琥珀色の戯言

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【読書感想】日本人はどう死ぬべきか? ☆☆☆

日本人の平均寿命は延び続けており、2020年には、女性は87.74歳、男性が81.64歳となった。だが、どんなに寿命が長くなっても、人間には必ず死が訪れる――。

自分の死と他人の死は何が違うのか。親しい人の死にどう向き合っていけばよいのか。定年後の生き方、理想の最期、墓、葬儀、中世の無常観、時代を超え残っていく建築など、死をめぐるさまざまな事柄について、二人の知の巨人が縦横無尽に語り合う。
文庫化に際し、新型コロナウイルス感染症の流行と、その後の日本社会の進むべき方向について語った特別対談「これからの日本人の死生観」を増補。


 1937年生まれの解剖学者・養老孟司さんと、1954年生まれの建築家・隅研吾さんの「日本人にとっての死」についての対談集です。
 2014年11月に単行本として上梓されたものに、文庫化に際して、2022年1月に新型コロナウイルス禍のなかで行われた対談が加えられています。

 養老先生に関しては、超然としている、というか「言っていることはわかるのだけれど、僕はこういうふうには生きられないなあ」と思うことが多いのです。「アドラー心理学」と同じなんですよね。
 

「死んだら自分はどうなるんでしょうか」とか、「自分がいなくなった後のことが心配です」とか、人はよくそう言います。でも僕は、自分が死ぬことに関してあれこれ考えるのは「意味がない」と決めてしまっています。もし、それが問題ならば「生き残ったやつが考えればいいだろう、俺の知ったことじゃないよ」というのが、基本にして不動のスタンスです。
 自分の死を怖がることが分からないという感覚は、僕の場合、人生初の強い記憶と結びついていると思います。僕の人生最初の記憶は、自分の父親の死の場面なのです。5歳の僕は、死の間際の父を見ています。「さようならと言いなさい」と誰かにうながされて、黙って顔を見ている。父は僕を見て、にこっと笑い、その直後に喀血して、ご臨終です。享年34歳でした。こうして子供の僕の中に「人は死ぬものだ」という事実が大前提として刻みつけられました。


 養老先生は、自分の死生観について、「父親が笑って死んだということは大きかった」、そして、「太平洋戦争の直前に生まれて、幼少期は戦争中で死が日常だった」と仰っています。
 「自分が死ぬことに関してあれこれ考えるのは『意味がない』」と「決めてしまっている」という言葉は、「自分はそうだけれども、他人にとってどうかはわからない」という表明でもあるのです。
 戦後生まれの隅研吾さんとの対話では、「太平洋戦争のあいだ、ずっと『国のために死ね』と言われていたのが、戦争が終わったとたんに『死んではいけない』という社会になったこと」への困惑も述べられているのです。

 「自分が生き延びること」だけを考えるのであれば、強大なロシア軍に立ち向かっているウクライナの人たちは、「無謀な抵抗で、命を無駄にしている」のだろうか?
 信じている宗教や社会の状況によって、「死をどう考えるか」は異なるし、ひとりひとりのそれまでの人生経験の影響も大きい。
 

──養老先生には理想の死に方はありますか。


養老孟司死に方を考えるほど、くだらないことはない、と、それはもう考えないことにしていますから。だって、考えているうちは生きている。だいたい結論は簡単ですよ。俺が死んでも俺は困らねえ、と。


隅研吾:人は困るかもしれないけれど、自分は困らないですもんね。


──隅さんは生きているうちから、そうだったりして。


隅:ははは。


養老:だいたい、みんな毎日、意識をなくして眠っているんだからね。それと同じことでしょう。


 「俺が死んでも俺は困らねえ」
 うん、確かに困らない。でも、僕はずっと「困ることさえできなくなる」のが怖かったのです。
 これを読んで、子供の頃、「眠るのは死ぬのと同じで、寝てしまったら、もう『今の自分』はいなくなるのではないか」、と不安だったのを思い出しました。
 現在は不安がなくなった、というか、そういうことは考えないようになった、という感じなんですよね。
 半世紀くらい生きていたら、死ぬ時は死ぬし、足掻いてもそんなに長くはいきられないのだから、あわてて死ななくてもいいかな」という心境にもなってきました。
 「世の中には、養老先生や隅さんのような人もいる」というのは、なんとなく心強くもあるんですよね。


 僕はこの10年くらい、建築に興味を持つようになったのですが、隅さんは、大物建築家の黒川紀章さんのお墓の話をされています。

隅:黒川さんは(東京・南青山の梅窓院の)一番いい区画を生きているうちに買われて、最初はすごくモダンな墓石を建てられたんです。でも、できあがったら自分でもデザインが気に入らなくて、もう一回費用をかけて建て直したと伺っています。今、建っているのは、全くオーソドックスな昔ながらの墓石で、そこにお名前が書いてあります。


