琥珀色の戯言

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【読書感想】安楽死が合法の国で起こっていること ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

日本にも、終末期の人や重度障害者への思いやりとして安楽死を合法化しようという声がある一方、医療費削減という目的を公言してはばからない政治家やインフルエンサーがいる。「死の自己決定権」が認められるとどうなるのか。「安楽死先進国」の実状をみれば、シミュレートできる。各国で安楽死者は増加の一途、拡大していく対象者像、合法化後に緩和される手続き要件、安楽死を「日常化」していく医療現場、安楽死を「偽装」する医師、「無益」として一方的に中止される生命維持……などに加え、世界的なコロナ禍で医師と家族が抱えた葛藤や日本の実状を紹介する。


5年前に難病のALSを患う女性に依頼され殺害した罪などに問われている医師への被告人質問が、2023年1月23日に京都地裁で行われました。

news.ntv.co.jp

この事件へのネット上のYahooニュースなどでのコメント欄の反応をみて、僕は驚いたのです。
コメント欄では、この事件についての賛否はあったものの「安楽死」「尊厳死」を日本でも認めるべきだ、という意見への共感が多く寄せられていたのです。なかには、医療関係者、介護従事者を名乗る投稿もありました。

「寝たきりで鼻やお腹からチューブで栄養剤を流し込まれ、反応もないような状態で、『生きている』と言えるのか?」
「どうしても生きるのがつらくなってしまったときには、自ら苦痛の少ない死を選ぶ権利があるのではないか?」
「寝たきりの高齢者の生命を維持するのは、医療や介護業界の「産業としての都合」であり、予算が限られているなかで、もっと有益なお金の使い方をするべきではないのか?」


僕自身、そういう状況にある人を診ていくのも「仕事」のうちなのです。
極端な話、「高齢者や障害者は、もう治療しなくていいよ」ということになれば、医療費は削減できるでしょうし、僕も失業するかもしれません。
ずっと寝たきり、入院したままの高齢者をみてきて、「それでも、『生きていること』に価値があるんだ!」と声高に叫べる自信はないけれど、少なくとも現時点では、「本人の内心はわからないから。とりあえず幸せな夢をずっとみているのかもしれないし。そもそも、僕は『生かす』のが仕事だから」などと自分に言い聞かせています。

「命ほど大事なものはない」のか、「命よりも大事なものがある」のか。
かのヤン・ウェンリー提督は、『銀河英雄伝説』のなかで、「人類は戦争をはじめる時には『命より大事なものがある』と言い、やめるときには『命ほど大事なものはない』というのを繰り返してきた」と述べています(『銀河英雄伝説』はSF小説です。念のため)。

「生きる価値がある命」と「ない命」があるのか、もし、それを区別するならば、誰が、どうやってそれを決めるのか。

 日本で最も頻繁に混同されているのは、日本で言うところの「尊厳死」と「安楽死」だろう。日本で言うところの「尊厳死」とは、一般的には終末期の人に、それをやらなければ死に至ることが予想される治療や措置を、そうと知ったうえで差し控える(開始しない)、あるいは中止することによって患者を死なせることを指す。たとえば人工呼吸器や胃瘻などの経管栄養または人工透析などの「差し控え(不開始)と中止」が議論となる。それに対して「安楽死」は、医師が薬物を注射して患者を死なせることをいう。
 同じ「死なせる」でも、両者の内実は異なっている。前者は、やらなければ死が予想される状態で治療しないことなので、「死ぬに任せる」と言う言い方をすることもある。後者では、医師が死なせる意図をもって薬物を注射するのだから、こちらは直接的に死に至る行為を医師が行って、つまりは「殺す」ことを意味する。
 このように医師が直接的に死を引き起こす行為をするかしないかの違いによって、前者を「消極的安楽死」、後者を「積極的安楽死」と分類することもある。その意味では、どちらも広義には「安楽死」であると考えることもできるし、孕んでいる問題には現に共通する部分もあるのだが、実態として前者つまり日本で言うところの「尊厳死」は、現在の終末期医療においてすでに選択肢のひとつとされ、日常的に行われている。一方、後者の「安楽死」は現在の日本では基本的に違法と考えられているので、混同しないように注意が必要だ。


 僕が医者になった時代(30年前くらい)は、まだ、末期の癌の患者さんや経管栄養の高齢者に対しても、「できる限りの治療をしてくれ、昇圧剤や心臓マッサージもお願いしたい」というご家族がかなり多かった記憶があるのです。もちろん、勤務先の病院の役割の違いはあるのですが、この10年くらいは、「延命治療は希望しません。なるべく苦しまないようにしてほしい」と望まれることがほとんどになりました。

