Kindle版もあります。
ヘイトスラングを口にする父
テレビの報道番組に毒づき続ける父
右傾したYouTubeチャンネルを垂れ流す父老いて右傾化した父と、子どもたちの分断
「現代の家族病」に融和の道はあるか?ルポライターの長男が挑んだ、家族再生の道程!
著者の鈴木大介さんは1973年生まれで、僕と同じくらいの年齢です(鈴木さんのほうが少し若いけど)。
僕の父親は50代で亡くなったので、「自分の父親がネット右翼に!」という状況を体験することはなかったのですが、広島で育って、戦後の平和教育を受け、毎年8月6日には被爆者の体験談を講堂で聞く小学生だった僕が、今の僕をみたら、「なんでそんな右寄りの大人になっちゃったんだ?」と思いのではなかろうか。
人というのは、歳を重ねると、保守的になりやすい、あるいは、現実と折り合いをつけるために、理想主義から距離を置きやすくなるのかもしれません。
鈴木さんが、2019年7月にWEBメディアの『デイリー新潮』に寄稿したこの記事はかなり話題になり、僕も読んだ記憶があります(正直、もう3年半も前の記事なのか、と驚きました。ネットの話題の移り変わりは、本当に早いですね)。
遺品整理として父のノートパソコンの中を覗くのは、大きな心理的苦痛を伴う。ブラウザのブックマークを埋める、嫌韓嫌中のコンテンツ。偏向を通り越してまず「トンデモ」レベルな保守系まとめサイトの数々。生前の父は立ち歩けなくなる直前まで地域福祉や住民のネットワーク作りに奔走していたが、デスクトップにはそうした業務のファイルに交じって、ファイル名そのものが「嫌韓」とされたExcelデータがあり、中身はYouTubeのテキスト動画リストだった。
パソコンやインターネットは便利だし、いろんなものを記録しておけるのです。
でも、誰の目にも触れさせないほうがいいものが、残された人によって、見つけられる可能性も高いのでしょう。
僕も、自分が死んだら、パソコンは中身を見ずにデータを消去してほしい、と願っているのですが、残された人がそれに従ってくれるかどうかはわかりません。
死後に軽蔑されようが、自分には関係ないのかもしれませんけど。
知的好奇心が旺盛で、晩年まで新しいことへの興味を失わなかった著者のお父さんが、晩年に、ほとんど「トンデモ」なネット右翼コンテンツにハマってしまった。
元々お父さんと折り合いが良くはなかった、という著者は、その「ネット右翼になった父」に困惑し、敬遠しつつも、家族の一員として最期までサポートを続けました。
読者としてみれば、よくある父子関係だし、著者は十分親孝行な息子だと思うのです。
しかしながら、当事者にとっては「どうして、去っていく父親に、そっけない態度をとってしまったのだろう?」、父親は本当に「ネット右翼思想」に染まってしまっていたのか、ちゃんと確かめておくべきだったのではないか、という後悔ばかりが残ってしまった。
この2019年の『デイリー新潮』の記事では「ネット右翼化する(とくに男性の)高齢者」が話題になり、自分の親もそうなってしまった、というコメントをたくさん見かけたのです。
ただ、著者はそこで思考を止めずに、「本当に父は『ネット右翼』になってしまったのか?」を確かめるため、家族や友人、周囲の人に晩年の父親について、丁寧に取材をしています。
「徹底的に性格や生き方が合わない」という理由で僕は早々に家を飛び出て勝手に貧乏のどん底に落ち込んだ時期もあったが、それは父とは別の話だ。
確かに僕との相性は良くなかった。けれど、もともとの父のパーソナリティがそれほど毒々しいものであったとは、とても思えないのだ。
父がこの世を去って、昔の父を思い出した。そしてそのことで、ようやく彼の気持ちに思いを馳せることが出来たように思う。
ああ、たぶんこれだろう。
父の中には、間違いなく大きな喪失感があったと思うのだ。父が喪失したように感じていたのは彼が子どもの頃に過ごしていた、若き日に見ていた「古き良きニッポン」だ。
シンプルで、みんながちょっとずつ助け合わなくてはやっていけないぐらいにみんなちょっと貧しくて、たまに食べる外食のラーメンがとても贅沢で、仕事のあとに会社の仲間たちと飲む瓶ビールがとても冷えていて、頑張れば頑張っただけきちんとお給料に反映されていた、そんなニッポンを父は愛し、常に懐かしんでいた。
その喪失感というか慕情のようなものは、僕にも少し理解のできる感情だ。僕自身は1973年生まれだから、バブル経済突入前の日本の記憶がある。母も父も実家は都心だったから、東京に子ども時代の景色がないことを、寂しく思うことがあるのだ。薄暗い夜の道、水たまりのある隘路や、赤ちょうちんから漂う焼き鳥の香り。古いゲームセンターのドアを開けた途端に身体を包むクーラーの冷気と煙草の煙とPSG音源。不謹慎ながら、東日本大震災後の計画節電で東京都内が薄暗くなったときは、心底ホッとしたものだ。
もちろん、父が慕情を寄せていた景色と僕の思うものはまた違うだろう。そうしたシンプルだった時代の日本には、人権を認められず差別の対象になってきた多くの社会的弱者の涙があって、未発達な医療が救えなかった小さな命もあって、それこそ人口の半分である女性が自分の人生に自己決定権を持てなかった時代でもある。そんなことを考えると、どっかの為政者が言ってる「美しいニッポン」なんて絶対なかったし、幻想に過ぎないと断言したくなる。
