琥珀色の戯言

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【読書感想】2035年の世界地図――失われる民主主義、破裂する資本主義 ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

2020年代、全世界を襲った「地殻変動」。
大きく書き換わる世界地図の中に、私たちの居場所はあるのか?

私たちが見ていた「グローバル化」の夢は、脆くも崩れ去った。
地球に住む私たちが共有したのは、
パンデミックと、歴史の針を戻したような戦争だった。
ここから世界地図は大きく塗り替わる――。

世界、日本、そして「私たち」は、いったいどこに向かっているのか。
世界最高の知性が、激動の近未来を大胆に予測する。


 科学技術やAI(人工知能)の進化で、これまでの「人間の仕事」の多くが失われたり、大きな変化を求められたりしている世界に起こった、新型コロナウイルスの大流行とウクライナでの戦争。
 これまでは、「グローバル化」が必然のものとされ、ローコストキャリア(LCC)で、飛行機での往来の費用も下がっていたのです。
 多くの国々が、経済的に依存しあっていて、世界の国境や国どうしの格差は、なくなっていく……はずだったのですが、新型コロナウイルスウクライナでの戦争で、あらためて、「国家」という存在が見直されることになりました。

 経済的に豊かな国がワクチンを買い占め、開発途上国にはなかなか行き渡らず、感染拡大を防ぐための入国制限も行われたのです。
 中国での「共産党による迅速なロックダウン」の是非については、この本の中に出てくる世界の有識者の意見も分かれています。
 「意思決定に時間がかかり、個人の自由を重視すれば感染予防対策を徹底しきれない」という「ヨーロッパ(あるいは日本)的な民主主義」は、非常事態においては、中国の「トップダウンですぐに強硬な対策が取れる体制」に劣るのではないか?
 その疑問に対しての各有識者の答えは、日頃、中国という国をどう見ているのかに大きく影響されているように感じました。
 
 エマニュエル・トッドマルクス・ガブリエル、ジャック・アタリ、ブランコ・ミラノビッチ。
 トッドさんとマルクス・ガブリエルさんの著書は、僕も何冊か読んだことがありますし、アタリさん、ミラノビッチさんも世界的に知られています。
 こんな豪華メンバーが、あるテーマについて、それぞれの見解を示してくれるシンポジウムというのは、オンラインだからこそ、でもありますよね(事前にテーマについてインタビューした録画を会場で流し、その内容をベースに日本の有識者たちが対談をする、という形式だったそうです)。

 新型コロナウイルスは、人と人との距離を遠ざけたという印象があるのですが、オンラインで対話をすることの抵抗がなくなったことによって、ものすごく遠かった人との距離は、かえって近づいた面もありそうです。

 会場での2組の対談は「與那覇潤(評論家)×市原麻衣子(政治学者)」「東浩紀(批評家、作家)×小川彩(文化人類学者)」という組み合わせです。


 「民主主義」について語る世界の有識者たちは、中国とインドに関して多く言及していました。

 エマニュエル・トッドさんは、中国についてこんな見通しを示しています。

 中国の社会には公正を求める要素があります。中国の指導者たちは常に、人々の決起の可能性を考慮に入れておかなければなりません。
 これは、中国を統治することが非常に難しい理由の1つだと思います。それは内向きのもろさがあります。
 もう一つ、付け加えておきましょう。中国はすでに、人口の中に相当数の高学歴層がいるということです。この状況は西洋のどこにおいても、伝統的イデオロギーの解体をもたらしました。多くの人は知らないでしょうが、私は高等教育を受けた人々が人口のうちの25%を占めたことが、ソ連共産主義が崩壊した本当の理由だと考えています。
 私は1988年のデータを持っています。当時のソ連国勢調査によると、高等教育を受けた者の割合が25%に達していました。そして、1990年にシステムが崩壊したのです。
 中国は、今のところまだこの水準(25%)には達していませんが、中国の将来について考えると、政治的バランスと民主主義の将来という観点から相反する2つの力があると思います。
 一方には、中国の文化と革命の伝統として、平等主義の要素があります。もう一方で、高等教育を受けた人々が増えています。中産階級と呼ばれる層です。この階層の比率が、共産主義崩壊直前のソ連と同じ水準に達しようとしているのです。


 アメリカと中国の対立で、お互いの国への経済依存を減らしていこうという「デカップリング」を進める動きに対して、「グローバル化の夢は潰えたのでしょうか?」と問われたトッドさんは、こう答えています。

 グローバル化の夢は、死にかけています。もはや人々はグローバル化を天国のようには考えていません。人々はそれが社会にとてつもない格差を生み出したことを知ってしまったからです。しかし一方で、先進国と途上国の間に一定の新たな平等を作り出しました。


 いまの社会では、国境という「垣根」よりも、同じ国のなかでの「格差」のほうが、高い壁になってきているのです。
 どこの国でも、富裕層たちは、国籍をあまり意識することなく交流し、世界を飛び回っている一方で、低所得層は、貯金も資産もなく、とりあえずその日の生活に追われています。
 世界の全体的な生活レベルは上がってきて、「食べるものがない」というレベルの絶対的な貧困はかなり減ってきたのだけれど、富の集中は進み、格差は広がっています。
 自分の国の大金持ちよりも、他国の貧困層のほうが、ずっと身近な存在だと多くの人が感じるようになりました。

