Kindle版もあります。
「ゲーマーの聖地」として国内外で名を知られる「ゲーセンミカド」。中小店が苦境に立たされる中、多彩なラインナップと企画力で愛され続けている。同店の池田店長が、数々の名作を振り返りながら現場のリアルを語る。『ゼビウス』『グラディウス』などシューティングブームの流行から、『ストリートファイターⅡ』『バーチャファイター2』など格ゲーの隆盛、経営の試行錯誤や業界への提言まで、ゲーセンの歴史と未来を描いた一冊。
僕は九州在住なので、『ミカド』に憧れつつも、なかなか行く機会に恵まれなかったのです。
まだ新型コロナウイルスが蔓延する前、というか、あんなことが起こるなんて想像もしていなかった時代に、学会で東京に行った際、高田馬場の『ミカド』を訪れた日のことは今でも忘れられません。
シートが動く『アウトラン』に、3画面の『ダライアス』、僕が中学生の頃、クラスでいちばん少人数の派閥だった「おたくグループ」の仲間と入り浸った時代のゲームが、そこにはありました。
あの頃は、ゲームセンターでは、家ではできない「すごいゲーム」ができたのです。
ダライアスでコインを入れたときの「♪ジャン、ジャージャーン」という音から、最初のステージのBGMが流れ始めるのを聴きながら、僕はこのゲームをデパートの屋上のゲームセンターでプレイしていた時代のことを思い出さずにはいられませんでした。
何回か遊んでいるうちに、年取ってもゲームが上手くなるものじゃないなあ、と、コンティニューしまくりながら思い知らされることになったのですが。
40年前のゲームセンターは、薄暗くて、騒がしくて、怖そうな連中や補導員がいて、すごくワクワクする場所でした。
いまの僕は親として子どもたちとゲームセンターに行く機会はあるのですが、行きつけの『楽市楽座』に置いてあるのは「太鼓の達人」とクレーンゲームと音楽ゲーム、メダルゲームがメインで、子どもが『ポケモン』のゲームに夢中になっているのを「残りの100円玉の数を気にしながら眺め、ときどき『頭文字D』のドライブゲームをプレイしています。
昔のゲームセンターも、100円玉がどんどん無くなっていったけれど、今はもう、当時よりもずっとお金の減るスピードが早くなりました。あんまりクレーンゲームにハマらないでくれ……と内心思いつつ、いつのまにか自分も一緒になって、ポケモンのぬいぐるみを取るためにお金をつぎ込んでいます。
僕が「ゲーセン」でイメージするテーブルゲームが置かれている店はほとんどなくなってしまいました。
そして、「ゲームセンター」は、家族で、親も子どもも楽しめる場所になっています。
とはいえ、同じ「ゲームセンター」でも、40年前といまでは中身はすっかり変わってしまったし、行き場がない中高年層があまりお金を使わずに済むから、とメダルゲームで朝から遊んでいる、なんて話も耳にします。
この本の著者は、昔ながらのテーブルゲームや体感ゲームが並び、「僕の記憶のなかのゲームセンター」を2023年に伝えている『ミカド』の店長・池田稔さんです。池田さんは1974年生まれということですから、僕より少しだけ若いけれど、ほぼ同世代。自分の人生と「テレビゲーム」の進化がシンクロしてきた世代、とも言えるでしょう。■でキャラクターがつくられていたカセットビジョンの『きこりの与作』から、PS5の『ファイナルファンタジー16』までをリアルタイムで見てきた、というのは、あらためて考えてみればすごいことですよね。
僕が物心ついたときに『スペースインベーダー』が大ブームになり、『ゲームセンターあらし』がコロコロコミックで人気になりました。
「炎のコマ」をゲームセンターでやってみようとして、すぐにゲームオーバーになったこともありました。
「あまりに素早い操作で、コンピュータのCPUの処理速度が追いつかなくなる」って、40年前のコンピュータでも無理だよなあ。しかも、もしエラーが出るとしても、プレイヤーに都合のいいエラーとは限らないし……と、当時からマイコン少年だった僕は思いつつも、やっぱり「やってみたい」という欲求には勝てなかったのです。
ああ、本の感想ではなくて、自分の「ゲームセンター原体験」みたいなことばかり書き連ねてしまった……
