Kindle版もあります。
北条義時は十八歳で突如、歴史の表舞台に立たされる。義兄の源頼朝が平家追討の兵を挙げたのだ。義時は頼朝の側近として鎌倉幕府の樹立に貢献。頼朝没後、父時政に従い比企氏ほか有力御家人を排斥する。さらには父を追放して将軍補佐の執権職を継ぎ、甥の将軍実朝と姉政子を支えて幕政を主導。後鳥羽上皇と対決した承久の乱で鎌倉勢に勝利をもたらした。公武関係の変遷を辿り、武家優位の確立を成し遂げた義時の生涯を描く。
2022年のNHK大河ドラマは、三谷幸喜さん脚本の『鎌倉殿の13人』ということで、小栗旬さんが演じる主人公の北条義時とその時代に関する本もたくさん出ています。
この中公新書の『北条義時』はそのなかの一冊なのですが、北条義時という人物の伝記というよりは、天皇家や摂関家との関係を絡めつつ、源頼朝とともに戦った東国武士たちの頂点に北条家が立ち、政権を安定させるまでの時代の流れが描かれているのです。
北条氏のルーツや保元・平治の乱から源平合戦と、鎌倉幕府の成立までにかなりのページが費やされており、タイトルである北条義時に関する記述が増えるのは、頼朝の死後、本のちょうど半ばくらいになってからです。
そもそも、この本を読んでも、「北条義時の印象的なエピソード」みたいなものはほとんど出てこないんですよ。
義時自身も、父・時政の正室の子である弟がいて、時政の後継者になれるかどうか、かなり微妙な立場が長年続いていたようですし、勇猛な東国武士としてのエピソードも紹介されていません。
頼朝の妻・政子の弟であり、有能な身内として頼りにされていたけれど、「英雄」的な人物ではなかったのです。
この本を読んでいると、北条家は、「源氏直系の将軍を排して、自分たちが天下を取る」というよりは、「北条家が生き延びるために、次々に立ちはだかってくる敵を排除していたら、いつのまにか自分たちが最高権力者になっていた」ようにも見えるのです。
勢力争いをしていた、レーニンの周囲の有力者たちが「まあ、あいつなら与しやすいだろう」とみなして、「誰も積極的に反対しなかったため」権力の座についたと言われているスターリンをちょっと思い出してしまいました。
ところが、そのスターリンは、のちに「大粛清」を行うことになります。
保元・平治の乱から源平合戦で、「戦乱の時代」は、ひとまず決着がついた、と僕は思っていたのですが、その後の鎌倉幕府では、東国武士たちの熾烈な勢力争いが続いていたのです(のちには、後鳥羽上皇主導の『承久の乱』も起こっています)。
(源)頼家(頼朝の子。二代将軍)を新たな幕府の棟梁、すなわち鎌倉殿とする体制も再構築された。いわゆる十三人合議の体制が、建久十年(1199)四月に発足したのである。その面々は以下のとおりである。
北条時政、同義時、大江広元、三善康信、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、二階堂行政
従来は、頼家の功績や人物像について否定的な立場をとる『吾妻鏡』の記述に引き摺られ、この体制は頼家の権力を制限するものであるとされた。だが近年では、幕府に持ち込む訴訟について、以後はこの十三人以外の人々が頼家に取り次ぐことを禁ずるというものであるとされている。
著者は、この「十三人合議」は、頼家の権力を制限し、合議制で物事をすすめていくためというよりも、源氏の大黒柱であった頼朝の突然の死で不安になった人々から、所領安堵などの訴訟がさまざまなルートで多量に持ち込まれ、幕府が混乱してしまうのを危惧して定めたのではないか、と述べています。
この「鎌倉殿の十三人」は、いずれも鎌倉幕府の創成期に大きな功績を挙げ、源氏と縁が深かった人々なのですが、著者によると「彼らにもう一つ共通していたのは、官職などを見ると鎌倉幕府の御家人たちのなかで数少ない諸大夫身分(四位および五位)か、それに相当する地位を認められた者たちだった」そうです。
鎌倉幕府は「はじめての武家政権」というイメージが強いのですが、京都の皇室や貴族たちとの関係や、貴族社会での「家格」が幕府のなかでも重んじられていたのです。
