琥珀色の戯言

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【読書感想】激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

高揚する学生運動、泥沼化する内ゲバあさま山荘事件の衝撃。
左翼の掲げた理想はなぜ「過激化」するのか?
戦後左派の「失敗の本質」。


「この時代は、左翼運動が最高潮に達しながらその後急速な凋落を辿っていった時代にあたり、左翼史全体を通じても特に歴史の教訓に満ちた時代です。まさに、この時代は「左翼史の核心」と言えるでしょう。」(佐藤優)

「なぜ左翼は失敗したのか。この本では一貫してこの問いに立ち返ることになるでしょう。そして、左翼の顛末を歴史の教訓として総括することは、最も学生運動が盛り上がっていた1968年に大学生になった私の使命でもあります。」(池上彰)


自分の命を投げ出しても構わない。他人を殺すことも躊躇しない。
これが「思想の力」である。
いま、戦後史から学ぶべき歴史の教訓とは。


 池上彰さんと佐藤優さんの対談形式での「日本の左翼史」。この本は、1960年から1972年について語られています。
 僕にとっては、生まれる直前から、まだ物心つかない時代になるのです。
あさま山荘事件』は、ものすごい高視聴率で、みんながテレビの前で固唾をのんで見守っていた、とか、このときに機動隊が『カップヌードル』を食べていたのがきっかけで、大ヒット商品になった、という知識はあるんですけどね。

 この本を読む前に、前著『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960』に目を通しておくことをおすすめします。


fujipon.hatenadiary.com


 「護憲」「戦争絶対反対」という人たちだと思われがちな「左翼」なのですが、戦後間もない時期の共産党は「侵略戦争は否定するが、自衛のための戦争は否定していなかった」のです。

 前著には、こんなやりとりがありました。

佐藤優こうした戦後間もない時期の共産党が唱えていた、「日本は軍隊を持ち、中立自衛の道をゆくのだ」という主張にはある種の乾いたリアリズムがありますね。国家がある以上戦争は必然であるし、戦争にはいい戦争と悪い戦争がある、というわけです。
 この、「どんなものにも良いものと悪いものがある」というロジックは、共産党弁証法の特徴です。「良い戦争」と「悪い戦争」があるように、「良い核兵器」と「悪い核兵器」もあって、ソ連や中国などが持つ核兵器帝国主義者による核戦争を阻止するものとして正当化される。
 そしてこの延長で、「良いスキャンダリズム」と「悪いスキャンダリズム」という理屈も当然ありえるわけです。権力者のスキャンダルを暴くのはいいことだけど、共産党員のスキャンダルは党内部で処理すべきことであり、これを外部に漏らす行為は反階級的であり反革命的だ、などというダブルスタンダードな言辞を悪びれることなく言えてしまう。
 これこそがスターリン主義弁証法で、「弁証法」という言葉を使うとどんなことでも正当化できるのです。だから彼らは絶対に謝らないし、そもそも自分が悪いと思ってさえいない。共産党歴が長い人ほど、そういう思考回路ができあがってしまっているから怖いんですよ。


池上彰だから共産党のそういう部分についていけない人は多かったのでしょうし、私の高校時代の国語の教師などはまさにそうでしたね。彼は戦争中は絵に描いたような軍国青年だったのですが敗戦で価値観がひっくり返り、戦後すぐに共産党に入党したんです。しかし、それからしばらくして共産党にも絶望して離党した。その後はすっかり虚無的になっていました。


 思えば、僕が子どもの頃は、社会党がずっと第2党で、自民党と「二大政党」だったんですよね。
 昔の社会党の流れを色濃く汲んでいる社会民主党は、いまや、党としての存亡の危機が続いています。

 池上さんと佐藤さんは、学生運動から新左翼内ゲバの時代を若かりし頃に学生、もしくは社会人として体験しており、この対談のなかで、「なぜ日本の左翼は失敗したのか?」と後世に語り継いでいくのはわれわれの世代の義務、だと仰っているのです。

