Kindle版もあります。
『なぜ君は総理大臣になれないのか』『香川1区』『ぼけますから、よろしくお願いします。』……
話題作の数々はこうして生まれた。
第一線監督の明かす実践的制作術。
作り手をめざす人、現役のテレビ・映画人、そしてドキュメンタリーを愛するすべての人たち必読!「大島新のこの等身大の自伝は、自身の制作過程を丹念に辿りながら、むしろそこには自らを鏡にした映像制作史が映し出されている。同じ時代を彼とは少しだけ違う場所で生きて来た私にとってはそのことが大変興味深かった。ファインダーの外側を捉える目を持つ彼は、きっと生来のドキュメンタリー作家なのだろう。」(是枝裕和氏=映画監督)
「圧巻は是枝裕和、森達也、原一男のドキュメンタリー界の先達3氏を評した部分でした。大島さんが彼らをどう評するのかはもちろん、大島さんが彼らと対峙した時にどう評されたのかを知ることができたのは、僕にとって大変面白いものでした!」 (上出遼平氏=テレビディレクター)
『なぜ君は総理大臣になれないのか』『香川1区』『ぼけますから、よろしくお願いします。』など、数々の話題作を送り出してきた、映画監督・プロデューサーの大島新さん。あの大島渚監督の息子さんだったんですね。
近年、Netflixなど海外発の、ドキュメンタリー推しの映像配信サービスの隆盛や、NHKの『ドキュメント72時間』の人気もあって、ドキュメンタリーを観る人は増えてきているように感じます。
日本でドキュメンタリーを作り続けてきた大島さんは、どんなことを考えて、ここまでやってきたのか?
そもそも、「ドキュメンタリー」とは、いったい何なのか?
実在の人物や出来事を「ありのまま」に取材し、映像とナレーションで「客観的に」視聴者に伝えるものがドキュメンタリーなのだろう、と僕は思っていました。
大島さんは、「ドキュメンタリーの定義」について、こう述べています。
私は1995年にフジテレビに入社したのですが、その志望動機の一つに、当時深夜で放送されていた『NONFIX』に携わりたいという思いがありました。若いディレクターたちが自由な発想で作る斬新なドキュメンタリーに惹かれ、この枠で番組を作ることは大きな目標でした。そんな憧れの『NONFIX』が、私が入社した1995年に250回記念番組として「ドキュメンタリーの定義」という90分の特番を放送したのです。この企画は、4人のディレクターが、それぞれの「ドキュメンタリー観」を番組化するという実験的な試みでした。その中には、まだ無名だった是枝裕和さんもいました。番組を視て、つくづく感じたのは「ドキュメンタリーは自由である」ということでした。なぜなら4本の「ドキュメンタリーの定義」は、それぞれ違っていた上に、どれも魅力的だったからです。
以来、私の考えるドキュメンタリーは、幅広いものになりました。ゆるい、と言ってもいいかもしれません。その後、実際に経験を積んだ身として敢えて定義をすると、こうなります。
ドキュメンタリーとは、実在する(あるいは実在した)人物や、実際にある(あるいはあった)事象を撮影した映像素材に、製作者が解釈をほどこし、表現したものである。
なんだ、当たり前じゃないか、と思われるかもしれませんが、これぐらいが「ゆるめの」定義ではないかと思っています。「解釈をほどこし」に違和感を覚える人もいるかも知れませんが、これについてはこの本を最後まで読んでいただければ、私の考えを理解してもらえるのではないかと思います。
どんな人や事象を題材にするか、撮影した映像を編集し、どの場面を使用するのか、ナレーションや音楽はどうするのか?
