琥珀色の戯言

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【読書感想】過剰可視化社会 「見えすぎる」時代をどう生きるか ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

目に見えないウイルスの感染者数が日々「可視化」されたコロナ禍の2年間の後に残ったのは、一人では安心感を得られず、周囲にも疑いの目を向けあう日本人の姿だった。SNSで自らプライバシーを発信し、政治信条や病気・障害までを社会の視線に公開しても、最後は安易なルッキズム(見た目偏重)ばかりが横行する「すべてが見えてしまう社会」を、どう生き抜くのか?
歴史学者から評論家に転じた著者が、臨床心理士の東畑開人氏、哲学者/作家の千葉雅也氏、文化人類学者の磯野真穂氏と白熱した議論を交わしつつ、人文学の方法論の壁を超えて「見えない信頼」を取り戻す方法を提言する!


 インターネットやSNSで、いろんなことが「見える」あるいは、「こんなふうに見られたい、という自分を発信する人が多くなった」時代は、人間を幸せにしているのか?

 2021年の東京オリンピックで、過去のインタビューの内容を掘り起こされて断罪されたアーティストや、高い評価を得ている作品をつくりながら、女優に性的な加害を続けていた映画監督など、ネットによって、さまざまな人の化けの皮が剝がされる世の中になりました。
 その一方で、これまではものすごく幸運であれば、新聞記者が地方版で紹介することが稀にあったくらいの「いい話」が高頻度にネットで共有されるようにもなったのです。
 
 周りに知り合いがいないから、という「旅の恥はかき捨て」みたいな行動は、ネットで拡散させるリスクによって、かなり減ったような気もします。

 著者は、日本のコロナ禍をここまで深刻なものにした最大の背景は、2010年以降に本格化してきた「過剰可視化社会」の弊害ではないか、と述べているのです。

いま私たちの社会では、とても変なことが起きています。2011年の東日本大震災も契機となって、2010年代から多くの日本人がSNSフェイスブックツイッター、インスタグラム)を使い始めた結果、特に親しい関係でもない人の「政治的な意見や信条」「抱えている病気や障害」などが、プロフィール欄の記述だけですぐにわかってしまう。人類史上では長いあいだ、個人の内奥に秘めておくものとされてきたはずの要素が、誰の目にも「見える」存在へと次々に形を変えています。
 もちろんSNS自体は、使わないという選択も可能です。しかし今回のコロナ禍で生じたのは、たとえばマスクをつける形で防疫への協力を「誰の目にも見えるように」表さなければ、社会からは排除され、かつそうした風潮に誰も違和感を持たないという事態でした。マスクをしない理由を「実は呼吸器に疾患があって、息が不自由だから」のように説明する形で、本来なら他人に知られることを望まない情報まで「見せなければ」ならなかった例も、少なくなかったでしょう。
 あまりにもプライベートが可視化された状態に慣れすぎた結果、私たちは「見せる」ことに伴う副作用の存在を忘れ、逆に「見えない」ものが持っている価値を感じ取れなくなってはいないでしょうか。コロナ禍では目に映る「街路に人影がない」「全員がマスクをしている」といった光景からしか安心感を得られず、なんらかの事情で自粛やマスクの着用が難しい人もいるかもしれないといった、他者への想像力が消えていた。
 そうした状態では政府が採用する政策も、同調圧力に基づき自粛やワクチン接種を推し進めることで、感染者がゼロになるような「目に見える政策」ばかりを追う形に偏ってゆきます。だから意見や感じ方の違いを前提に、互いに調整しあって眼前の困難を「一緒に耐え忍んでゆく」方向ではなく、困難自体の「存在を社会から消去する」──その生涯になる少数派は「いないことにする」世相が優勢を占めてゆく。


 著者が主張したいことはわかるのです。
 でも、医療従事者としては、そういう「同調圧力的なもの」が、新型コロナウイルスの日本での感染拡大を遅らせることに貢献したことも実感しています。ワクチンに関しても、けっこうきつい副作用があるにもかかわらず、ほとんどの人が受けてくれたのも、理屈に納得したからだけではなく、周囲からのプレッシャーがあったのも事実でしょう。
 医療現場にいる僕としては、高齢者が新型コロナウイルスでかなりの数亡くなったり、命はとりとめても重篤な後遺症が残ったりしているのをみてきているので、「それが理不尽さを伴う同調圧力であっても、結果としてはプラスに働いたのではないか」と言わざるをえないのです。

「コロナは風邪」って言う人も多いけれど、それはあなたの視界にそういう人しかいないから、ではないのか。
 逆に、僕は重症化しやすい高齢者を大勢診る仕事をしているので、それを「より重く感じやすい」のだとは思います。
 そういう「立場による意見の違い」に妥協点を見いだそうとするのではなくて、「マスク警察」「他県ナンバーチェック」「感染者の自宅に突撃」みたいな極端な行動になりやすいのが今の世の中ではありますし、「それでも営業しているパチンコ屋に突入」みたいなのがコンテンツとしてお金を稼げる社会でもあるんですよね……