佐藤:第二巻となる本書が取り扱うのは左翼運動が最高潮に達しながらその後急速な凋落を辿っていった時代にあたり、左翼史全体を通じても特に歴史の教訓に満ちた時代です。まさに、この時代は「左翼史の核心」と言えるでしょう。
「左翼の功罪」という点で言うと、60年代は「罪」が強く浮き彫りになった時代です。何より、過激な学生運動内ゲバ、70年代に起きたあさま山荘事件や過激派によるテロ事件の印象が強く、「左翼は危険な思想」という解釈が決定的になってしまいました。今に至るまで左翼が人々から敬遠される傾向が強いのは、これらの事件が日本の社会に記憶されているからです。


池上:なぜ左翼は失敗したのか。この本では一貫してこの問いに立ち返ることになるでしょう。そして、左翼の顛末を歴史の教訓として総括することは、最も学生運動が盛り上がっていた1968年に大学生になった私の使命でもあります。学生だった時の記憶を思い起こしながら、歴史の真相に迫っていけたらと思います。


佐藤:新左翼を主役とする学生運動はどのように盛り上がり、そして挫折したのか。その理由はなにか、そしてこの流れに社会党共産党はどうかかわっていたのか──。本書ではこれらの論点について、池上さんとの対話を通じて検証していきたいと考えています。


 さまざまな左翼のグループの「思想」についてもなるべくわかりやすいように解説されているのですが、正直なところ、「小難しくて読むのがつらかった」のです。2022年に生きている僕としては、「こんな細かい解釈の違いみたいなもので彼らは殺し合いをしていたのか……」と唖然としてしまうのです。
 日米安保条約への「反戦」を旗印にした反対運動や、あまりにも杜撰で金儲け主義の大学への反発など、学生運動をやっていた人たちの動機は、いまの僕にも理解できます。
 その闘争が「権力へのテロリズム」になるのも、善いことではないとしても、筋は通っている。
 ところが、新左翼は、どんどん「内輪揉め」あるいは、「左翼内での自分たちの優位を確立するための過激さ比べ」に陥っていったのです。

池上:安保闘争終結後の学生運動は、ブントや全学連は分裂しすっかり下火となってしまうのですが、1964年8月には北ベトナム沖のトンキン湾で、アメリカ海軍の駆逐艦北ベトナム軍の哨戒艇に魚雷攻撃を受けたとされる「トンキン湾事件」が発生します。これを受けて米国のリンドン・ジョンソン大統領はベトナムに戦闘部隊の派遣を命じ、ここからベトナム戦争の泥沼化が始まりました。
 そして日本でもこの翌年の1965年頃から、ベトナム戦争反対などの運動を通して、再び学生運動が盛んになってきます。
 60年代の一連の「学園闘争」が最初に起きたのは、実は私の母校の慶應義塾大学であり、1965年1月に大学側が学費値上げを発表したことに学生側が抗議し撤回を求めた、「学費値上げ反対闘争」として始まりました。


佐藤:今の若者は意外に感じるかもしれませんけど、慶應から始まったんですよね。

佐藤:とはいえこの学費値上げ反対闘争、安保闘争とは熱量が違うのは仕方ないにしても、こうした闘争が起こされたことは当時の学生たちの意識の高さを感じさせますよね。
 だって、学費が高くなるのは翌年以降に入学する新入生の分であって、運動の主体である在学生は実は無関係。彼らの学費は卒業まで据え置かれることは入学時の約束である以上は決まっていたのですから。
 しかしそれなのに当時の学生たちは、後輩として入ってくる学生たちの授業料を値上げするのは理不尽だと声を上げて、その反対運動が盛り上がった。


池上:私が慶應にいた1972年にも学費値上げ反対闘争はあり、全面ストライキに入りました。
 2019年の慶應三田祭で卒業生が昔の学生生活について在校生に教えるという企画があり、私のところにもある現役学生が話を聞くために訪ねてきたのですが、この学費値上げ反対ストの話をすると不思議そうな顔をしているんですよ。
 彼らからすると「だってこれから入ってくる学生の授業料を値上げするんでしょう? 在校生には関係ないのに、何で反対するんですか?」というわけです。
 それを聞いて私はつい語気を強めて「おい! 君は自分さえよければいいのか!」と言ってしまいました。