けれども、父の中では、古き良き美しいニッポンに対する慕情や喪失感は確実にあったのだ。
これを読んで、小学生、中学生時代に、補導員や不良のカツアゲに怯えながら通った薄暗いゲームセンターのことを思い出しました。
僕の子供たちは、物心ついたときにはインターネットやスマートフォン、タブレット端末がすぐそばにあり、対戦ゲームはインターネットを通じてやるのが当たり前、という時代を生きているのです。
結局のところ、生きてきた時代が違うと、いくら自分をアップデートしようとしても、ついていけないところはあるのです。
そして、「老い」というのは、誰にでも訪れます。
「難しい文章がどんどん読みにくくなる、新しい考えがなかなか頭に入ってこなくなる。世の中はどんどん変わっていく。老いるということは、新しい情報を得て理解して取り入れる機能そのものが低下すること。それが70代なんだ」
そう叔父は言った。それが、世代とは別の「年代」という問題であり、その二つは切り分けて問題を精査してほしいと叔父は言うのだ。
著者は、周囲の人たちへの取材から、お父さんは同世代のなかではリベラルで女性の仕事も積極的に評価し、晩年まで新しいことに興味を持つ人だったことを再確認することになるのです。
付き合いのある同世代の人たちと話を合わせるために「ネット右翼的な話題」に接するようになったのではないか、と推測もしています。
世の中の価値観の変化についていくのが辛くなっている高齢者に受け入れやすいコンテンツとして、「ネット右翼的な内容」「自己責任論」が紙のメディアで生み出されている、という「商売をする側の事情」もあるようです。
そして、お父さんと折り合いが良くなかった著者自身が、「父親が発した(著者にとって)不快な言葉」ばかりを自分のなかで増幅して、さらに苦手になってしまったのではないか、とも述べています。
父は決してわかりやすく価値観の多様性を失ったネット右翼ではなかったし、保守ですらなかった。父は部分的にそれらの志向を持ちながらも、リベラルな部分もあり、むしろ経済面など音痴なジャンルもある。どこにでもいる戦中生まれのじいさんだった。
間違いない、父をネット右翼にしたのは、僕自身だったのだ。
確かに父はヘイトなネットスラングを口にし、弱者に対する無理解な発言もあった。けれど、それをもって父を多様性を喪失し「価値観が定食メニュー化した」ネット右翼だと一方的に決めつけてしまったのは、僕自身の中に「ネット右翼的なものへの嫌悪」と、ネット右翼と同一視した「女性嫌悪者」への激しい怒りがあったからだ。
父をネット右翼扱いした根底にあったのは、あくまで僕の中にあるアレルギーだった。とすれば、ネット右翼という「仮想敵」を立ててその像を父と重ね、そこに怒りを募らせていた僕は、保守系メディアから得た見えない仮想敵を撃っていた父と全く変わらない。もしかしたら父よりも僕自身の価値観の方が「定食メニュー化」していたかもしれない。
これではまるで、冤罪だ。
正直、この本を読んでいると、僕が亡くなった父親に対して生前抱いていた複雑な感情を思い出さずにはいられませんでした。
ほとんど毎晩飲み歩いて酔っ払って帰ってくるのが嫌で、寝たふりをしてやり過ごしていたことや、子供との関係もお金で解決すればいいと思っているように見えたこと。運転が拙い車を見かけるた日に「あれは女が運転している」と口にしていたこと(で、母も一緒に「あれは女よ、絶対」とか一緒に言うんですよね。本人たちにとっては、何気ない言葉でしかなくて、そんなことを子どもが「不快な記憶」としてずっと覚えているとか、想像もしていなかっただろうけど)。
僕自身が父親が亡くなった年齢に近づいてくるにつれ、「家族を飢えさせないように働き続ける」というのは、本人にとっては決して簡単で平坦な道のりではないことも分かりましたし、「お父さんは家が貧乏で買ってもらえなかったから、本だけは好きなだけ買ってやる」と宣言していて、その約束はずっと守ってくれました。
ダメだ、なんかこれを書いていたら、僕も涙が出そうになってきた。
「実家に帰ったら親がネット右翼みたいになっていた」「気づかぬうちに陰謀論者みたいになっていた」というエピソードは、我々世代の共通体験として定着してきた感がある。一方で、この「父親とフラットに軽口を交わせない」という緊張感を伴う硬い関係性も、父たち世代とその子世代に、ある程度共通するモヤモヤなのではないか。
僕はこの年齢になってしまっても、もし今、父親が生き返って目の前に現れたとしたら、素直に感謝の言葉を口にできる自信はないのです。
そうするべきであることは、頭ではわかっているはずなのに。いや、父親が生きていたときも、わかっていたはずなのに。
親子というのは、「こうであってほしい」という子ども側からの期待と「こうでなくてはいけない」という親側のプライドが、それぞれ高すぎてせめぎ合ってしまうから、赤の他人どうしよりもやりづらいのかもしれません。
著者の鈴木大介さんが、僕の代わりに贖罪のための巡礼をしてくれた、そんな気がする本でした。
本当は、僕が自分でやるべきことだったのに、という苦味は消えないけれど。