 「消極的安楽死」については、家族観の変化や介護の負担増にともなって、自然に受け入れられてきている、ということなのでしょう。

 とはいえ、「積極的安楽死」は、けっこうハードルが高いし、家族はもちろん、医者としても、精神的な負担が大きい。少なくとも今の日本の法律には反しているので、罪を問われるリスクがあります。冒頭のALS嘱託殺人についても「職を失い、裁かれる可能性があるのに、ほぼ初対面の人に、よくこんなことをやったなあ」と正直思います。ずっと診療してきた人や家族であれば、そうしたくなる状況があるのは、理解できるような気はするのですが。
ブラック・ジャック』のドクター・キリコも、「おれだって医者のはしくれだ。助けられるものなら助けたい」と述懐しています。
 ちなみに、患者が自ら医者が準備した点滴のストッパーを外す「医師幇助自殺」という方法がとられることもあるそうです。

 著者は、積極的安楽死が合法化されている国々で、近年起こっているさまざまな出来事、制度化された安楽死が向かっている方向について、紹介しています。

 スイスは安楽死が合法とされている国(個人的な利益目的でなければ自殺幇助は違法とみなされない)なのですが、合法的な医師幇助自殺機関の利用者は、1998年には43人だったのが、2009年には300人まで増加し、2020年はコロナ禍で2か月間活動できなかったにも関わらず1982人だったそうです。
 スイスの総死者に占める医師幇助自殺の割合は1.5%で、ほぼ3分の1が癌患者。平均年齢は78.7歳。女性が59%で、この傾向はおおむね変わっていません。

 外国人も受け入れる自殺幇助機関は長らく1998年に設立されたディグニタスのみだったが、2011年に「ライフサークル」
、2019年に「ペガソス」ができて、現在は3つ。ディグニタスのみだった時期にも、たとえば事故で全身まひとなり「二級市民」として生きるのは耐えられないと訴えた20代の男性や、「妻を失っては生きていけない」と末期癌の妻と一緒に自殺した健康な高齢男性、社会的な疎外感を抱える健康な高齢女性など、終末期ではない人や健康な人の幇助自殺まで数多く行われていたが、新たな機関が加わるたびにスイスの自殺ツーリズムはさらにラディカルなものとなってきた観がある。

 オランダは2001年、ベルギーは2002年に世界で初めて積極的安楽死を合法化し、両国とも安楽死をめぐる「最先端」であり続けてきた。いずれも安楽死者数は増加傾向にあり、オランダの安楽死者は2018年から毎年6126人(総死者数の4%)、6361人(4.2%)、6938人(4.3%)、2021年には7666人(4.5%)。2022年には前年から14%増の8720人(5.1%)だった。ほとんどは癌患者だったが、そのうち認知症患者は288人で、前年から34%の増加、また多様な症状を抱えた(polypathology)高齢者は329人で、前年から21%の増加、そのうち58人は夫婦揃って安楽死。つまり、2人揃って死んだ夫婦が29組あった。
 ベルギーでも2020年に2445人、21年に2699人、22年に2966人と、約1割ずつ増加してきている。2022年に安楽死者が総死者数に占める割合は2.5%だった。約7割が70歳以上、4割超が80歳以上。安楽死者数全体の17.8%が終末期ではない人だった。


 この本を読んでいくと、安楽死が合法化された国では、安楽死で亡くなる人数はどんどん増えていっていることがわかります。
 そのこと自体は、善悪を決められることではないのです。西欧には、自分の命の終わりを自分で決める、というのは、「自己決定権の行使」であり、権利である、という思想もあるのです。

 とはいえ、スイスで「安楽死」を選び、実行した事例を読むと「全身マヒの若者や妻を癌で失うのに耐えられないという高齢男性の『死にたい気持ち』というのは、時間が経てば変化する可能性があるのではないか、という気もするのです。それこそ、他者の気持ちはわからないのだけれど。

 そして、2016年に安楽死が合法化されたカナダは、「後発国でありながら、よりラディカルな方法に舵を切り、「安楽死先進国」となっている、と著者は述べています。

 カナダでは、合法化当時は終末期の人に限定されていた対象者が合法化からわずか5年で非終末期の人へと拡がった。2021年3月の法改正で新たに対象となったのは、不治の重い病気または障害が進行して、本人が許容できる条件下では軽減することができない耐え難い苦しみがある人だが、前述のように2024年には精神障害や精神的な苦痛のみを理由にした安楽死も容認される方向だ。
 カナダの安楽死者は2021年の対象者拡大から増加し、保健省のデータによると2021年は2020年から32.4%の急増となった。2021年、2022年にそれぞれ1万人超。2016年の合法化からMAID(Medical Assistance in Dying)による死者数は4万人を超え、2021年段階でカナダ全体の死者数の3.3%。どの州でも毎年増加しているが、もともとカナダの一連の動きを強引に牽引してきたケベック州では安楽死者が総死者数に占める割合は5.1%(7%というデータもある)に及ぶ。オランダの直近の割合と並ぶだけでなく、オランダとベルギーでは二十数年間での漸増であるのに対して、ケベックでは2015年から、カナダ全体でも2016年から短期間での急増と言うことができる。


 安楽死が合法となり、一般化していくとともに、その基準は、より緩くなってきていることを識者は指摘しています。
 本来であれば、身体・精神の病の治療、あるいは現在置かれている環境の改善で、死を選ばなくて済む可能性がある人も、「安楽死」を選ぶ、あるいは、選びやすくなるような状況になってきているのです。

