- 作者: 呉座勇一
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2016/10/19
- メディア: 新書
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内容(「BOOK」データベースより)
室町幕府はなぜ自壊したのか―室町後期、諸大名が東西両軍に分かれ、京都市街を主戦場として戦った応仁の乱(一四六七~七七)。細川勝元、山名宗全という時の実力者の対立に、将軍後継問題や管領家畠山・斯波両氏の家督争いが絡んで起きたとされる。戦国乱世の序曲とも評されるが、高い知名度とは対照的に、実態は十分知られていない。いかなる原因で勃発し、どう終結に至ったか。なぜあれほど長期化したのか―。日本史上屈指の大乱を読み解く意欲作。
人の世むなし(1467)応仁の乱。
この語呂合わせで起こった年を覚えたなあ、と懐かしく思いながら、この新書を手に取りました。
「応仁の乱」は学校の歴史の授業にも必ず出てくるので、そんなの聞いたこともない、という人はいないはずですし、「この長い戦乱をきっかけに室町幕府の威光は失墜し、下克上・群雄割拠の戦国時代がはじまった」というくらいの知識はほとんどの人が持っているのではないかと思います。
とはいえ、この長い戦乱が、どんなきっかけではじまり、どのような経緯を経て、結果的に誰が勝ったのか、ということまで、スラスラと答えられる人は、あまり多くないでしょう。
もちろん僕もそのひとりなのです。
この新書では、その「応仁の乱」の勃発から収束までが丁寧に説明されており、僕も「これを読んで、ようやく『応仁の乱』がどういうものだったのか、わかったような気がした」のです。
正直なところ、あまりにも複雑怪奇というか、敵と味方が入り乱れ、入れ替わったりもしており、最後まで読み終えた時点で、最初のほうはもう忘れている、という感じではあるのですけどね。
著者は、興福寺をはじめとする奈良の高僧たち、主に経覚と尋尊の視点からみた「応仁の乱」についても詳述しています。
これまで、歴史研究家たちが「時代の流れについていけなかった守旧派」と断じていた尋尊を「受身ではあったが、激動の時代に生き残るための処世術を駆使したリアリスト」というような評価をしています。
歴史家というのは、マルクス主義などの影響もあって、改革者を高く評価しがちなのだけれど、それはあくまでも後世からの視点でしかないのです。
この本で応仁の乱の経過をみていくと、僕がこれまで記憶していた、「8代将軍足利義政には子どもがいなかったので、弟の義視に将軍職を譲るつもりで還俗(僧侶であることをやめて俗人に戻ること)してもらったけれど、その後に実子の義尚が生まれたため、その母親の日野富子の後押しもあって、義尚を後継者に立てようとして争いが起こった」ということや、細川・山名両氏の勢力争いから発した大乱だった、というのは、必ずしも正確ではないということがわかります。
寛正五年(1464)十二月、足利義政の弟の浄土寺義尋が還俗し、足利義視と名乗った。男子のいない義政が自身の後継者になってほしいと弟に頼んだのである。しかし、寛正六年十一月、義視の元服直後に、義政の実子(のちの義尚。以下義尚で統一)が誕生したことで、事態は複雑化した。義政は義視から義尚という順での将軍継承によって解決しようとしたと見られるが、当時の幕政は義政の鶴の一声で動かせるものではなかった。
この時期、幕府には三つの政治勢力があった。第一は、伊勢貞親を中心とする義政の側近集団である。義尚の乳父(養育係)である貞親は、義視の将軍就任には反対であった。義政が将軍を続け、成長した義尚が後を継ぐことこそ望ましい。
なお、一般には我が子を次の将軍にと願う日野富子が義視の排除を図ったと思われているが、義視の妻は富子の妹であり、両者の関係は必ずしも悪くなかった。富子は義尚成長までの中継ぎとしてなら義視の将軍就任を支持する立場であり、この時点では伊勢貞親と意見を異にしていたのである。
また、東軍の領袖である細川勝元と西軍の山名宗全とは、とくに険悪な関係ではなかったそうです。
