琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

没頭しやすい、情報処理が速い、関係づくりが苦手…
高IQが「生きづらい」のはなぜ?

特異な才能の一方で、繊細さや強いこだわりを併せ持つ「ギフテッド」。
なぜ彼らは困難を抱えるのか? なぜ教育はその才能を伸ばさないのか?
朝日新聞デジタルで500万PVを超え、大反響の連載がついに書籍化!


「同級生と話が合わない。なじめたことは一度もない。授業はクソつまらない」
あるギフテッドの女性はこう語る。一度読めばわかる教科書、話が合わない同級生…
社会に出てからもその苦しみは変わらなかった。スーツ着用の規則に病み、
閉鎖病棟で3か月間、自分と向き合って出した結論は――。
時代、社会、環境に翻弄されてきたギフテッドたちの実情に迫るノンフィクション!


 僕自身は特別な才能は持っていない人間なのですが、子どもの頃からずっと、容姿に自信がなく、スポーツ全般が苦手で、人と接するのが苦痛でした。「ふつうに生きたい」という願望と、「自分は特別な人間のはずだ」という妙な希望と付き合いながら生きてきたわけですが、半世紀も生きてみると、「自分にとって自分は『特別』ではあるけれど、人類という種全体からみると、良くも悪くも『正規分布内』くらいだな」と身に沁みてきます。
 こんなことなら、若い頃から、もっとリラックスして人生を楽しんでおけばよかった……と言いたいところなのですが、たぶん、こういう選択しかできない人生だったのだろうな、とも思います。

 結局、人というのは、ほとんどが「こういうふうにしか生きられなかった」のではないか。

 世の中の「天才」と呼ばれるような人たちは、自分にできること、やりたいことをやらずにはいられなくて、それが結果的に世の中に評価されただけのようにも思うのです。

 伝記とかを読むと、自分が世界を変えられる人間だったらよかったのになあ、と嘆息しつつも、スティーブ・ジョブズのような人生に投げ込まれたら、僕の精神はもちそうもありません。

 この本の「はじめに」で、「ギフテッド」について、こんな説明がされています。

 2017年、ギフテッドを主人公とした映画が公開された。超人的な数学の才能がある少女をめぐって衝突する親族の物語は反響を呼んだ。私自身、初めてギフテッドという単語を聞いたのはこのころだった。「どうやらすごく頭の良い人のことをギフテッドと呼ぶらしい」──。そのくらいの認識だった。
 2021年には特異な才能がある子どもたちへの支援を検討する文部科学省有識者会議が発足。得意な才能を持つ子どもの特性について、教員たちの理解が進むよう有識者会議は提言をとりまとめたものの、どのような才能を対象とするかの「定義づけ」は見送った。23年度から、教員がギフテッドについて理解を深めるための研修ツールの開発や実証研究をする学校の募集などが始まっている。
 ニュースでもギフテッドが紹介されることが増えた。みなさんの周りやインターネットでもギフテッドという単語を聞く機会が増えたかもしれない。


 だが、どこか遠くに住んでいる、自分とは関わることのない人のことだと思っていないだろうか。
 海外の研究では、ギフテッドは様々な才能の領域で3~10%程度いるとされている。35人学級だと、クラスに1~3人ほどいる計算になる。その数を聞いて、「思った以上に多い」とお感じになっただろうか。
 
 ギフテッドの多くは、学校の授業を「ただ過ぎるのを待って過ごしている」という研究結果もある。とても勉強ができた人、クラスでつまらなそうに過ごしていた人……。実は、あなたも知らないうちにギフテッドと関わりを持っていたかもしれないのだ。
 その多さを聞いた時、私は何人かのクラスメートの顔が思い浮かんだ。先生に様々な観点から質問をぶつけていた子、全く勉強していないのにいつもテストが高得点だった子。当時はギフテッドなんて言葉も認識もなかったが、「もしかしたらあの子はギフテッドだったのではないか」という思いが巡った。と同時に「気づかなかったが、あの子たちにも何か苦悩があったのかもしれない」とも思った。


 僕もこの本を読みながら、子どもの頃に「付き合いにくい同級生」だったあの子は、「ギフテッド」だったのだろうか、と何人かの顔を思い浮かべました。

 ただし、この本によると、「ギフテッド」のうちの9割はIQ120~130の人で、「人並み外れた超人的な才能を持った天才」とイメージされるIQ160を超えるような人は、ギフテッドの中でもごくごくわずかだそうです。


 ギフテッドに関する専門書を翻訳されており、発達心理学教育心理学が専門の上越教育大学の角谷詩織教授は、こう仰っています。

 IQ120前後の子どもが何らかの特定の教科で目をみはるほどの才能を発揮しているということはほとんどないでしょう。なんとなく、頭は良さそうで面白いところに気づくとか、ちょっと変わっているとかそんな子どものほうが多いだろうと思います。学校の勉強に愛想をつかしてしまった場合、小学3~4年生ごろまでに学業不振の兆候を見せ始めることもあると言われています。知的な素質がありつつ、学校の成績は散々だというギフテッドもいるわけです。


 傍からみれば理解不能な行動規範で生きて、特定のジャンルで凄い才能を発揮する「天才」は、「ギフテッド」のなかでも、ごくひとにぎりのようです。

 この本では、「ギフテッド」とされている人たちに取材をし、彼らの肉声も収められています。
 彼らが「天才」として研究やアートの世界で大活躍しているか、というと、必ずしもそうではなく、むしろ「学校や社会での生きづらさ、周囲の無理解」に苦しめられている印象を受けるのです。