撮影した映像を、そのまま全部流すのでは観る側も耐えられませんから、そこには「ドキュメンタリー作家の意図や思想」が反映されるのです。
そして、カメラが回っている、これがドキュメンタリーとして放送される、という意識があれば、撮影対象者の行動も、いくら撮影者と打ち解けた関係になっていても「なんらかの演技性」と無縁ではいられないはずです。
大島さんが、政治家・小川淳也さんを題材にした『なぜ君は総理大臣になれないのか』という作品は、政治というものに真摯に向き合ってしまうがゆえに、理想と現実のあいだで揺れ動きすぎてしまう小川さんの姿が印象的な作品でした。自分がやりたい「政策」を実現するためには議員になる必要があるのだけれど、選挙に勝つためには、なりふり構ってはいられない。力がないと、理想は実現できないのだけれど、理想を語るだけでは、支持してはもらえないのです。
『なぜ君は総理大臣になれないのか』が話題になり、小川さんの不器用な政治家人生に好感を抱く人が増えたことは、その後の選挙の結果にも、おそらく影響を及ぼしました。
社会の矛盾や疑問を露わにする、というのがドキュメンタリーの役割なのだとすれば、よくできたドキュメンタリーには「社会や取材対象者の人生を変えてしまう、現実に介入してしまう」可能性があるのです。
大島さんは、日本で最も知られている人物ドキュメンタリー『情熱大陸』にもかなり参加されています(唐沢寿明さんや福山雅治さんの回のディレクター、前田敦子さんや菅田将暉さんの回のプロデューサーを務めておられます)。
『情熱大陸』を視て、有名タレントや作家のイメージが変わった、という人もかなりいるのではないでしょうか。
ちなみにドキュメンタリーへの批判の一つに「意図的な編集だ」というものがあります。しかし、意図的でないドキュメンタリーなどありません。何かを伝えようとして作っているわけですから、ある取材対象を選んで撮影すること自体が十分意図的ですし、編集という行為も当然意図的です。客観性や中立性という言葉も幻想であり、ドキュメンタリーには否応なく作り手の意識が映りこみます。私は自らの意図を自覚した上で、ファクトに基づくことと、取材を受けてくれた被写体が、放送後に納得してくれることを重視しています。ただし、政治家などの公人や権力者が被写体の場合は別です。ファクトさえあれば、被写体の納得は必要ありません。自分に批判的な報道に対して政治家が「意図的だ」というのは常套句であり、要注意です。
これは、テレビや映画のドキュメンタリーに限った話ではなく、新聞や雑誌などのメディアの記事にも当てはまることだと思います。
新聞記事やネットニュースだって、「どのニュースを大きく取り上げるか」には、制作側の意図があるのです。Yahoo!ニュースのトップに載るというだけで膨大なPV(ページビュー)が得られるのですから。
著者は、機材の進歩によるドキュメンタリーの制作環境の変化についても触れていて、近年話題になるドキュメンタリーが増えてきた背景には「少人数でも作れる状況になった」ことも指摘しています。
エンターテインメント映画の大ヒットの基準となる興行収入が50億円とすれば、ドキュメンタリー映画の場合は、二桁違う5000万円がヒットの基準、とおっしゃっているように、市場としてはまだ小さいものではあるのです。
これも、ネットによる映像配信サービスが日本でも広く利用されるようになったことで、今後はもっとお金をかけたドキュメンタリーが出てくるようになるかもしれません。
ドキュメンタリーの作り手にもさまざまなタイプがいるのです。
ディレクターの気配を消し観察者のように撮る人、映像の美しさや撮り方にとことんこだわる人、被写体に徹底的に寄り添い懐に入り込む人、強烈なシーンを撮ってくるものの構成や編集は苦手な「撮り屋」、逆にしっかりと構成を作ってロケに臨まないと気が済まない人……。
ドキュメンタリーの定義が人それぞれであるように、その作り手も千差万別で、だからこそドキュメンタリーは面白いのでしょう。
正直、「なんかやりすぎじゃない?押しつけられてる感じがする……」こともあるんですけどね。
著者は『なぜ君は総理大臣になれないのか』が、「結果的に小川さんのPRになってしまった」ことを認めつつ、「ドキュメンタリーの取材者として」の現時点でのスタンスを表明しています。
これまでも多くのドキュメンタリー映画が、社会的な問題を取り扱ってきました。水俣病などの公害、沖縄の基地問題、原発問題などです。それらを扱った監督たちのほとんどが、被害を受けた人たちの側に立ち、国家の政策とは反対の立場に立って映画を製作していることを隠していません。そしてその問題意識は多くの観客に共有され、新たな運動の種となった場合もあります。私はこうした映画監督たちの姿勢を、非常に尊いものだと感じています。一方で、ドキュメンタリーの取材者は「ドキュメンタリスト(映画監督)なのか、アクティビスト(活動家、運動家)なのか」ということも問われます。この二つは完全に対立するものではなく、一人の監督の中に両方の要素があり、割合が揺れ動くということもあると思います。
映画は現実を変えることができるのか。変えたとしたら、それは許されることなのか。実に難しい問題です。私は自分が作った映画を、観た人が「面白い」と言ってくれた上で、その人の行動変容のきっかけになれば、これ以上のよろこびはないと思ってドキュメンタリーを作ってきました。これからも、その考えはおそらく変わらないだろうと思います。
大島さんが、是枝裕和さん、森達也さん、原一男さんという3人の個性的なドキュメンタリー作家たちを語っておられるのも興味深く読みました。
原一男さんの代表作『ゆきゆきて、神軍』(1987年)撮影時の話には、こんなに取材対象者が演じていてもドキュメンタリーなのか、あるいは、撮影となると過剰に行動してしまう人間の姿をそのまま撮るのも「ドキュメンタリー」なのだろうか?と考えずにはいられませんでした。
ドキュメンタリー好き、あるいは、何かを「つくる」ことに興味がある人には、とくにおすすめです。