り、「みなさんのサインを下さい」と言ったのである。
 いったい、何のことかと福田が書類の中身を確かめたら、そこには「私が描いた絵文字の著作権は放棄します」と記されていた。そして、とまどうグラフィックデザイナーたちに勝見ははっきりと宣言した。
「あなたたちのやった仕事はすばらしい。しかし、それは社会に還元するべきものです。誰が描いたとしてもそれは、日本人の仕事なんです」
 福田はそうスピーチした勝見の顔を忘れてはいない。
「勝見さん以外の人ならば、著作権を申請してお金儲けをしたかもしれない。しかし、勝見さんはそんなケチなことは考えなかった。著作権料を要求したら、ピクトグラムは普及しないと思ったのでしょう。あの人は、これは日本人の仕事ですとはっきりと言った。立派だった。立派な日本人の顔をしていた。僕らは勝見さんがそんな先のことまで考えて仕事をしているなんて想像もしなかったんです」


 東京オリンピックが日本を変えた、なんて言われるけれど、いくら世界的な大イベントとはいえ、あんな短期間のお祭りみたいなもので、何が変わるんだ? 新しいスタジアムとかが必要以上の規模で建設されただけじゃないの? と僕は思っていました。
 でも、この本を読んでみて、「東京オリンピックは、日本にとっての大きな転機になった」というのが、ようやくわかったのです。

 
 ただ、このオリンピックのときの「東京オリンピックを成功させるため、日本という国の底力をみせるために、自分の個人的な利益やプライドは捨てて、最高の仕事をしよう」としていた日本人の姿を知ると、2020年の東京オリンピックを招致した人たちは、「これで自分が一儲けしてやろう」としているだけのようにも見えてくるんですよ。

 1964年の東京オリンピックが日本を変えたのは、多くの人が、「目先の利益を度外視した」からなんですよね、きっと。
 もし、みんなが「自分が一儲けする」ことしか考えていなければ、結果的には、「開催期間中に、ちょっと観光客が増え、お土産が売れるだけのお祭り」にしかならないはずです。
 

 1964年と比較すると、2014年、そして2020年の世界は、あまりにも「システムの完成度が高くて、劇的な進歩の余地が乏しい」ような気もします。
 1964年の日本人が素晴らしかったというよりは、当時の日本というのは、とにかく上り調子で、人口、とくに若年人口が増えていて、勢いがあったのです。

 
 2020年のオリンピックは、日本を良い方向に変えることが、できるのでしょうか?

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