北朝の天皇-「室町幕府に翻弄された皇統」の実像 (中公新書)
- 作者:石原 比伊呂
- 発売日: 2020/07/20
- メディア: 新書
Kindle版もあります。
内容(「BOOK」データベースより)
建武三年(一三三六)、京都を制圧した足利尊氏は新天皇を擁して幕府を開いた。後醍醐天皇は吉野に逃れ、二帝が並び立つ時代が始まる。北朝の天皇や院は幕府の傀儡だったと思われがちだが、歴代将軍は概して手厚く遇した。三代義満による南北朝の合一以降、皇統は北朝系が占めた。一見無力な北朝は、いかに将軍の庇護を受け、生き残りに成功したか。両者の交わりをエピソード豊かに描き、室町時代の政治力学を解き明かす。
南北朝時代の天皇といえば、「天皇親政」を目指す南朝と、室町幕府(足利家)に擁立され、その言いなりだった北朝、というイメージがあるのです。
僕は、歴史を学んでいて、たとえば「源実朝が暗殺されたあと、北条家が執権として鎌倉幕府の実験を握ったのだけれど、京都から迎えられたその後の『将軍』は、どういう人で、何をしていたんだろう?」というようなことが、なんだか気になるんですよね。
南朝の天皇は、なんとか室町幕府に対抗していたのだけれど、じゃあ、北朝の天皇は、どんな人で、将軍とどういう関係だったのか?
逆に、将軍は、天皇をどう処遇していたのか?
この本では、そういう、ちょっと気になるけれど、歴史の授業ではスルーされてしまう「北朝の天皇と将軍の関係」について、丁寧に書かれているのです。
歴史上の偉い人たちは、みんなそれぞれの立場に縛られて、大義に基づいて行動している、と思い込みがちなのだけれども、彼らもやはりひとりの人間で、個人的な好みとか相性があるのです。
さて、当時の朝廷には、「やるべきことをきちんとやる」という性格の義満と決定的に相性の悪い人物がいた。後円融天皇である。
義満と後円融天皇の相性は、次のエピソードが物語る。康暦二年(1380)の8月7日、義満は参内して後円融を訪ねた。たまたま運悪く後円融は廷臣の一人と酒宴を開いている真っ最中だったので、「じゃあ、いいや。出直すか」とばかりに義満はきびすを返して挨拶もなしに帰宅することにした。義満来訪の報告を受けた後円融は慌てて義満を押しとどめ、場所を改めて酒を酌み交わした。このちぐはぐさが、なんとも二人の関係性を暗示している。ともあれ、義満は後円融に会いに来た目的を伝えた。義満は後円融に「笙を演奏してみてはどうか」と進言するため参内したのである。
その義満の提案を、どういうわけか後円融ははぐらかした。あまり気乗りしなかったらしい。そのような後円融の煮え切らない態度に、義満は不満を隠さなかった。後光厳も尊氏や義満も嗜んだ笙は、この頃までに、後光厳皇統と足利家との昵懇関係を象徴する楽器としての意味を帯びるようになっていた。足利家率いる幕府のバックアップによって北朝正統の座を維持できている後光厳皇統の御曹司としては、当然、義満の提案を前のめり気味で受け入れるというのが、適切な政治的判断であっただろう。しかし、後円融は、そのような常識的な判断のできる人物ではなかった。政治家として判断が適切にできない後円融に対して、義満は苛立ちを加速度的に募らせていく。
義満の後円融に対する接し方は、とにかく厳しかった。それをもって、「足利義満は天皇家を乗っ取ろうとしている」と主張したのが、今谷明氏による「王権簒奪計画説」であるが、結論を先に述べると、この説はおそらく成り立たない。なぜならば、義満が厳しかったのは、後円融という個人に対してであり、北朝天皇家(あるいは後光厳院流)全体を圧迫していたわけではなさそうだからである。この場合の考察対象は後円融の皇子として皇位を継承した後小松天皇ということになるが、義満には仙洞御所で後円融のことを雑にあしらったりいじめたりしてから、その足で後小松の内裏に立ち寄って遊興にふけるという行動パターンがしばしば見られるなど、後小松に対する姿勢は一貫して親和的であった。
将軍たちの実際の行動をみていくと、天皇家をないがしろにしていた、というわけではなくて、基本的には丁重に扱い、援助もしていたのです。
ただし、性格的に合わないと、相手が天皇であっても、けっこう邪険に扱うこともあったようです。
ないがしろにしていた、というよりは、「相手の性格が苦手であれば、その『嫌い』という感情をを表に出すことが許されるくらいの距離感」だったともいえそうです。
応仁の乱の際には、天皇と将軍が同じ敷地内に「同居」していた時期もしばらくあって、頻繁に飲み会をしたり、一緒に蹴鞠や和歌をつくったりしていたのです。
文明七年(1475)、義尚は伊勢貞宗邸で犬追物(馬上から犬を追射する武芸)を催した。それ自体は問題なかったのだが、射手に武家の伊川一門や公家の高倉永継が選ばれたことには少し問題があった。高倉永継が公家でありながら武芸の場に登場することは、他の貴族から後ろ指を指されたとはいえ、さほどのことでもない。最大の問題は伊川一門が義政の御供衆(この場合、側近グループくらいの意味で理解されたい)であったことである。