 カナダでは近年、医療や福祉を十分に受けられない人たちの安楽死の申請が医師らによって承認される事例が次々に報道されて、問題となっている。実際にMAIDで死んだ人がいる。
 1例目はソフィアという仮名で報じられた51歳の女性。化学物質過敏症(MCS)を患い、救世軍が運営するアパートに住んでいたが、コロナ禍で誰もが家にこもり始めると、換気口から入ってくるタバコやマリファナなどの煙が増え、症状が急速に悪化。カナダには障害のある人に安全で、家賃が手ごろな住まいを助成する福祉制度があるため、友人や支援者、医師らの力も借りて2年間も担当部署に訴え続けたが、かなわなかった。安楽死の要件が緩和されたため自分も対象になると考えて申請したところ、認められて2022年2月にMAIDで死去。支援者が寄付を集めていたが、間に合わなかった。友人への最後のメールに書かれていたのは「解決策は見つかりました。もうこれ以上闘うエネルギーはありません」。


(中略)


 同じ病気で同様に困窮してMAIDを申請しながら、友人が集めた寄付が間に合って命拾いした女性もいる。トロント在住の31歳のデニス(仮名)は、難病のほか6年前からは脊髄を傷めて車いす生活となっている。収入は州の障害者手当のみで月に1200ドル程度。ただでさえ貧困ラインを割っているうえにカナダでは住宅不足で家賃が上がった。7年前から助成金の出る住まいを申請し、本人はもちろん支援者と主治医も奔走したが、実質的な対応はされないままだった。
 それに比べると、安楽死の申請手続きは驚くほど簡単だったという。幸い、承認を待っている間に支援者のインターネット募金が成功し、一時的にホテルに移ることができた。募金を集めた支援者は「もし住まいの問題と弱者であることがMAIDを求める理由に含まれているとしたら、我々はそこに非常に深刻な倫理問題を抱えています。それなのに政府は、人々に自分自身を方程式から取り除く力を与えている。これでは医療的臨死介助(Medical Assistance in dying)ではなく政治的臨死介助(Political Assistance in Dying)です」と憤った。


 生きるためのお金を助成してもらうのは手間も時間もかかるのに、死ぬための手続きは簡単に認められてしまう。
 コストパフォーマンスが悪い人には、福祉よりも安楽死を選んでほしい、「安楽死合法化」は、世界をそんな方向に傾けてしまう。
 「生きたい」人でも、「生きるのにお金がかかり、社会に負担を強いる人は、いなくなったほうがいい」という圧力にさらされることになるのでしょう。

 安楽死を選ぶ人が増えれば、それを認める側も、実行する側も、どんどん慣れていく。
 スイスの自殺幇助機関が3つに増えたことで、競争するかのように「死んでもいい人、自殺幇助を受けてもいい人の範囲」が拡大していきました。
 資本主義社会では、「安楽死へのハードル」も自由競争にさらされ、どんどん下がっていくのかもしれません。

 僕自身は、自分が手を下すのにはやはり抵抗があるのだけれど、末期癌や治癒の見込みがなく、苦しみが長引くだけの状況に限定されるのであれば、安楽死も選択肢のひとつとして考えないわけにはいかない、と思います。
 でも、この本で、「合法化された国で起こっている、コスパが悪い人を排除するための安楽死」の話を読むと、日本で「安楽死が合法化される」のが怖くなりました。
 合法化という「一線」を越えてしまったら、「もうこういう人は死んだほうがいいよ」という周囲からの圧力に、耐えられるだろうか。症状よりも、その圧力に耐えられず、死を選ぶ人が出てこないだろうか。

 それが制度化されている「安楽死」には、いくつか共通した制度があるということだ。まず意思決定能力のある人本人の自由な意思決定によるとの原則があること。次に所定の手続きを踏み、所定の基準を満たしたとして承認された人だけにおこなわれること。そして、所定の手順に沿って医療職から提供される手段によること。たとえば、前述のように「障害のある人が家族や社会の負担になっているから日本でも安楽死制度が必要」などと安直なものの言い方をする人が増えているようだけれど、家族や社会の負担になることを理由に、障害の有無や程度を基準にして人を選別し、本人以外の意思によって積極的安楽死で合法的に人を殺害することを認める制度は現在、地球上のどこにも存在しない。人類史上、そうした制度を作って合法的に多くの障害者を殺害したのはナチスのみである。


 この感想で触れることができたのは、この本の前半のごく一部でしかなくて、著者は、なるべくフラットな立場で、「安楽死の現在」について、さまざまな情報を伝えてくれています。
 どこまでが「自分の自由意志」なのか、「自己決定権には、自らの死も含まれる」のか?

 ほとんどの人は「安楽死の現実」を知らずに、漠然としたイメージだけで「人生を終わらせる選択」について語っていることを思い知らされる新書です。興味を持たれた方は、ぜひ読んでみてください。


fujipon.hatenablog.com

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