堀江貴文が逮捕されたライブドア事件が、世間を騒がせていた2006年のある日、会社を辞めて友人たちとゲームの攻略DVDやサントラを作っていた僕のもとに、知人がこんな話を持ってきた。
「歌舞伎町に居抜きで売られているゲームセンターがある。池田くん、興味ないか」
子供の頃からゲームセンターが好きで、人生のほとんどをゲームと過ごしてきた僕にとって、自分のゲームセンターを経営することは昔からの夢だった。
1974年生まれの僕は、5歳でインベーダーゲーム、9歳でファミコン、中学生になってからはPCエンジン、メガドライブ、ゲームボーイ、スーパーファミコン……とにかく毎年のように新しいゲームハードが登場する時代に生きていた。
シューティング、アクション、対戦格闘ゲーム、あらゆるジャンルに勢いがあり、ゲームセンターに行けば最新の刺激があった。
ゲーム漬けの生活のなかで高校をドロップアウトした僕は、19歳でゲーセン店員になり、21歳のときにゲームセンターの筐体を売る会社に就職。業界の仕事を続け、30歳で独立。ゲームの攻略DVDやサウンドトラックを作る会社を経営していた。
そんな僕にとって、自分の「場」であるゲーセンを持てるかもしれないという提案はとても魅力的だった。
お店の値段は600万円。
当時の僕にとっては到底一括で払える額ではなかった。
あきらめきれず、さんざん迷った末に、僕は必死でお金をかき集め、このゲームセンターを買った。
それが「ゲーセンミカド」歌舞伎町店のスタートだった。
同世代の僕も、学生時代「ゲームを仕事にできたら、どんなにいいだろう、ゲームデザイナーやゲーム雑誌の編集者になりたいなあ」と、ずっと思っていました。
その一方で、「テレビゲームという『遊び』は、いま流行っているだけで、将来は仕事として成り立たなくなるのではないか」とも考えてしまい、結局、「ゲームを仕事にする」ことは断念したのです。実際、そんなクリエイティブな才能はありませんでしたし。
当時、『マイコンBASICマガジン』という雑誌で、連載記事を書いていた山下章さんが、一橋大学の学生というのを知って、「そんな有名大学を出て、ゲームの仕事をしている人がいるのか」と驚いた記憶があります。
いまや、ゲームメーカーへの就職は狭き門であり、子どもたちにとって「憧れの仕事」ではありますが、40年前は「そんなのずっとできる仕事なわけないだろう」と多くの人が思っていたのです。
『情熱大陸』に、『ファイナルファンタジー』シリーズのプロデューサーとして知られる吉田直樹さんが出演しておられましたが、いま50歳の吉田さんも、「テレビゲームの仕事を50歳までやっていて、『情熱大陸』のようなテレビ番組で採りあげられる」なんて、就職したときは想像もしていなかったのではなかろうか。
家庭用ゲームの進化やインターネットの発展によって、昔ながらの「ゲームセンター」は、どんどん減っていきました。
この本によると、全国のゲームセンターは1989年に約2万2000店あったのが、2019年には約4000店にまで減っているそうです。
テーブルゲームやアップライトのゲームマシンが置いてある、「ゲームセンター」は、どんどん少なくなってきています。
そんななかで、『ミカド』は、古いアーケードゲーム(ビデオゲーム)を主役に据えることによって、僕のような「ゲームセンターという空間の魅力にとりつかれた人々」の憩いの場であり続けています。
とはいえ、「ゲーセンの経営は楽ではない」のです。
100円だった缶ジュースが140円くらいになっているのに、ゲーセンでは相変わらずワンプレイ50円や100円なのを見れば予想がつくだろう。それどころか、ネットワークされたゲームはメーカーがお店側からプレイ料金を取っていくので、実際はワンプレイ70円しか儲からなかったりする。
正直、ビジネスとしてはまったく時代に適応していない。
気づけばゲーセンはクレーンゲームやプリクラやメダルゲームなどの、大きくてきらびやかなマシンが並ぶ空間になり、薄暗い空間にビデオゲームが所狭しと並ぶ、昔ながらのお店はほぼ絶滅してしまった。
『ミカド』は有名な店であり、NHKの『ドキュメント72時間』で取材される「聖地」ではありますが、コロナ禍のなかでは、深刻な経営危機に陥り、クラウドファンディングも行われました。
僕もコロナ禍のなか、『ミカド』の配信を観ていたのです。