養老:あれだけ奇抜な建物を建てまくった人が。


隅:メタボリズムもカプセルホテルもやりまくったけど、最後に全く普通の立派なお墓を建てられた。メタボリズムというのは、時間というファクターを建築に取り入れた概念で、時の経過とともに変化し続ける建築を提案されたのですが、当人のお墓は「ディス・イズ・ザ・日本のお墓」みたいな感じで、いわばメタボリズムの対極。ちょっと残念でした(笑)。


養老:隅さんのお墓はさぞ、こだわったデザインなんでしょう。


隅:黒川さんと対極に、モダンデザイン──「負ける建築」風のマイナスのデザインにこだわって建ててみました(笑)。


養老:どんなお墓なんですか。


隅:石で区画を囲っただけのお墓です。普通のお墓って、墓石の形はいろいろにしても、墓石が一応のモニュメントとして、区画の真ん中に建っていますよね。僕は墓石を建てず、区画もその周りを石で囲っただけなので、ちょっと間違うと、ごみ袋を置くごみ捨て場のような場所に見えるんです。


養老:お墓ではなく、ごみ置き場ですか。いいですねえ。


隅:黒川さんみたいにひよらないで、モダニストとしてのデザインに徹しました(笑)。誰かが一度ごみを置いたらそこはもうごみ置き場として認識されるようになるだろうなと思ってちょっと心配しているんですが、幸いまだ誰も置いてないから、お墓と認定されているようです。


 この本には、隅家のお墓の写真も掲載されているのですが、確かに、一般的な墓石が並んでいる中で、墓石がなく、石で囲っているだけの「お墓」は、知らなければ「ごみ置き場」と間違えられそうに見えます。
 僕は隅さんのお墓の話よりも、あの黒川紀章さんが、一度建てた「黒川紀章らしい墓石」を「普通の墓石」に作り直した理由を考えずにはいられなかったのです。誰かから強く反対されたのか、それとも、「やっぱり墓石は、昔ながらの形が一番良い」と翻意されたのか。お墓だって、「自分が死んでしまえば、どんな墓でも困らない」はずなのですが、特定の宗教の敬虔な信者でもないのに、お墓にこだわる人は多いですよね。
 もっとも、建築家にとっては、自分のお墓というのは「最後の作品」でもあるわけです。
 「死生観」だけではなく、「建築家というのは、どういう人間なのか」を隅さんが話しているところがけっこう僕の印象には残りました。


 2022年の対談で、隅さんはこんな話をされています。

隅:この前オンラインで、ハーバード大学マイケル・サンデル教授と対談したんですが、そのとき彼が「人間が建築を作ると、建築が人を作ってくれる」というイギリス元首相チャーチルの発言を引用したんです。だからこう尋ねてみました。
「人間が超高層ビルを作った。その結果、超高層ビルという箱に閉じ込められるのがエリートだという、今のような息苦しい社会になってしまった。超高層ビルという建築が人間を作り、縛っている。そして、そんな超高層ビルを作り始めたのはアメリカですよね?」
 高層ビルが誕生したのは、19世紀末のアメリカです。それまでのヨーロッパには、高層を作ろうなんて発想はなかったんですよ。


養老:目のつけどころが鋭いですね。サンデル教授は何て答えたんですか?


隅:「確かに、ニューヨークにはたくさんの超高層ビルが建てられた。でも同時に、セントラルパークという巨大な公園を同じ都市の中に作った。セントラルパークは、白人だろうと黒人だろうと、あらゆる人たちがコミュニケーションをとることができ、さまざまなイベントを開ける場所だ。超高層と同時にセントラルパークのような空間を作る国、それがアメリカだ」
 って言うんです。なかなかうまい返しだなと思ったと同時に、じゃあ日本はどうだろうって考えたんですよ。そうしたら、「セントラルパークなき超高層」なんですよね。


養老:日本の息苦しさって、そういうところからも来ているんでしょうね。


 正直なところ、僕は日本以外の国で長く生活したことはないので、日本が特に「息苦しい」のかどうか、よくわからないのです。「超高層ビルに閉じ込められるのがエリート」というのは、言われてみれば確かにその通りです。あらためて考えてみると、そういう人生が羨ましい、というのもおかしい気はします。タワーマンションとかも、「あんなに巨大だと、マンション内の移動だけでもめんどくさそう」とか僕は思ってしまうので。
 「エリート」は、コロナ禍の中でも、リモートワークで高リスクの超高層ビルでの密集から「解放」されやすかったのも事実ですが。

 読むと死ぬのが怖くなくなる、という本ではなく、世の中にはこんな人もいるのだなあ、というのが率直な感想でした。
 まあ、いつ死んでも仕方がない、と思う日もあれば、まだ死にたくないなあ、という日もあるのが、人間ってものなのでしょう。
 少なくとも「国のために死ね」と強要されないのは、今の僕の感覚では「幸運」ではあります。


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