琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

【読書感想】丹下健三 戦後日本の構想者 ☆☆☆☆

丹下健三――戦後日本の構想者 (岩波新書)

丹下健三――戦後日本の構想者 (岩波新書)


kindle版もあります。

丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)

丹下健三 戦後日本の構想者 (岩波新書)

内容紹介
時代の精神を独自の美へと昇華させる構想力.丹下健三が創り出す建築空間は,高度成長の道をひた走る戦後日本の象徴であった.「建築の化身」.直弟子・磯崎新をしてそう言わしめた人物の足跡を,多くの逸材を輩出した「丹下シューレ」の活動とともにたどる.従来批判されてきたバブル期の活動にひそむ先見と洞察に光をあてる.


 新国立競技場の問題で、何人かの建築家の名前がメディアに挙がっていましたが、それまで、建築というジャンルに疎い僕が知っている建築家というのは、ル・コルビジエと安藤忠雄さん、そして、この丹下健三さんくらいでした。
 そうそう、ガウディくらいは、さすがに知っています。


 丹下健三さんも、正直なところ「丹下段平に名前が似ている人」というくらいの認識だったのですが、最近ちょっと建築に興味が出てきたので、この新書を読んでみたんですよね。


 これを読んで、丹下健三という人、そして、建築家という仕事についてのイメージがだいぶ変わりました。


 著者は、冒頭で、1955年に発表された「現在日本において近代建築をいかに理解するか」という丹下健三さんの文章のなかの有名な一節を紹介しています。

 ある人は、この今の日本で、美は悪であるという。たしかに、そのような面がないとは言い切れないものがあるだろう。しかし、だからといって、生活機能と対応する建築空間が美しいものでなければならず、その美しさを通じてのみ、建築空間が、機能を人間に伝えることが出来る、ということを否定しうるものではない。このような意味において、「美しき」もののみ機能的である、といいうるのである。


 この丹下健三さんの有名な言葉について、著者はこんなふうに説明しています。

「美しいもののみ機能的である」。挑発的な響きさえ持つこの言葉は、建築家・丹下健三が残した名言の中でも突出して有名で、さまざまな場面で繰り返し引用されてきた。
 この言葉がインパクトを持つ要因として二つ挙げられる。一つは、いかに実態が醜悪でもそれを華麗な表層で覆ってしまえば美しくなる、という美容整形的な発想と丹下の言葉が一線を画するためである。もう一つは、求められた機能を真面目に充たそうと心がければ、余分な要素が削り落とされ、自ずと美しくなる、という機能主義的な発想と丹下の言葉が対極に位置するためでもある。丹下の発言は、美容整形とも、機能主義とも大きく異なり、選ばれし者のみが美を創出しうる、という神話的でロマン主義的な発想に基づいていた。


 僕も「わかったような、わからないような……」というところも少なからずあるのですが、建築家というのは、ひとつの建物を設計するだけが仕事ではなくて(もちろん、そういう建築家もいるのですけど)、もっと大きな都市計画にも携わる、街づくりのエキスパートでもあるのです。


 丹下健三さんは、1913年に大阪府に生まれ、東京帝国大学の自らの研究室で、さまざまな戦後日本の代表的な公共建築を手がけ、多くの後進も育てています。

 1974年東京大学を定年退職後、中近東、アフリカ、ヨーロッパ、シンガポールなどで広大な都市計画、超高層計画を実現し、「世界のタンゲ」と呼ばれるに至った。代表作に広島平和記念公園、旧東京都庁舎、香川県庁舎、国立屋内総合競技場、東京カテドラル、山梨文化会館、大阪万博お祭り広場、アルジェリア・オラン総合大学、ナイジェリア新首都計画、新東京都庁舎などが挙げられる。


 僕が実際に訪れたことがあるのは、広島平和記念公園と新東京都庁舎くらいなのですが、丹下研究室の錚々たる門下生たちが設計した建物も含めると、日本人で、丹下健三さん一派の建築と無縁の人生をおくる人は、まずいないのではないかと思われます。


 東京都庁舎について、著者は、丹下さんのスタンスをこのように説明しています。

 戦前、戦後を通じて、丹下は自ら設計する建築が都市・国土と有機的に結びつくことを絶えず目指して来た。言い換えれば、東京都庁舎のような公共建築を設計する際、知事室の居心地や内装から考えるのではなく、敷地周辺を取り巻く都市や、その都市を包含する国土全体の課題を整理した上で、具体的なデザインに着手した。この点で、丹下の設計スタイルは住宅デザインを専門とする建築家と大きく異なっていた。