「時代に適応していないビジネス」でありながら、なぜ、『ミカド』は生き残っているのか。
そのための「ふたつの明確なポイント」を池田さんは示しておられます。
興味を持たれた方は、ぜひこの本を読んでみていただきたいのですが、古い「テレビゲーム」を中心にして、あえて時代の流れに逆行することと、今の時代だからこそ使えるインターネットなどの「武器」を有効に利用すること、正反対のようにもみえる、このふたつの戦略が、『ミカド』を「特別な存在」にしてきたのです。
この本が興味深いのは、「テレビゲームの思い出」にとどまるのではなく、「経営者としてみてきた、ゲームセンターを続けていくためのお金の話」が、詳細かつ赤裸々に語られているところ、なんですよね。
「思い入れ」や「愛着」だけでは、「旧き善きゲーセン」を維持していくことはできない。
この本では、『ミカド』のUFOキャッチャーの景品原価率の設定マニュアルが公開されています(現在使われているものかどうかは不明ですが)。
「いまの機械(クレーンゲーム)は確率機が多く(何回かに1回アームの強さが変わったり、あらかじめ機械側で確率を設定できるマシン)、アームの強さの調整にそれぞれの店舗のノウハウが求められなくなった」というのも、知らない人はけっこう多そうです。
たまに起こる「奇跡の景品ゲット」は、プレイヤー側の運や技術だけではないのです。
ネットワークを利用したゲームでは、メーカーが店舗から売上げの一定額を徴収するシステムになったり、ゲームセンターの店舗数減少で、売れる数が減ったりしているため、新しいアーケードゲームの開発も低調になっていることなど、ゲームセンターの経営は年々厳しくなっているのです。
いまの主流はクレーンゲーム、メダルゲームに『太鼓の達人』などの「物理的に家でやるのは困難なゲーム」になっています。
対戦格闘ゲームも、ネットワーク対戦が主流ですし(ネットワークでは「ちょうどいい対戦相手」とのマッチングすら行ってくれます)。
その一方で、そういう時代だからこそ、僕が子どもの頃に通ったような「薄暗くて騒がしくて、でも、ゲームが好きな人たちの気配を感じられる空間」に魅力を感じる人も少なくないのです。
僕が『ミカド』に行ったときも、最初は「懐かしい!」だったけれど、途中からは「クリアできないのが悔しい!」に変わり、何度も繰り返しプレイしてしまいました。コインを入れての1プレイには、何度でもできる家庭用ゲームとは違った緊張感や「やりがい」がある、そんな気がします。
ゲームセンターで最もインカムを稼いでいるゲームがなんなのか、誰もが気になることだろう。
さっそく発表するが、池袋ゲーセンミカド、地下1階ビデオゲームコーナーのインカムトップタイトルは『上海Ⅱ』(1989年)である。『上海Ⅱ』はランブルプラザの時代から数十年間、1週間平均で2万円という金額を稼いでいる。
30年以上前のゲームなのにこの稼ぎは驚異的だが、実は業界人にとってはそれほど驚くことではない。なぜなら『上海Ⅱ』のインカムのよさは、発売当時からずっと続いているもので、ゲーセン業界内では周知の事実だからだ。
重要なのは、続編の『上海Ⅲ』や『上海 万里の長城』、『スーパー上海ドラゴンズアイ』といったさまざまなバリエーションが存在するものの、常に高インカムなのは『上海Ⅱ』のみという事実だ。
なぜ『上海Ⅱ』なのか?
その理由についても、池田さんは考察しておられます。
ちなみに、平均2万円/日のインカムを30年間続けて、これまで『上海Ⅱ』が1台で稼いだお金は、合計3000万円を超えるのだとか。
息が長い、根強いファンが多そうなゲームとはいえ、これほどの人気があるとは。「テレビゲーム」は不思議で、奥が深いな、と考えさせられました。正直、僕にとっては、『上海』って、「なんでこれをわざわざゲーセンでやるんだろう?」というゲームだったので。
『ミカド』のようなゲームセンターが、自分が気軽に通えるところにできたらいいな、と思いつつ。
学生時代「自宅をゲームセンターにする」とか「本屋になる」とか考えていたのを思い出しました。
いまのオンラインゲームとか動画配信、Kindleって、「万人が当たり前のように、そんな夢を実現している」とも言えるのかもしれません。
だからこそ、昔ながらの「ゲーセン」が、恋しくなるのだけれど。