大河ドラマのネタバレになってしまいそうなので、詳細は省きますが(というか、歴史ドラマというのは、"if”の世界のものでなければ、最初からネタバレ前提ではありますが)、鎌倉幕府をつくった功労者たちである「鎌倉殿の十三人」は、その後、協力して難局に立ち向かうこともあれば、内輪で壮絶な争いを繰り広げることにもなるのです。
三谷幸喜さんが、このテーマで大河ドラマの脚本を書く、と聞いたときには、「こんな地味で知名度も低い時代の話で、1年間もつのだろうか」と心配になったのですが、この本を読むと「なるほど、これはドラマになるなあ」と感心せずにはいられませんでした。
源氏の勝利に貢献した彼らの「その後」をみていくと、平清盛のもと、「平家にあらずんば、人にあらず」の時期から壇之浦まで大きな内部分裂を起こさなかった平家はけっこう立派だったのかもしれません(分裂する余裕もなく追いつめられていった、というのが真相の可能性もありますが)。
僕がこの本のなかでいちばん印象深かったのは、源氏の三代将軍・源実朝に関するこんなエピソードでした。
相模川に架かる橋が数間にわたって朽損しているため、修理すべきであると三浦義村が報告した。相模川は、相模国のほぼ中央を北から南に流れて海へ注ぐ大河川であり、それ自体が重要な流通路であったが、そこに架かる橋もまた交通の要衝であった。
建久九年(1198)に稲毛重成が橋を新造した際、その落慶供養に参列した頼朝は、帰路に落馬し、それから程なく没したという。そして、新造を請け負った稲毛重成もまた、幕府内の抗争で落命することになった。これらの先例を踏まえて、三浦義村の報告を審議した義時・大江広元。三善康信は、橋はすぐに再建しなくてもよいのではないかと実朝に答申した。
その答申に対して、実朝は以下のように答えた。父頼朝の死は挙兵ののち約20年、官位を極めた末のことであった。また、重成は自らの不義(同族の畠山重忠を陥れたこと)で天罰を被ったのであろう。架橋は無関係だから、不吉などというべきではない。相模川の橋は、二所詣(伊豆山神社、箱根社および三島社への参詣)の要所であり、人々の往来にも便利である。だから破損してしまわぬよう、速やかに修復するように、と (『吾妻鏡』建暦二年二月二十八日条)。義時らの答申は、いわゆる縁起の良し悪しを先例から考慮したものであろう。これはこれとして理解できる意見だが、それよりも、ここに記された実朝の意見は、現代的な価値観からすると至って合理的な判断だといえるのではないだろうか。縁起の良し悪しのような見えざる脅威を忌避するよりも、現実の利便性を優先すべきである、というわけだ。経験豊富な幕府の宿老たちの意見を冷静に抑え、合理的な判断を示す鎌倉殿としての姿がそこには描かれている。
だが、『吾妻鏡』を記し、そして読んだであろうこの時代の人々は、この記述をどう捉えたのであろうか。
このやり取りは他の史料で裏付けを取ることができないため、これをそのまま事実として受容するわけにはいかない。だが、実朝をこのような存在として描こうとした『吾妻鏡』の編纂者の意図がここに込められていると理解することはできる。実朝の末路のことも承知していたであろう『吾妻鏡』の編纂者の意図が、である。
現代社会の感覚からすると合理的な判断を下す将軍として描かれていた実朝の末路は、二十八歳の若さでの横死であった。
この実朝の言葉を読んで、「ああ、この将軍がもっと長く生きていたら、鎌倉時代は違った世の中になっていたかもしれないなあ、こんな合理的な考え方ができる人だったのか!」と思ったんですよ。
2022年を生きていて、「呪い」など信じていない僕には「はい論破!」という痛快さがありました。
しかしながら、同時代の人たちにとっては、実朝の合理的思考は、必ずしも痛快なものではなかったし、実朝自身も若くして非業の死を遂げました。
もしかしたら、こんなふうに「合理的に『論破』してしまう人」だったからこそ、実朝は周囲の伝統を重んじる家臣たちに疎んじられ、それがのちの悲劇につながったのではないか、とも考えてしまうのです。
結局、何が正解かなんてわからないし、これも実朝が名君として天寿を全うしていれば、「合理的な改革者」として手放しで称賛されるエピソードなのかもしれません。
絶対的な「正解」がないからこそ、傍観者としてみる「歴史」は面白い。
当事者は、なんでこんなことになるのだろう……と嘆いてばかりだとしても。