 丹下さんは、ひとつの建物をつくるというより、都市をデザインする「建築家」だったのです。
 そして、それは頭の中でイメージする、というものではなく、きわめて実証的かつデータを重視したものでした。
 太平洋戦争の敗戦直後から、丹下さんとそのグループは、こんな仕事をしてきたそうです。

 丹下は研究室の卒論生と共に人口動態と経済活動の関係を分析し、研究成果を卒業論文として蓄積していった。具体的には、通勤現象そのものを統計学的にモデル化し、核と圏域の構造を見極めようと試みている。丹下は自らの博士論文の中で、「都心が通勤者通学者の固定的な人口集団と、サービス享受のために集まる流動的な人口集団を集中的に吸収している」とし、「居住地域の外延に向かう膨張」と「都心の成長」が同時に進行している、と分析している。
 これを立証するために、丹下は以下四つに着目した。一つ目に、職住の分化の程度を測定しながら、都心から何キロメートル圏内に90パーセントの通勤者通学者が居住しているかを検証している。その結果、丹下は東京、大阪、横浜で10〜15キロメートル圏内に、その他の都心では5キロメートル圏内としている。二つ目に、東京都心の23区の特質について言及し、三つ目に、バス、都電、国鉄、私鉄といった交通機関別の通勤時間や特性を分析する。四つ目に、自動車交通と駐車場、歩行者の関係に注目している。ここから、「交通の問題は人口の地域的配分の問題と深く関連しまた施設容積の地域構成とは切り離して考えることが出来ない」と結論づけている。


 こんなデータまで集めていたのか、と、この新書を読んでいて、驚かされました。
 都市の中心となるような建物をつくるためには、都市全体のことを知らなければならない、と丹下グループでは考えていたのです。
 ただ、ここまでやってしまうがために、設計に時間がかかったり、設計した建物が完成に至らなかったり、ということも少なくなかったようです。


 著者は、「丹下健三の功罪」を、かなり詳細に検討しているのですが、その
「罪」というか「限界」について、丹下さんがサウジアラビアで設計した多くの建築を例に、こんなふうに述べているのです。

 ここで留意したいのは、丹下に限らず、中東諸国の特徴的な景観をヒントに創造力を膨らませて、斬新な大学キャンパスを計画することは決して悪い話ではない。むしろ異文化に出合うことで、新しい発想が生まれる好機ともなりうる。しかしながら、海外の建築家が日本の大学から依頼されてキャンパスをデザインした場合、「着物の柄や兜の装飾をヒントに計画した」と説明すればどうであろうか。海外の建築家を好む施主からは一定の理解を得られるかも知れないが、浅薄な日本文化理解に止まっていると批判されても致し方ない。つまり、思想家エドワード・サイードの大著『オリエンタリズム』を持ち出すまでもなく、日本の建築家が中東で大規模開発を担当する場合、絶えず中東の文化を固定的・表層的に解釈し、知らず知らずのうちに再生産している危険性が高いことを、つねに認識すべきだろう。


 これは本当にありがちで、かつ、難しい問題ですよね。
 だからといって、どこでも同じものを持ってくればいいのか、というと、必ずしもそうではないのでしょうし。
 ただ、「その国のものを取り入れる」というのは、場合によっては「中途半端」というか、「かえって薄っぺらくみえる」ということは、たしかにありそうです。
 丹下健三でさえ、中東では、そういう批判を免れることはできませんでした。


 この新書の後半部分は、磯崎新さんや黒川紀章さんといった「丹下シューレ(丹下学派)」の人々の仕事について書かれています。
 この流れを知ると、丹下健三という人は、亡くなった現在でも日本の建築界に大きな影響を与え続けていることがよくわかるのです。


 日本でいちばん有名な建築家について書かれているのと同時に、「建築家という仕事」についても知ることができる、興味深い新書でした。
 正直、建築に全く興味がない人が入門書として読むには、ちょっと抽象的な概念について書かれているところが多くて難しいかな、とも思うのですが。


fujipon.hatenadiary.com

アクセスカウンター