- 作者: 浅見雅男
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2018/03/20
- メディア: 新書
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Kindle版もあります。
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内容(「BOOK」データベースより)
皇女に対する明治天皇の親心、犬猿の仲だった幕末の大物二人、「一六代将軍」の悪い噂、生活苦から女優になった貧乏華族の姫君…。日本の近現代を動かしてきた皇族、軍人、政治家、文人、実業家、スポーツ選手などの素顔を伝える、教科書には載らない珠玉のエピソード集。
後世から振り返った「歴史の記録」には遺っていないけれど、当時の人々はすごく興味を持っていた、今でいうと「ワイドショーで採りあげられるような」エピソードの数々が紹介されています。
僕の記憶の範囲でも、たとえば、『オウム真理教事件』は、今となっては「恐るべき教団による集団テロ」という語られ方をしていることが多いのですが、1990年代前半は、「けっこうみんなこの『異様な集団』を面白がっていた」のです。
時間が経つと、客観的な評価ができるようになる一方で、リアルタイムでの「遊び」とか「余白」の部分が失われてしまうのも事実なんですよね。
明治時代から太平洋戦争くらいまでの日本というのは、現在のネット時代ほど、多くの情報が存在し、能動的に触れられる社会ではなかった一方で、中世から江戸時代に比べると、ある程度信頼できる史料が残されてもいるのです。
慶応から明治に改元されたのは1868年10月23日である。それから150年、ほぼ真ん中に日本史上未曾有の「敗戦」をはさんで、多くの出来事が起き、たくさんのひとびとがあらわれ、消えていった。
この本は、それらの歴史と人物のなかで、案外みなの記憶にとどまっていないと思われるものを探しだし、ながめていこうという意図のもとに書かれた。教科書でとりあげられ、歴史書で解説、分析され、小説やテレビ番組、あるいはマンがなどで面白おかしくえがかれている出来事やひとびとではなく、そこからもれている過去をふりかえり、現在を考え、未来に目をむけるのにも意味があるのではないか。ちょっと大上段にかまえると、そういうことである。
さまざまなジャンルの「こぼれ話」が紹介されているのですが、この本を読んでいると、人間というのは、ときに、他者からみると理解できない行動をとることがある、というのを考えずにはいられなくなるのです。
「平民宰相」と呼ばれ、生前(死後も)爵位を与えられることを拒み続けた原敬さんは、原さんが明治維新で「賊藩」となった南部藩重臣の士族出身だった、という背景を知ると理解できるのですが、僕も知っているこの人の話は、「なぜ?」と考えずにはいられませんでした。
敗戦後、生存者への勲章の授与(叙勲)はいったん停止されたが、昭和38(1963)年7月、池田勇人内閣が復活した。以後、総理大臣など三権の長をつとめた人物や、経済界、官界の大物たちなどへは、一定の年齢に達すると高位の勲章がさずけられることになった。死去したあと、さらに上位の勲章がおくられた例も多い。
しかし、生前、死後を問わず、叙勲をことわったひとも多かった。総理大臣経験者では宮沢喜一がそうである。
宮沢は保守政界のエリートだった。大蔵官僚から池田勇人の秘書官となり、30代半ばで参議院選挙に出馬し当選、さらに代議士に転じ、経済企画庁長官、通産大臣、外務大臣、大蔵大臣、官房長官、副総理などの重要閣僚を歴任したあと、平成三(1991)年11月に総理大臣となった。
頭脳明晰、英語も流ちょうに話し、事務所の待合室には英語版の「ニューズウイーク」がさりげなくおいてあったりしたが、そうしたエリートぶりが鼻につくところもあり、田中角栄や大平正芳などとはウマがあわなかった。自民党総裁としても党内をまとめきれず、それが総理辞任、非自民の連立政権である細川護熙内閣の成立につながるが、しかしなんといっても宮沢が1年9か月にわたり総理大臣だったことは事実であり、また公平にみて、総理以外では有能で功績のある政治家だった。
したがってほかの総理大臣経験者とおなじように、死後、最高位の勲章である大勲位菊花章頸飾(これは吉田茂と佐藤栄作が没後に受けている)につぐ大勲位菊花大綬章を授与されるのは当然だった。しかし、宮沢はそれをことわるように遺言していた。そして原の場合とは異なり、もはや「恩命」も存在しない時代だから、遺志は実現したのである。