 民主主義、資本主義は共産主義に勝った、と言うけれど、共産主義国家の脅威があったからこそ、資本主義の中で社会福祉や再分配が推進されていた面もあるのです。
 資本主義の総本山であるアメリカでは、若者たちがマルクスなどの社会主義を再評価しています。

 トッドさんをはじめとする世界の有識者たちは、今後の世界情勢のプレイヤーとして「インド」の重要性について語っているのです。
アメリカ」「中国」という2つの軸でこれからの世界は語られがちだけれど、世界で最も人口が多い国になっていくインド、そしてトルコやアジア・アフリカ諸国の重要性が増していき、これらの国がアメリカと中国の対立の行方を左右するのではないか、と。


 マルクス・ガブリエルさんは、中国の新型コロナウイルス対策について、こんなふうに述べておられます。

──次に、中国にも目を向けていきまあしょう。中国は、パンデミックとの戦いにおいて「権威主義的な政権が民主主義国家よりも優れている」という主張をしていました。これに対しては、どのような意見をお持ちですか。

マルクス・カブリエル:これは全く馬鹿げたプロパガンダだと思います。誰が世界的に使われるワクチンを開発したのでしょうか。中国ではありませんよね。一番のワクチンはここドイツで開発された、ビオンテックのワクチンであり、その後ファイザー社によって広まりました。つまり、自由民主主義国であるドイツです。そしてこの点では、英国でもアストラゼネカのワクチン、また米国にはパクスロビドというコロナに効果的な治療薬があります。これらはすべて自由民主主義国で開発されたもので、中国のワクチンの効果は、例えばチリのケースのように、効果が疑問視されています。つまり、これは純粋なプロパガンダなのです。中国は当時、ロックダウンによって利益を得たわけです。このモデルを世界中に売り込んだわけなのですから。私たちは今では、中国のロックダウンを真似たのが間違いだった、と思っています。私たちはプロパガンダの一部を受け入れてしまいましたが、すぐに学びました。そのため、このモデルに長い間拘ることはありませんでした。自由民主主義国家に見られる学習曲線は、中国の権威主義共産主義などよりも社会経済的、倫理的に明らかに優れています。ですから、社会的、道徳的、経済的事実に基づいて批判的に分析すれば、自由民主主義がいかなる点でも中国のモデルよりも優れていることは間違いないと思います。


 正直、ここまで自信たっぷりに語られると、僕などはやや懐疑的になはなるのです。
 アメリカでは、「反マスク派」の人たちもいて、感染が急速に拡大し、一時は「街に新型コロナで亡くなった人の遺体が放置されている」などという報道もありました。
 中国の場合は、あの人口を有する国だと、ああいうやり方が最善手のような気もするのです。
 これはこれで、「自由民主主義国家のプロパガンダ」にも思われます。

 このあたりは、このインタビューを観た日本の有識者の対談でも指摘されていて、日本人にとっては、自国の「コロナ対策」の評価が定まっていないこともあり、「中国モデル」の効果には半信半疑、という感じではないでしょうか。

 エマニュエル・トッドさんとマルクス・ガブリエルさんのインタビューを比較すると、同じ事象への評価なのに、新型コロナへの各国の対策でこれまでの西欧型民主主義への信頼は揺らいでいる、とみるか、これで西欧型民主主義の優位が証明された、と考えているか、という大きな違いがあるのです。
 どちらが正しいというよりも、「世界を見る目は、その人の思想や立場によってこんなに変わってしまう」ということを思い知らされました。
 結局、日本人は日本人の立場、僕は僕の立場から自由にはなれないのです。


 さまざまな「世界の知性」の考えの一端がわかりますし、会場での2つの対談も興味深いものでした。
 僕は、文化人類学者の小川さやかさんのこの言葉が、すごく印象に残ったのです。

小川:「複数の考え方がある」「いろんな善がある」ことを認めて議論できる社会は、たしかに理想的ではあります。しかし一方で、私は「人々はそんなに理解しあわなくてもいい」と心から思っています。文化人類学の調査では「一夫多妻制」など、自分の価値観とまったく違うものに出逢います。そこで「相手のことを理解できなければ、もう付きあえない」という感覚を抱いてしまうと、ともにいることができなくなります。そもそも、他者を理解することはとても難しいものです。長期の参与観察をしても、熟議を重ねても、他者の考えていることを完全に理解することなどできません。むしろ、理解しあっていないからこそ、私たちはうまく生きていけるとも言えます。たとえば、友人や恋人、配偶者など誰でもいいですが、「君のことは120%わかっちゃった」と言われたら、「付き合いをやめようかしら」とか思ってしまいますよね。理解したという宣言は傲慢でもあるのです。しかし、お互いに理解しあえないから一緒にいられない、というわけではないですよね。「大いなる間違い」で、、うっかり恋に落ちてしまうことだってあります。「この人は何を考えているんだろう」と知りたくて、ぜんぜん気が合わないのに、ずるずるとつきあいを続けることだってあります。つまり、「理解しあえなくなったって共存できればいいじゃないか」とミニマムに考えることが大事だと思うのです。

(以下略)


 僕も、もう少し早く、こういうふうに考えられるようになっていれば良かったのかな、と思いつつ読みました。
「理解しあっていないからこそ、私たちはうまく生きていくいける」
 いつか、AIの進化などで、「人類にとっての最適解」がわかり、みんながそれを共有するようになるのだろうか。


fujipon.hatenablog.com

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