 小学校4年生で英検準1級に合格した小林都央さんにとって、学校での集団生活はつらいものだったそうです。

 どんなときに学校がつらいと思うのか。
 授業で、海の生き物を描いて色を塗りましょうと先生が言った時、都央さんは、白いチンアナゴを描いて提出した。すると、先生からは「色を塗っていない」と言われてしまった。「白という色ですよ」と言ってもなかなか理解してもらえず、そこで諦めた。「自由に描いていいよ、と言われても理不尽な枠を決められているようだった」と感じた。
 算数の時間に、指定された解き方以外のやり方を見つけても、言われた解き方の通りにしないといけない。
 黒板は先生が書いた通りに書き写さないといけない。
「それが当たり前なんだから」。「言われたこと以外はしてはいけない」。そんなことを言われ、自分のアイデアを諦めることもある。がやがやと様々な音がする教室にいるだけで疲れてしまう。好奇心を抱くものを学びたいと思っても、それが叶わない。

 この本を「彼らの側からの視点」で読んでいると、先生たちの狭量さ、無理解が問題のように感じてしまいますが、「白という色ですよ」なんて子どもに言われたら、大人側からすれば「口ばっかり達者で……」みたいな気持ちにはなりますよね。
 学校の先生って大変だよな、と考え込んでしまいます。
 先生になる人は、それなりに勉強ができて、コミュニケーション能力も最低限はあるだろうし、「勉強すればできそうなんだけどね……」という子どももたくさん見てきたはずです。
 僕も学生時代「こいつ、頭良さそうだし、勉強すればもっといい成績が取れそうなのに」と感じる同級生はたくさんいました。
 逆に、僕には全くついていけないレベルで、「僕の脳がファミコンなら、こいつはプレステだ……」と愕然とした人にもたくさん出会いましたが。

 都央さんは、現在、週2回の「選択的登校」を行なっているそうです。

 「ギフテッド」のひとりであるフォトグラファーの立花奈央子さんが始めた新宿ゴールデン街のバーでの「サロン・ド・ギフテッド」というギフテッドのサロンには、こんな人たちが集まっていました。

 サロンは、IQ130以上の条件がある会員制。特別に参加させてもらった私の隣に座っていたのは、この日初めて来たという東京大学に通う女性だった。理路整然とした話しっぷり。ただ子どものころは学校になじめず「つらかった」と吐露した。「だって、先生は私のこと全然理解してくれなかったから」と女性。今はギフテッドの子どもやその保護者を支援する団体に入って活動をしているという。
 IQが150ありながら、会社の上司とコミュニケーションがうまくとれず退職したという男性もいた。話すスピードが速すぎて変人と思われないかという不安があり、自分のことを知らない人とは話をするのが怖くなったという。他にも、地下アイドルを「推す」中年男性や、マクドナルドで働く母親など、個性豊かな人たちが胸の内を語り合っていた。
 立花さん自身にとっても、他人は他人、自分は自分と実感できる場所だという。

 この本を読んでいると、「ギフテッド」と言っても、興味があるジャンルも、こだわりや他者とのコミュニケーション能力も千差万別であり、「ギフテッドとそれ以外」というような区分にはあまり意味はなさそうです。

 日本でも、飛び級制度や大学の早期入学など、「天才」たちの才能を伸ばすような教育システムが政策として検討・導入されてきています。
 しかしながら、それがうまく機能している、とは言えないのが現状のようです。


fujipon.hatenadiary.com

 この本では、1998年に「飛び入学」制度ができ、高校2年生からいきなり大学に入った3人の高校生の「その後」が紹介されています。
 3人というのは、統計学的な評価をするサンプル数としては不十分ではありますが、「外部からの関わりで『ギフテッド』の才能を効率的に伸ばす」のは簡単なことではないようです。


 前述の立花さんは、朝日新聞ポッドキャストで、こんな話をされていたそうです。

 収録の終盤、司会者が立花さんに「自分の経験を踏まえ、どんな世の中になればいいと思うか」と聞いた。
「ほっといてほしいですね」
 即答だった。立花さんが生きやすさを感じたタイミングは、高校生になって行動範囲が広がったり、社会人になって使えるお金が増えたりするなど、自分で選択できることが増えた時だったという。
「子どものころは大人の見守りは当然必要だと思いますけど、普通と違うからと枠にはめようとしたり、周りの子どもと比較したりするのは、やめてほしいですね。ましてや、ギフテッドだから才能をのばさないといけないとか、才能を見過ごしてはもったいない、といった考えは大きなお世話です。その人が、その人らしく生きられるような社会になることが大事なのだと思います」


 「ほっといてほしい」というのは、まさに実感なのだろうなあ。
 コミュ障だと疎外されたり、「ギフテッド」だとちやほやされたりしていると、他者の評価なんてアテにならない、と考えずにはいられないのでしょう。

 「自分らしく生きる」というのは、よく使われる言葉だけれど、僕には、何が「自分らしい」のか、よくわからないのです。

 「ギフテッド」も大変なんだなあ、と痛感するのと同時に、自分がそういうことで悩むことができない「普通の人間」であることが、少し悲しい。

 特別な才能はなくても、承認欲求や不平不満、自分自身への淡い期待は、そう簡単に消え去ってはくれないのです。


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