 平成の末期以来、SNSが個人のアイデンティティを「過剰に可視化する」媒体となったいま、マイノリティにとっても政治的な志向が近い仲間を集めることはかつてなく容易です。「#LGBT理解増進法」といったハッシュタグで検索すれば、何人もの支持者が見つかり、プロフィールに「ADHD(注意欠如・多動症)です」と記入している人に声を掛けて、障害との共生を考えるネット番組を作るといったことも容易になりました。
 それなのになぜ、多様性を掲げる野党の選挙戦略は機能しなかったのか、その背景には、積極的に自ら属性を「可視化」することを望む人々だけに限られた、いわば「キラキラしたダイバーシティ」が、包摂する以上に多くの人を排除してきた事実があると思われます。
 私自身、自らの「うつ」の体験をカミングアウト(社会全体に向けた告白・情報開示)して文筆活動をしていますが、そうできるようになったのは病気が快方に向かい、同じ属性を持つ人のあいだでは相対的に「恵まれた」状態になってからのことです。本当に病状が重く苦しい段階では、それを公表して不特定多数の人に告げる(=可視化する)など、とても思いもよりませんでした。
 マイノリティがカミングアウトできる社会になったことは、まぎれもなく進歩といってよいことですが、しかし「カミングアウトできない状態の人」への配慮を忘れるなら、一番苦しい状況にある人を不可視化するだけに終わるでしょう。端的には、マイノリティの中でも容姿端麗で、喋りもうまく、肩書としても成功者と呼べる輝かしい人だけが華々しく「可視化」の舞台に上り、それ以外の人は彼らに「代表してもらった!」とはとても思えずに、むしろ疎外感を加速させてゆくことになります。
 可視化することそれ自体を目的視し、カミングアウトが増えれば増えるほど多様性に近づくのだと錯覚する姿勢は、実は「誰もが生きやすい社会」につながるどころか、分断をむしろ悪化させる。リベラル派ほど国家権力を行使した「強硬な対策」を唱えるという逆説が見られたコロナ禍の体験は、その意味でも大きな転回点になりました。


 アメリカで、共和党よりもリベラルとされている民主党の支持者たちが、党に対して、「自分たちは生活に困っているのに、民主党の偉い人たちはLGBTのトイレの話ばかりしている」という不満を述べていたのを思い出します。

 僕はこうしてネットにけっこう長い間書いてきているのですが、結局のところ、SNSで話題になるマイノリティというのは、なんらかの社会的な成功をおさめていたり、他者にアピールする「言葉」を使うのが巧みであったり、影響力がある人に取り上げられたり、という人たちなんですよね。
 SNS時代になっても「アピール力」がない人たちは、「可視化」されないために、救われない。むしろ、同じマイノリティのなかでも「うまくやっている人たち」を目の当たりにして、絶望することも多いのです。
 
 結局のところ「可視化」できるというのは、それをうまく使いこなせる人たちにとっては、リスクを避けたり、自分をアピールしたりするために便利ではあるのです。
 そして、有名人や人気者が本性を暴かれ、バッシングされて転落していくのは、当事者にならなければ、エンターテインメントとして消費されやすいのです。
 著者はさまざまな「過剰可視化社会の弊害」を挙げているのですが、実際に、「可視化が制限されたり、SNSを使う人がどんどん減ったりしていく」可能性は低いのではないか、と僕は考えています。
 こんな「お金がかからなくて面白い」ものを、人々はそう簡単には手放さないだろうから。

 なにかキラキラしたタグがないと他人に見つけてもらえず、誰からもケアされない」という過剰可視化社会のストレスに対して、ネガティブなタグ(たとえば病名)を通じて知り合った人どうしで助け合おうとする戦略は、もちろんあっていい。しかしそれはどこかで、「最後はタグなしでも大丈夫なんだ」という不可視の安心感に支えられていないと、十分には機能しないように思うのです。
 コロナ禍で執筆した主要な論考は『歴史なき時代に』に収めましたが、私が2020年4月の当初から一貫して過剰な自粛を批判し、外食をコロナ以前より増やしたと大手紙の論説でも公言してきたのは、視覚も言語(タグ)も経由しない「接触」の意義を、かつてのデイケアの体験から知っていたからでした。
 逆にあっさり対面での授業を放棄し、SNSで遠隔講義の技術を自慢していた大学の先生方は、これまでずっとご自身の教室を、一緒に「居る」ことに価値がある場所にできてこなかったわけでしょう。そうした方には無理に、コロナ以降のキャンパスに戻ってきていただく必要はありませんから、この際解職して「売れないユーチューバー」として暮らしてもらうのが適任かなと思います。


 これは「煽りすぎ」の気もするのですが、僕自身、新型コロナウイルス禍のなかで、電話診療が多くなって、「ああ、状態が落ち着いている(と自分で言っている)人は、対面じゃなくてもそんなに問題ないな」という印象を持っていたのです。
 しかしながら、コロナがだいぶ落ち着いて、対面診療を再開してみると、人と「会う」ことの情報量の多さってすごいな、と思い知らされています。診察室に入ってくるときの雰囲気とか顔色とかだけで、「重症度」って、けっこう感じられるものみたいです。「対面しない診療」をかなりやってみて、四半世紀くらいこの仕事をやっていて、あらためて気づかされました。
 もちろん、人と直接接触すると「見せたくない自分を見せてしまう」こともあるし、「リモート授業のほうがリラックスして受けられ、質問もしやすい」という生徒もいるんですよね。
 僕の場合は、これまでの人生で「非可視化社会」での生活の割合が大きいので、いまの若い人たちよりは、「どうしても触れ合いに価値を見出しがち」なのかもしれません。直接会うことによって、他人を騙すテクニックを発揮できる人もいるわけですし。

 時代の流れが「非可視化」に逆行していくことは、まずありえないと思います。
 とはいえ、「どこまで可視化すべきか、急激な可視化による弊害もあるのではないか」というのは、あらためて考えてみるべきだと、この本を読んで考えさせられました。


fujipon.hatenablog.com

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