琥珀色の戯言

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【読書感想】「失敗」の日本史 ☆☆☆☆

「失敗」の日本史 (中公新書ラクレ 719)

「失敗」の日本史 (中公新書ラクレ 719)


Kindle版もあります。

「失敗」の日本史 (中公新書ラクレ)

「失敗」の日本史 (中公新書ラクレ)

元寇の原因は完全に鎌倉幕府側にあった? 生涯のライバル謙信、信玄共に跡取り問題でしくじったのはなぜ? 光秀重用は信長の失敗だったと言える? あの時、氏康が秀吉に頭を下げられていたならば? 日本史を彩る英雄たちの「失敗」を検証しつつ、そこからの学び、もしくは「もし成功していたら」という“if"を展開。失敗の中にこそ、豊かな"学び"はある!


 歴史を学んでいると、「なぜ、この人(歴史上の人物)は、こんなことをしてしまったのだろう?」と思うことって、たくさんありますよね。
 NHK大河ドラマで話題になった、明智光秀が起こした「本能寺の変」とか、豊臣秀吉朝鮮出兵とか。
 

 本書の試みとしては、歴史上の失敗を取り上げることで、その時代の特徴を分析しながら、なぜそれが失敗だったのかをあきらかにする。そしてもし失敗がなかったら、歴史はこう変わっていたかもしれないと推測する。

 というコンセプトで書かれた本なんですよ、これ。
 採りあげられている時代は、鎌倉時代平安時代の末期:12世紀後半)から、関ヶ原の戦い(1600年)まで。
 「歴史」といっても、「なぜ日本は太平洋戦争を起こしたのか?」というような、近現代史の「失敗」には触れられていません。

 こういう本にありがちな、歴史上の人物への思い入れだけで「ああすればよかったのに」と書かれているわけではなく、その人物が「選択」をした背景やその時代の状況に関しても、著者の知識が詰め込まれていて、「こういう事情があったのか」と、あらためて考えさせられるものになっています。著者の歴史上の人物への評価が強く反映されすぎている、と感じるところもあるのですが。

 では(平)清盛はどこで失敗したのか? 
 清盛と平家のあり方を20年にわたって、伊豆の蛭ヶ小島からずっと見ていた人物がいます。源頼朝ですね。彼が清盛を見つめて出した答えは「京都からは距離をおく」ということだったと僕は思います。
 頼朝自身は13歳まで京都で暮らした。だから彼は精神の形成期を京都で過ごした都人なのです。にもかかわらず頼朝は頑として京都に行かなかった。鎌倉で政権をつくることに成功したあとも、たった2回しか京都に行っていない。
 彼がいた鎌倉が非常に暮らしやすい土地だったのならまだわかりますが、当時の鎌倉はどう考えてもインフラの整備が進んでいなかった。現代の感覚で言えば僻地です。
 しかし、それでも頼朝は、鎌倉から動こうとしなかった。これは、頼朝が「清盛の失敗は京都から離れなかったところにあると見ていた」ということの証左だと思います。


 後世からみると、頼朝が自らの根拠地としていた鎌倉に幕府を開いたのは当然のことのように考えてしまうのですが、頼朝自身は京都でかなり長い間暮らしていた人なんですよね。だからこそ、都への憧れよりも、「京都に染まってしまっては、平家の二の舞になってしまう」と、考えることができたのかもしれません。京都では父親の源義朝平治の乱で敗れて亡くなるなど、頼朝自身が京都に良い思い出がなかったのではないか、という気もするのです。
 天下を取るような人が、そんなことで自分の拠点を決めるわけないだろう、と思う一方で、英雄だってひとりの人間だし、勘とか好み、そのときの気分などで物事を判断してしまうこともあるのではないかと。
 多くの君主や名将が、自分の後継者を能力や家臣団の意見で判断せず、寵愛する妃の生んだ子を選んで国や家の衰退を招いてもいるのです。
 「なぜ秀吉は、将来的に豊臣家にとって危険な存在になる可能性がある徳川家康を潰さなかったのか」という疑問を著者は提示しています。
 「その後」を知っている後世の人間だから、なおさらそう思うのかもしれませんが、全盛期の秀吉の力があれば、家康を抹殺することは(あるいは、正面から戦って打ち破ることも)十分可能だったはずです。
 そうしなかったのは、家康の実力を恐れていたのか、あるいは過小評価していたのか。個人的な友情を感じて倒すのがしのびなかったのか。
 それとも、他の家臣が動揺するリスクを考えていたのか。
 もしかしたら、「天下を取ってしまったがゆえに、失うことが怖くなってしまった」のではないか、とも思うのです。


 著者は、浅井長政が信長を裏切って朝倉についたことについて、こう述べています。

 浅井家は長政の祖父、亮政が活躍して戦国大名になったという、もともと歴史の短い大名です。その歴史を追っても、「朝倉が手助けをしてくれた」という話はあまり出てこない。二代目、浅井久政は無能で有名ですが、この人も特に朝倉の世話になってはいない。とすると「朝倉のどこにそんな恩義を感じていたのか」という話になるわけです。
 そこで離反の理由として考えられるのは「戦国大名のDNA説」。
 信長には意外とそういうところも垣間見られるのですが、一度味方になった相手はわりと信じている。だからこそ、最後は明智光秀にやられるのですが、朝倉戦でも浅井を信じて、背後は警戒していなかった。「今なら、あの織田信長を討つことができる」。そう感じる瞬間が、恐らく長政にあったのではないでしょうか。
 浅井領は10万か12万石です。となると浅井の動員能力は2500人。がんばっても3000人程度。正直、時代のメインプレイヤーではない。むしろサブです。そんな浅井が、メインに躍り出るには、信長を討つころが手っ取り早い。しかも気がつくと、その信長がまるで警戒せずに自分に背中を向けている。
 そう考えたき、彼もまた戦国大名ですから、功名心への誘惑に勝てなかったのではないでしょうか。信長を討てば、自分は一気にのし上がることができる。僕はそのときの長政に、明智光秀の心情と通じるものがあったのではないかという気がしてなりません。