応仁の乱が起こった大きなきっかけは畠山政長と義就による家督争いでした。
そこに、さまざまな大名の思惑が入りこんでしまって、どんどん事態は複雑になっていきます。
事態を決定的に悪化させたのは御霊合戦への山名宗全の介入である。畠山義就と政長の一対一の合戦でも義就が勝利したはずで、宗全の援軍派遣は蛇足と言わざるを得ない。本来、諸大名の合従連衡は防御的・保守的なもので、連合して敵を攻撃する性格を有していなかった。ただ、宗全の支援を受けた義就軍が政長軍を撃破すると、盟友の政長を見捨てた形となった細川勝元は武士としての面目を失った。勝元が東軍を組織して開戦を決断したのは、成身院光宣らの進言もさることながら、戦争に訴えず宗全の横暴を認めては大名連合の盟主としての声望を失うという危機感に由来する。
細川・山名という二者間の利害対立だけが問題ならば、当事者同士の交渉で妥協可能だった。実際、文明六年(1474)に細川氏と山名氏は諸将に先駆けて講和しており、両家は不倶戴天の敵とは言えない。けれども、勝元と宗全が多数の大名を自陣営に引き込んだ結果、戦争の獲得目標は急増し、参戦大名が抱える全ての問題を解決することは極めて困難になった。しかも長期戦になって諸大名の被害が増大すればするほど、彼らは戦争で払った犠牲に見合う成果を求めたため、さらに戦争が長期化するという悪循環が生まれた。山名氏から赤松氏旧分国を奪還した赤松政則が西軍との講和に反対したことは、その典型である。両軍の対立軸が不明確で、両盟主の指導力が限定的だったからこそ、将軍足利義政の終戦工作は失敗を重ねたのである。
細川氏と山名氏は、ともに当時の権力者として、覇権を争ってはいたのですが、当初は不仲ではなかったのです。
しかしながら、争いがはじまってみると、「ここで自分のほうが引いたら、面子にかかわる」ということで、どんどん深入りしていかざるをえなくなってしまいました。
ああ、こういうことって、あるよなあ、と思わずにはいられませんでした。
結果的に、西軍(山名方)の補給路を遮断することに成功した東軍(細川方)が西軍を屈服させる形で応仁の乱は終わっていくのですが、山名氏の領土が召し上げられたわけでもなく、諸大名はこの乱をきっかけに京都から離れ、自分の領地に常在するようになっていくのです。
また、著者は応仁の乱での大きな戦術的な変化として「防御戦のノウハウが確立されたこと」を紹介しています。
元来、市街戦は短期間で決着することが多かった。鎌倉時代の都市鎌倉での合戦は一日か二日で終わっている。新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼした時も、鎌倉に侵入するまでは苦戦したが、市中に突入してからは一日で幕府軍を撃破している。南北朝内乱においてしばしば行なわれた京都争奪戦も、長くても半月ほどで勝敗がついた。
だが応仁の乱では、両軍が陣を堀や井楼で防御したため、京都での市街戦は実質的に“攻城戦”になった。敵陣=敵城を急襲して一挙に攻略することは断念せざるを得ない。陣地の城塞化が進めば進むほど、互いに弓矢や投石機を使った遠距離戦を志向するようになった。
第一次世界大戦において、両陣営の首脳部・国民が戦争の早期終結を信じていたにもかかわらず、塹壕戦によって戦争が長期化したことはよく知られている。応仁の乱においても、防御側優位の状況が生じた結果、戦線が膠着したのである。
長期にわたる戦争が、戦術の進歩を生んだのか、戦術が進歩したから、長期化してしまったのか。
いずれにしても、応仁の乱というのは、その後の日本史・世界史でもみられる「両陣営とも短期決戦を志向していたにもかかわらず、引くに引けなくなって多大な犠牲を生んでしまった戦争」の日本におけるさきがけだったとも言えるのです。
それにしても、これはたしかに、複雑怪奇な戦いだよなあ。
歴史の授業では、あまり詳しくやらなかったのではなくて、詳しくやると混乱してしまうので、やれなかったのかもしれません。
「人の世むなし」というのは、言い得て妙、ではありますね。