琥珀色の戯言

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【読書感想】文字に美はありや。 ☆☆☆☆

文字に美はありや。

文字に美はありや。

内容紹介
文字に美しい、美しくないということが本当にあるのだろうか、というきわめて個人的な疑問から歴代の名筆、名蹟をたどっていくものである。(本文より)


歴史上の偉大な人物たちは、どのような文字を書いてきたのか。
1700年間ずっと手本であり続けている”書聖”の王羲之、三筆に数えられる空海から、天下人の織田信長豊臣秀吉徳川家康坂本龍馬西郷隆盛など明治維新の立役者たち、夏目漱石谷崎潤一郎井伏鱒二太宰治といった文豪、そして古今亭志ん生立川談志ビートたけしら芸人まで。彼らの作品(写真を百点以上掲載)と生涯を独自の視点で読み解いていく。2000年にわたる書と人類の歴史を旅して、見えてきたものとは――。この一冊を読めば、文字のすべてがわかります。
「大人の流儀」シリーズでもおなじみの著者が、書について初めて本格的に描いたエッセイ。


 作家・伊集院静さんによる「書」についてのエッセイ集。
「この一冊を読めば、文字のすべてがわかります」なんて「内容紹介」には書いてあるのですが、僕は読んでもよくわかりませんでした。というか、よくわからない、ということがわかった気がします。
 僕はアート観賞がけっこう好きなのですけど、好きなのと理解できている自信がある、というのはまったくの別物で、自分の「わかっているつもり」は、誰か権威とされる人の評価や世間での人気を追いかけているだけなのではないか、とも思うんですよね。
 それでも、絵画や彫刻であれば、慣れもあって少しは自分なりの審美眼もあるのですが、「陶芸」と「書」に関しては、まったくお手上げです。
 有名な人がつくった、書いた作品だから、良い作品なのだろうな、と「確認」するだけ、という感じなんですよね。
 この本にも、有名人の「書」がたくさん出てくるのですが、「すごい人だから、すごい字を書いている」のか、「すごい人が書いたものだという先入観がある」から、「すごい字のように見える」のか、僕にはわからないのです。
 「綺麗な字」っていうのは、それなりにわかるのだけれど、「整った字じゃないけど、大胆な筆遣い」という評価と「単なるヘタクソ」の違いって、名前を出さずに並べたら、わかる人って、どのくらいいるのだろうか。


 最近、みんなが手書きで字を書かなくなった時代だからこそ、巧拙はさておき、字には人の心根みたいなものが出るのかなあ、と感じることが多いんですよ。
 自分が仕事中に書いている字って、とにかくやる気が感じられないというか、書かなきゃいけないから、仕方なく書いているのが自分でもわかるのです。
 ちゃんとしている人って、上手い下手じゃなくて、丁寧に、第三者が読みやすいように書いているのだよなあ。
 現代は「手書きが殊更にめんどくさく感じられるようになった時代」だからこそ、その差が歴然としているような気がします。
 というわけで、なるべくきちんと字を書こうと意識してはいるのですが、やっぱり、ちょっと忙しくなったり、精神的に疲れていたりすると難しい。
 綺麗な字じゃなくても、読みやすい字を丁寧に書くだけでも、相手の印象というのはけっこう違うのではなかろうか。
 ちなみに僕は「忙しいときは、字が汚くなることもあるだろうけど、そういうときは大きく字を書くように心がけなさい」と言われたことが忘れられません。
 字が汚くて自分でも判読が難しいときに、大きく書いてあるだけで、だいぶ読み取れる確率は高くなるから、と。


 伊集院さんは、第二話で、「書聖」と呼ばれる王羲之を採りあげておられます。

王羲之の前にも後にも彼を超える書家はあらず」と後世の書家たちは言う。西暦303年に生まれた人であるからおよそ1700年後の今日まで彼の字が峰の頂にいる。今日? と思われようが、今私たちが高級中華料理店で目にするメニューの文字、家のどこかに仕舞ってある卒業証書の文字、面白いところでは麻雀牌の”九萬”の時……。それらすべての手本となっているのが王羲之の書いた文字と言われる。世界中にある創作分野(音楽、絵画、小説……)で一人の作品が範であり続ける例は他にない。彼が生きた時代が書の草創期であったこともあるが、楷書、行書、草書のすべての字を残し、以後皆がこれにならった。どのくらい持ち上げられたかというと、中国の歴代皇帝が彼の書を欲しがり、唐の太宗などは中国全土に散財していた羲之の書の収集を命じ、手に入った名品を宮中の奥でかたときも手元から離さず、没するときに陵墓に副葬させた。こうなると愛着というより信仰に近い。いやはや、たいしたものである。それほどか……。


 この本のなかでは、この王羲之のものも含めて、有名な「書」の写真を紹介しながら、伊集院さんが見解を述べておられるのです(といっても、王羲之の真筆とされるものは現在はひとつも残っていなくて、出回っているのは精巧なコピーしかないとされています。これがまた、この”書聖”を神秘的な存在にしています)。
 おかげで、「読みづらい研究書」とは一線を画している一方で、「これを読むと書がわかる、というよりは、これを読むと伊集院静さんの書に対する考え方がわかる、という内容」なんですよね。
 本格的に「書」を勉強しようという人よりは、「書というのが、なんでこんなにもてはやされるのか、善し悪しがどこで決められているのかわからない」という人が、興味を持って手にとってみる本だと思います。


 書というのも本当にいろんなものがあるんですね。仙厓義梵という僧侶が江戸時代に書いた『○△□』が並んでいるものを見て、僕は心の中で、「プレイステーションかよ!」とつぶやいてしまいました。
 これは「書」なのか?という意見もあるそうなのですが、伊集院さんは「書に入れて良いと思う」と仰っています。

 私は信長、秀吉、家康の書みっつを並べ、どれがどの天下人の書かと質問ページのあったテキストを開き、一発でこれが信長の書だと察知した。理由は次回で、他の二人の天下人の書を見てもらって説明するが、どう見ても信長ではないかと直観した。いかなる直観が働いたか?私は信長の書がおそらく一番かたちにとらわれないのではないかと想像したからだ。賞状の右端に薄く”働手から”とある。次の墨たっぷりは”おりかミ”と、”被見候”でかなりデフォルメがあり、次が”いよいよ”で、濃い字が”無油断”、つまり油断するなよ、とあり、最後は”十月二日”らしいが勢い良く書かれ、自由この上ない。では自由なのか。そうではなく、こだわりがないのが本当だろう。なぜなら信長の自筆は二、三点しか現存していない。
 信長の自筆は他の武将に比べて極端に少ない。おそらく千通を越える公文書、伝達、手紙の中に数通しかないのは信長がその類いのものにスピードと簡略を求めたからだろう。


 文字には性格や考え方が反映されやすいのは間違いないようです。
 とはいえ、この本を読んでいると、同じ人でも、公文書や目上の人に対する手紙の文字と、親友や身内に消息をたずねる文字とは全然違っているのです。
 だからこそ、人が書く字というのは面白い、とも言えますね。


 「書」って、善し悪し以前に、どう見ていいのか、よくわからない。
 そんな僕にとっては、格好の「興味を持つきっかけ」になってくれるエッセイ集でした。
 それと同時に、もうちょっと、ちゃんと書かないと、たぶん、やる気のなさが伝わっているんだろうな、と深く反省もしたのです。


女と男の品格。 (文春e-book)

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