義政の御供衆だったこともあり、伊川一門は将軍御所で射手としての習礼(予行演習)を行った。しかし、将軍御所はイコール内裏でもある。皇居で犬追物の練習を行ったのである。清浄が求められる皇居で、殺生禁断に著しく抵触する犬追物。それまで神秘のベールによって維持されてきた天皇の権威に直接関わる事態が発生したのだから、これは大問題である。
神秘性を守るために様々な禁忌に取り囲まれていたはずの内裏は、将軍御所を間借りしたことで、なんでもありの空間になりつつあった。
表現を換えれば、緊張感のない場になったということである。それを象徴的に表すのが文明三年(1471)12月に将軍御所の泉殿(泉水に臨んで建てられた離れ)で催された後花園院の一周忌の観音懺法(かんのんせんぽう)である。日野富子の尽力により皇室出身の高僧が招かれて執り行われた追善儀礼には、後土御門天皇も顔を出すべく最密儀で行幸した。最密儀とは、何ら儀礼的装飾としない、ただの移動のことで、それが許されるのは、ずばり、誰も見ていないからである。天皇家と将軍家が同居したことにより、将軍御所と内裏は物理的にボーダーレスとなった。それゆえ、その往来は日常的行為となったのであり、いわば、ジャージのままコンビニに行く感覚での往来が常態化してしまっていた。それは、とりもなおさず天皇家と将軍家の交流から儀礼性が失われたことを意味する。
同居により、将軍家と天皇家の公私混同が進み、「公」の部分が不可視化したのである。そして折からの、改元の儀礼的手続きが正しく履行されなかったり、正月儀礼さえ何年も行われない状況のもと、天皇家と将軍家の関係は、緊張感のない、ただただ享楽的な関係になっていった。大飲ばかりしているとは、まさに、そのような緊張感のなさの象徴であったといえる。
将軍家と天皇家は、お互いを必要としていたのだ、と著者は強調しています。
足利家は、鎌倉幕府を滅ぼし、将軍位についたとはいえ、家格としては、源氏の名門の一つではあるが、傑出した名家ではなかったため、天皇の権威を必要としていたのです。
そして、北朝の天皇家の側も、足利家の武力と経済力がなければ、生き延びることができなかった。
著者は、「はじめに」で、こう述べています。
さて、話を戻して、南朝に人気がある理由の三つ目であるが、それが後醍醐天皇の個性にあるように思う。後醍醐といえば、天皇親政の理想を掲げ、その実現のために人生を懸けた天皇という印象も強いだろう。この「人生を賭して理想を追求する」という響きは、なかなかイメージが良い。後醍醐は高邁な理念を掲げて、もはや歴史的役割を終えていた旧勢力(鎌倉幕府)を打破したが、その高すぎる理想はめまぐるしく転変する現実に対応できず、時代の風に乗った成り上がり者(足利尊氏)に敗れ去った。忠臣たちは、主人の高邁な理念実現のために殉じ、皇子たちは悲劇的でミステリアスな末路を辿る。しかも、それは実質10年ほどの短期間のうちの出来事であった。鮮やかに咲き誇り、そしてはかなく散った南朝の歴史は、源義経に同情し、桜の花をこよなく愛する日本人の心性を、見事なまでに刺激する。
そして、「それに比べて北朝は……」という話である。南朝が心情的に日本人の哀愁を誘う以上、その敵役(ヒール)は、その時点であまり好印象を抱かれない。しかも、敵役としての存在感も、自らを担ぎ上げた足利家に独占されてしまっている。結果、日本人にとって北朝天皇家の印象とは、「よくわからない」ということになってしまうのである。
ただ、繰り返しになるが、現在に至る天皇家の先祖は北朝なのである。明確な理念を掲げ、強烈な存在感で時代を駆け抜けた後醍醐率いる南朝ははかなくも消え去り、いまひとつ影の薄い北朝が生き残った。一見、「なんて皮肉な……」とも思えるが、よくよく考えてみれば、「理想(=能書き)を語って大風呂敷を広げていたA氏はいつの間にか人前から姿を消してしまい、ずっとその場で踏ん張り続けたのは地味でキャラの立たないB氏だった」というのは、現代でも往々にしてありがちな構図のような気もする。A氏(南朝)の方が、一瞬のキラキラはあるのかもしれないが、持続的な生命力を発揮するのはB氏(=北朝)だったりするのである。
結論を先に述べれば、おそらく北朝天皇家に、「(現代人から見て)高邁な理想を追求し、それを実践に移した人物はいない(わがままを実践に移そうとした人物はいる)。しかし、それがゆえに、中世という時代を泳ぎ切れたのである。
現在も天皇家が続いているのは、北朝がバトンを繋いできたから、ではあるのです。
当事者たちが、そのときにどう考えていたかはさておき、「理想主義者は半ばで倒れ、目立たず、のらりくらりと生き残ってきた人間が最後に残る」というのが、歴史上繰り返されてきたんですよね。