 
 本能寺の変も、実際は、光秀にとっては「チャンスを虎視眈々と狙っていたわけではないのに、無防備な織田信長が自分のすぐ近くにいて、周りの武将たちが駆けつけてくるのにも時間がかかるという状況ができてしまった」がゆえの「発作的な謀反」だったのかもしれません。

fujipon.hatenadiary.com

 光秀は、在京時の信長の身辺が手薄で危険なことを以前から指摘し、改善するように献言してもいたのです。

 光秀の裏切りについて、「信長は油断していた」とよく言われます。それについてはどうでしょうか。油断するもなにも、光秀は近畿方面軍の司令官です。言わば、信長の「親衛隊」の隊長。その隊長に対して油断しないためには、「親衛隊に対する親衛隊」を配備しなければならない。それすら信用しないとすると、さらにもうひとつ親衛隊を配備して……となります。でもそれは無理ですよね。たとえ親兄弟を置いても、裏切るかもしれないですから。
 だから信頼している親衛隊の隊長に裏切られたら、これは信長に限らず、もうどうにもならない。親衛隊の隊長に、「能力はあれども、どこの馬の骨かわからない人を立てたことが、信長の運の尽きと言えば、もちろんそうですが、そこはコインの表と裏。
 先鋭的に才能を抜擢していったからこそ、あれだけ大きな領土を手早く手に入れることができた。その結果、明智光秀に裏切られて殺されてしまったわけですが、もし信長も代々の地元の家来ばかりで固めていたら、尾張の王様として地元防備にがんばる大名で終わっていたことでしょう。成功と失敗も同じコインの表と裏なのです。


 当時の感覚でいえば、昔からの仕えてきた家臣たちよりも、有能な新参者たちを重用する織田信長の人材登用は、常識はずれなものだったのです。
 信長に背くくらいの気概と独立心があるからこそ、彼らは信長の代理として、各地での領土拡大を成し遂げることもできました。
 著者は、「負けない戦術」を駆使して、堅実に隣国の信濃を攻略していった武田信玄を賞賛する一方で、信玄が生涯をかけても、本国の甲斐から信濃駿河までしか領土を拡大できなかったことも指摘しています。


  当時の多くの戦国大名たちの「考えかた」について、著者は今川義元を例にあげています。

 これは非常に有名な話、というより、また僕が言っているのですが、義元は、今川家だけで使われる法律として「今川仮名目録」を制定しました。その中で義元は「わが今川領は、誰の力も借りずに静謐を保っている」ということを明言しています。将軍の権威を借りているわけでもなければ、天皇の名を使っているわけでもない、今川の力で平和を保っていると。だから、領内で今川の手の届かない土地があってはならない。今川の権力というのはすべての土地に及ぶのだと彼は言っています。
 これは言わば、戦国大名今川家の独立宣言だと僕は考えています。俺の領土は俺がすべてを取り仕切っている。先述した沼津港の船もそうです。そのうえで、平和を保っている。つまり自立。これこそが戦国大名の本質だと思います。
 今川にとって、もっとも大事な目的は、やはり自分の領土を守ることです。天下統一など、戦国大名は考えていない。自分の国を守ることが戦国大名の存在理由であって、「天下布武」と言っていた織田信長のほうが、例外なのです。
 僕も遊んでいますが、「信長の野望」などのゲームの影響もあって「すべての大名が天下統一を目指していた」という見方が世の中に根強く広まっているように感じます。しかし現在では、さすがに研究者は誰も義元が上洛を目指していた、などとは考えていません。


 「今川義元は、純粋に信長の勢力を叩くために桶狭間に進軍していた」という説を著者は唱えています。
 それが最近の研究者のなかで、どのくらい信ぴょう性があると考えられているのかは不明ですが。
 それでも、たしかに、「すべての大名が天下統一を目指していた」というのは「『信長の野望』史観」だ、との指摘には、「言われてみれば、そうかもしれないな」と納得してしまうのです。『信長の野望』をプレイしていても、「この大名で天下統一とか無理だろ、という勢力のほうが多いわけですし、「天下云々よりも、自分の領土を守る」ほうが現実的ですよね。

 そもそも、当時の人が、あるいは歴史上の人物が、本当は何を考えていたのか、なんていうのは、結局のところ、わからないのです。史料が残っていたとしても、それが真意なのか、建前なのかもわからない。それは、今の時代を生きている人間だって同じことではあります。
 「わからない」からこそ、「歴史」には、いろいろ想像する余地があるし、学ぶこと、考えさせられることも多いのでしょう。
 それでも、「どうしてあんなことをしたのだろう?」と、過去に向かって、問わずにはいられないのです。


「違和感」の日本史

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信長の野望・創造 with パワーアップキット - Switch

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  • 発売日: 2017/03/03
  • メディア: Video Game

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