 そうか、自分たちには直接関係なくても、後輩たちのために当時の学生たちは立ち上がったのか……意識高いな……というのと同時に、この半世紀で、日本も個人主義化したというか、「自分さえよければいい」とまでは言わなくても、「自分のことで精いっぱいで、他人のことを慮る余裕なんてない」と公言できる社会になってきたのだなあ、と感じました。
 
 少なくとも当時の左翼の学生運動は「他者への善意」に基づいたもので、市井の人々にも学生たちを応援するムードがあったそうです。

 ところが、革マル派中核派など、新しい左翼の分裂が進んでいくと、それぞれが「自分の正しさ」を証明するために、敵対する派を襲撃したり、より過激で暴力的な「闘争」を行うようになったのです。

池上:当時の連合赤軍は警察の追及を逃れるために群馬県榛名山などの山中に複数のアジト(山岳ベース)を築いており、1971年暮れにはこのベースに森(恒夫)、永田(洋子)、坂口(弘)をはじめとする両派の主要メンバー29人が集まり合同軍事訓練を行っていあmした。
 ところがこの訓練に関して、赤軍派のある女性メンバーが合法活動時代から着けていた指輪をしていたことを永田が「革命的警戒心が足りない」と咎めたことがきっかけとなり、組織内で「総括」と称して他メンバーへの批判や自己批判の強要が行われるようになりました。
 総括は最初こそ対象者を作業から外すだけのものでしたが、間もなく「総括に集中させるため」との理由で長時間正座をさせ、食事を与えないなどの罰が加えられるようになり、さらに森恒夫らによる物理的暴力が加えられるようになりました。またこの暴力を振るうことに関して、森は、自分自身が学生時代に剣道の試合で気絶して目が覚めたときに「新鮮な気持ちになってすべてを受け入れられるような状態になった」ことを引き合いに出し、殴って気絶させたメンバーは目覚めたときには別人格の「真に共産主義化された」戦士として生まれ変われるのだと説明したとされます。
対象者の身体を拘束し食事を与えず、相手が気絶するまで殴打するこの「総括支援」は、12月31日に最初の死者を出しました。しかし森らはこれを「総括できなかったための敗北死」と切り捨て、その後も他のメンバーへの総括を続けたため、暴行による死者や衰弱死、氷点下の屋外にさらされたための凍死者が続出しました。
 1971年12月末からの約2ヵ月の間に死亡したメンバーは最終的に12人に上り、その中には妊娠していた女性メンバーもいました。


 閉鎖された世界で、「正しいことのため」という大義名分があれば、人間というのは「仲間」に対して、こんな酷いことができてしまうものなのです。こんなの言いがかりだとしか思えないのだけれど、それで12名の若者が死んだ。殺した側も「正しいことをやった」と信じていた。
 
 こういう「悲惨で理不尽な内ゲバ」が『あさま山荘事件』後に明るみに出たことによって、「世の中を良くするために闘っている(はずの)左翼」に世間の人々は失望し、「左翼思想は危険」というイメージが定着しました。
 その影響は、現在でも続いているのです。

 ちなみに、こういう「内ゲバ」「外部から隔絶された世界でのリンチ」の記憶は、その後、1995年に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教事件で蘇ってくることになりました。

 太平洋戦争終結が1945年、「山岳ベース事件」「あさま山荘事件」が、1971年から72年。オウムの地下鉄サリン事件が1995年。歴史は繰り返す、と言いますが、太平洋戦争後、四半世紀(25年間)に一度くらいのペースで、こういう事件が起こっているのです。
 そう考えると、地下鉄サリン事件から、2022年で27年経ちますから、もうそろそろ……などと考えてしまいます。


fujipon.hatenablog.com


 アメリカでは、あまりにも格差が拡がってしまったことによって、若者のあいだで社会主義が見直されてきていますし、日本でもマルクス再評価の機運があるようです。

「このまま格差を広げて突き進んでいく資本主義」が、人類に明るい未来をもたらす、と手放しで肯定するのは難しいですよね。

 そんな時代だからこそ、「なぜ左翼は失敗したのか?」を再確認しておくべきなのかもしれないな、とあらためて思いました。


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