琥珀色の戯言

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【読書感想】ゴーンショック 日産カルロス・ゴーン事件の真相 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

カリスマ経営者はなぜ「強欲な独裁者」と化し、日産と日本の司法を食い物にしたのか?知られざるゴーンの生い立ち、私物化の実態、マクロン大統領との確執……世界中が驚愕した前代未聞のスキャンダルの全貌を明らかにした迫力のノンフィクション。不正発覚から電撃逮捕までの裏側、国外逃亡の衝撃の手口など、新事実を大幅に加筆して文庫化。


 日産自動車のカリスマ経営者、カルロス・ゴーン会長が羽田空港で逮捕されたのは、2018年11月19日のことでした。
 経営不振に苦しんでいた日産を立て直し、その経営手腕がもてはやされたゴーンさんなのですが、逮捕後はレバノンへの逃亡劇もあって、「成功で傲慢になり、企業を私物化した『堕ちたカリスマ』というイメージになってしまったのです。
 あの逮捕から、もう3年以上経ち、レバノンへの逃亡後の経過も含めて、朝日新聞の取材班が文庫にまとめたのがこの本です。

 
 あの事件によって、ゴーン会長自身の功績も消し飛んでしまったのですが、先日、佐藤優さんが著書でゴーン元会長について書いておられました。


fujipon.hatenadiary.com


カルロス・ゴーン経営を語る』の項では、晩節を不正疑惑で汚したものの「名経営者であった事実は揺るがない」と述べられています。

 この本(『カルロス・ゴーン経営を語る』)を読み解く価値は、「日本の製造業がグローバリゼーションが進むなかで生き残るためには、結局のところ、ゴーン型の経営改革しか選択肢がない」ことがわかるところにあるだろう。
 グローバリゼーションとはすなわち低賃金化の圧力が絶えずかかっている状態のことである。もしその状態で国内製造にこだわるのであれば、リストラによる人件費の削減、販売ルートの整理、下請け・孫請けの解消による合理化など徹底した効率化しかない。とくに新型コロナの時代において先進国のメーカーは海外に移していた製造拠点を国内に戻す動きが活発化している。そういう意味でも改めてゴーン型経営を学び直す価値はあると思う。


 すべての有能なリーダーが、万人が認める高いモラルを持ち、清貧な暮らしをして、公私の区別をしっかりつけられれば、言うことはないのでしょうけど、実際はそうはいかないですよね。
 欧米では、「成功をおさめた経営のプロは、多額の報酬を得るのは当然のこと」ではありますし。

 ゴーン元会長が、とくに晩年にやった、さまざまな「会社を私物化して、自分の利益を得た(ようにみえる)こと」には、問題はあるのです。
 そのゴーン会長を、日産という会社は、こんな状況になるまでなぜ放置していたのか?


 2021年、裁判に証人として出廷した、志賀俊之・元COOと小枝弘・元相談役名誉会長の証言が紹介されています。

 志賀は「ゴーンの振る舞いを許した日産の責任も大きい」としたうえで、「特に私は10年間、代表取締役の立場にあり、コーポレートガバナンス企業統治)の担当役員でした。ガバナンスが機能していないと認識しながら改善できなかったことは、痛恨の極みで深く反省しています」と語った。とりわけ、ゴーンの指示に従って一部の報酬を開示せずに支払う方法を検討したことについて、「深く、本当に深く反省している。私の人生の中で痛恨の汚点です。後味の悪さはずっと残っています」と述べた。
 一方、小枝は「ゴーンが起こしてしまったことを処理しただけで、犯罪には全く加担していません」と強調した。仕組みの検討に加わったことの反省を問われると、「特にありません」と即答。「やめるべきだと言えなかったのか」という質問には、「ゴーンは絶対権力を握っていました。何を言っても聞くわけない」と言い放った。


 二人はともに、1999年に来日したゴーンが、次第に変節していったという見方を示した。志賀は「私は日産で最初にゴーンに会った人間でした」と振り返り、日産をV字回復させたゴーンを「経営者として深く尊敬していた」と語った。小枝も「大変勉強家で、人の意見もよく採り入れてくれた」「真面目に努力する人だった」と述べた。ただ小枝は、この成功が後のゴーンの変節の原点だという見方を示した。2004年に外国人経営者として初めて藍綬褒章を受けたことなどに触れ、「時間の経過とともに自信過剰になっていった」と振り返った。
 ゴーンが変化する大きな節目として、二人が共通して指摘したのは、ゴーンがルノーのCEOを兼務することになる2005年の人事だった。ルノーは当時、日産株の44.4%を保有していた。「日産CEOが日産の株主のCEOにもなり、絶対権力を持つようになった」(志賀)。小枝は、ルノーCEOを兼務するようになってゴーンが日本にいる時間が減ったと指摘した。
「何で日本にいないんだ」と尋ねる小枝に、ゴーンは「3分の1はルノー、3分の1は海外のいろいろなところに行く必要がある」と答えたという。小枝は「日本の現場の実情を知る機会が減っていった。現場の従業員、日産の役員との会話も減っていった」と語った。
 もう一つの節目として小枝が挙げたのは、2008年のリーマン・ショックだ。「ゴーンが対策を打って資金繰りが行き詰まらずに済んだ」と評価しつつ、この成功体験がゴーンをさらに増長させたという見方を小枝は示した。
 小枝はゴーンの在任期間は「10年が限界だった」と語った。その理由について、「10年を超えるとナンバーツ2以下がどうしても子飼いになり、意見が言えなくなる」「長年の成功体験で自信過剰になり、何を言っても無駄だった」と続けた。
 ゴーンについて当時は「必要な人材だった」という志賀も、徐々に態度に眉をひそめるようになっていったという。