宮沢も遺族も勲章をことわる理由をあきらかにしていない。宮沢は総理を辞めたとき、すでに生存者叙勲の対象年齢に達していたが、勲章はもらわなかった。辞任後も小渕恵三や森喜朗の内閣で長い間、大蔵大臣(財務大臣)をつとめており、政治家としては現役だったから、実質的に政治家引退を意味しかねない生存者叙勲を避けたとも推測できるが、しかし、普通ならば死後の叙勲まではことわらないだろう。ナゾはのこる。
叙勲辞退は政治家としての宮沢の評価にかかわることではない、政治家が負うべきは施政者としての結果責任であり、極限すればそれ以外のことはどうでもいい。しかし、宮沢をひとりの人間としてみていく場合、このナゾはぜひとも解く必要があるのではなかろうか。
僕には宮沢喜一という人の内面を推察することは難しいのですが、エリートで合理主義者ではあったとしても、叙勲を自分から断るような理由というのは、ちょっと思いつかないのです。
「欲しがらなければもらえない」というものを遠慮する、というのと「断らないかぎりもらえる」というものを拒絶するのは、全然違いますよね。自分が政治家としてやってきたことに満足がいかなかったから、ということなのだろうか。それにしても、長年の実績がある宮沢さんよりも、断るべき人はたくさんいたはずです。内心、天皇制というものに違和感を抱き続けていたのだろうか……
結局、人の心の内って、わからないものだな、と思うのです。本人が理由を説明している場合でも、それはあくまでも「外向きのもの」であることも多いのだろうし。
歴史には「あらためて考えてみると、よくわからないこと、疑問に感じること」って、たくさんありますよね。
西郷隆盛の弟、従道について。
兄隆盛については数え切れないほどの伝記や研究書があるし、彼を主人公にした小説も傑作、駄作とりまぜて山のように書かれている。ところが従道についてのその種のものは、兄とくらべても、またほかの明治の元勲たちとくらべても少ない。なぜ兄とともに鹿児島に帰り政府軍と戦わなかったのか、なぜ兄が賊将として死んだあとも彼への天皇の恩寵は厚く、海軍大臣、陸軍大臣、内務大臣などの要職を歴任し、侯爵にもなれたのか、薩派の実質的な頭領であったにもかかわらず、なぜ総理大臣となることがなかったのか……。従道について知りたいことは多いが、こうした疑問にいささかなりとも取り組んだ書物は、前出の『元帥西郷従道伝』などを除けばほとんどないといっても過言ではない。
言われてみれば、たしかにその通りで、兄があれだけの大きな内乱を起こしたにもかかわらず、西郷従道は明治政府の要職に留まり続けたのです。総理大臣になれなかった(ならなかった)のは、やはり、兄のことが影響しているのではないか、と僕は想像してしまうのですが。
もちろん、兄弟だから連帯責任、というのも理不尽だろうけど、世間の人たちや他の高官たちは、従道を危険人物だとはみなさなかったのでしょうか。「西郷」は、やっぱり特別だったのかな。
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では、なぜ8月15日が「終戦記念日」(これも正しくは敗戦記念日とすべきだ)とされるのか。いうまでもなく、上記のようにこの日に天皇の「玉音放送」があったとの理由からだ。日本人の間では、天皇が戦争を終える決断をしたおかげで平和がやってきたという見方が、敗戦後すぐから、まるで自明のことのようにひろまっていったのである(この点については佐藤卓己『八月十五日の神話』がある)。
たしかに八月十五日を境に空襲の恐怖などからのがれることの出来た多くの日本人が、こう考えたのは自然だったかもしれない。しかし、玉音放送を聞いたひとたちの脳裏の片隅に、安堵感とともにこんな疑問が浮かんだのも、多くの回想記などから確かめることができる。それは「天皇が戦争をやめることができるのだったら、戦争を始めるのをとめることも可能だったのではないか」という疑問である。
そしてそこから生じてくるのは天皇の戦争責任の問題である。周知のように、これについては多くの歴史研究者などがさまざまな意見を述べている。それらをやや乱暴に大別すると次の二つになろう。
明治憲法において天皇は「統治権を総攬し」「陸海軍を統帥」するとされていた。このような強大な権力をもつ天皇が「ノー」といえば、世界中を相手とする無謀な戦争など出来たわけがない。したがって開戦を認めた天皇には大きな責任がある――こう主張する向きも多い。
一方、明治憲法においても天皇は独裁的な権力を有していたわけではなく、統治権は内閣の大臣、統帥権は参謀総長や海軍軍令部長の輔弼によって行使する立憲君主だった。連合国との戦争を始めることにも天皇は反対で、最後まで戦争を回避しようとしたが、政府や軍部が開戦すべしとの判断をした以上、それを認めざるをえなかった――との主張もまた有力である。