 「権力は腐敗する」と言いますが、成功体験を積み重ねることによって、人の話を聞かなくなり、周りにイエスマンばかりを置く、というのは時代、国を問わないようです。
 最初は、マメに現場に足を運び、経営改善に真摯に取り組んでいた人だったのに。

 他の幹部社員の話を読んでいると、「日産という巨大企業の役員クラス、おそらく優秀な学歴や経歴を重ねてきた人のはずなのに、こんなに保身のために何も言えなくなってしまうのか……」と考えずにはいられなくなるのです。
 それが「独裁者のオーラ」みたいなものなのかもしれませんが、責任ある立場としてやるべきことをやる、会長の間違いを指摘するどころか、ゴーン会長の不正に手を貸した者もいるのです。

 ゴーン元会長の逮捕には、正面切って逆らえない日産の他の幹部たちによるクーデターという面もあったし、会社の腐敗の責任全部をカルロス・ゴーンに押しつけた、ようにも感じられます。

 カルロス・ゴーンが失脚する32年前の1986年、ゴーンと同じように社内権力をほしいままにし、日産自動車の中で「天皇」と呼ばれた男が失脚した。
 日産自動車労組の組合長を経て、日産とその関係会社の労働組合の連合体「自動車労連」(現日産労連)の会長を務めた塩路一郎である。塩路は1953年に日産に入社以来、同社の労組一筋に歩み、ことに1962年に自動車労連会長になって以降は、日産の経営は彼の意向に逆らうことはできなかった。


(中略)


 大阪府立大学を卒業し、1976年に入社した志賀俊之(後に代表取締役最高執行責任者)のときは、岩越忠恕社長のあいさつの後、塩路が登壇すると、それまでおとなしく聞いていた新入社員たちが、社長より偉そうな労組委員長の態度に鼻白み、ざわつき始めた。学生気分が抜けない彼らは遂に檀上の塩路に向かって紙飛行機を飛ばし、丸めた紙を放り投げた。とたんに塩路は激怒し、450人の新入社員に向かって「お前ら、数は力でないことを覚えておけ」と捨て台詞を残し、途中で切り上げて出て行ってしまった。塩路は会場を出がけに、事務局の人事部員の社員を捕まえて、「あそこにいるアイツとアイツの名前を後で俺に報告しろ」と聞こえよがしに言った。血相を変えた人事部員の社員が「皆さんはよくご存じないと思いますが、あの方は社長と同じくらいに偉い方です」と、新入社員たちに注意を促した。
 入社式の後、志賀たち新入社員が工場で研修を受けると、そこで初めて労組の強さを実感した。工場は労組が支配し、異論は一切許さない。「お前たちは入社式で、とんでもないことをしたそうだな」。組合員たちの間では志賀たちの同期の蛮行が知れ渡っていた。冷ややかな視線が投げかけられるなか、年かさの労組員がこっそり耳打ちした。「君たち、絶対に歯向かっちゃダメだよ」と。
 志賀は後年、労組の支部役員を務めることになるが、それは労組の役職をこなすことがすでに日産社内では出世のステップとして組み込まれていたからでもある。職場委員や職場長、支部役員など労組の役職をきちんとこなすことが、課長や部長など「職制」と呼ばれるラインに上がるルートとして構築されていた。職場で誰もが「これは」と思う有能な者ほど、労組から役職に就くよう打診されるのだ。
 例年、愛知県日間賀島で開かれてきた労組青年部のレクリエーションに志賀が参加すると、組合のスタッフから海の見える方向に立つよう促された。まもなく大きな白いヨットが姿を現した。
 塩路のヨットだった。
 接近してくるヨットのデッキに塩路の姿を見つけると、労組のスタッフが、全国から駆り出された日産労組の青年部の若者たちに手を振るよう求め、みな一斉に塩路に向かって手を振った。
「まるで、どこかの全体主義の国みたいでしょう」
 志賀はそう笑って振り返った。


 日産では、こういう人が「労働組合」を仕切っていて、会社に影響を与えていたのです。
 現在(2022年)より、日本でも労働組合の力が強い時代だったとはいえ、僕が10代半ばくらいまで、こんな人が権力を握っていたのですから、そりゃ、日産の経営も傾くよなあ。
 そして、一度権力を握った人に対して、周りが保身のために従順になりやすい企業体質は、ゴーン会長の時代に生まれたわけではないのです。
 そういう日産の「前時代性」に風穴を開けて、経営を立て直したはずのカルロス・ゴーンが、過去の権力者と同じように「独善的」になっていくのは、こういうのが人間の性なのか……と考えずにはいられません。

 このころ(1990年代末に、ゴーンさんが日産のCOOとして社内改革に乗り出した時期)のゴーンを広報部門出身の役員は「セブンーイレブン」と名付けている。「いままでの社長とは全然違うんだ。朝7時には会社に来ていて、本当に午後11時まで働いていた。食事も役員食堂だった。それで私が『セブンーイレブン』と言ったら新聞がそう書いたんです」。たまに「食べながら報告を聞きたい」と部下たちを食事に誘うこともあったが、誘われた部下の一人は「これがすごく緊張感の漂う会食でして、ものすごく憂鬱でした。会社の中で打ち合わせをやった方がまだいい。ゴーンさんは食べるのも速いですしね」と言う。


 これほど日産の改革に打ち込んでいた人が、あのような形で、犯罪者として日本から逃亡してしまうことになった原因は「老い」だったのか、「成功に倦んでしまったから」なのか……

 人が、成功を全うすることの難しさを思い知らされるのと同時に、ゴーン元会長がやってきた日産の再生を、晩年の失敗で、「なかったこと」にしてしまうのは、もったいないとも思うのです。


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