琥珀色の戯言

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【読書感想】なぜ人に会うのはつらいのか-メンタルをすり減らさない38のヒント ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

「会ったほうが、話が早い」のはなぜか。それは、会うことが「暴力」だからだ。
人に会うとしんどいのは、予想外の展開があって自分の思い通りにならないからだ。それでも、人は人に会わなければ始まらない。自分ひとりで自分の内面をほじくり返しても「欲望」が維持できず、生きる力がわかないからだ。コロナ禍が明らかにした驚きの人間関係から、しんどい毎日を楽にする38のヒントをメンタルの達人二人が導き出す。


 作家・元外交官の佐藤優さんと精神科医斎藤環さんの対談本です。

 斎藤さんは、「まえがき」でこう仰っています。

 本書で私は、佐藤さんと大げさではなく「生き延びるための対話」をしてきたという実感がある。コロナ禍での特異な経験をいかに掘り下げ、そこから得られたものをいかに継承していくか、今後「COVID-19との共存」が宿命づけられた世界にあって、もはや「ただ生存できれば良い」とは言えない。私たちのサバイバルの質(QOS(Quality of Survival)とでも言おうか)をいかに高めるか。それこそが問われなければならないだろう。
 今回のコロナ禍では、パンデミックがもたらす社会の変化を予見するような視点が数多く生まれた。しかし私自身は、予言めいたことにはあまり関心がない。そもそも今回のコロナ禍そのものが、どんな予言者や識者も予見できなかった事態であり、未来予測の不可能性を如実に示すような変化ではなかったか。
 私はコロナ禍について、未来予測とは異なったベクトルの関心を持っている。それは「日常という幻想」のすき間から、非常時からこそ垣間見える過程や構造を観察し、深く検討することである。例えば、本書で私は「対面で会うことが必然的にはらんでしまう暴力性」について繰り返し語っている。オンラインでの対面を可能にするインフラが整備された結果、「対面せずに会う」という経験が一気に広がった。それが仕事や勉強、診療やカウンセリングに新しい可能性を見せてくれたが、同時に「なぜ人は対面を必要とするのか」というかつてない問いをもたらしてくれた。


 僕自身は、コロナ禍によって仕事の面ではこれまで以上に感染予防に気を配らなくてはならなくなり、きついしリスクは高いしで良いところなしなのです。その一方で、多すぎた会議が激減し、職場の飲み会も行われなくなり、学会もオンラインになったことで、かなりストレスが軽減されてもいるんですよね。薬品メーカーの担当者の営業トークに付き合う機会もほとんどなくなりましたし。

 「人と会うことの暴力性」というのは、本当によくわかる。
 オンラインでは人と直接会わなくても良くなったけれど、オンライン飲み会などでは、気乗りしなくても「その日は用事があるから、他の約束があるから」というような断り方がしにくくなる、ということもありました。


 お二人は「会うことの暴力性というか『威力』みたいなもの」について、こんな話をされています。

齋藤環:もう少し具体的に話してみましょう。繰り返しになりますが、私自身、対人恐怖症気味、発達障害気味の人間で、人と会うのは基本的に苦痛なのです。約束の時間が近づくと、妙に緊張したり不安になったりもします。ところが、不思議なことに、実際に会って話をすると、とたんに心が楽になる。毎回この繰り返しで、会えば楽になるのが分かっているのに、会うまでは苦痛を感じたりするわけです。


佐藤優これも、「そうそう」と相槌を打つ人は、多いのでは。


齋藤:おっしゃる通りで、以前そのことをブログに書いたら、けっこう膨大な共感の声が寄せられたんですよ。それで、自分と同じ「症状」の人が多数いるのだと分かりました。


佐藤:私も、「優しい編集者」なども含めて、多くの場合、人と会うのにはやっぱりしんどさを感じます。


齋藤:佐藤さんでもそうなのですから、読者の方は、しんどくても心配する必要はありません(笑)。そのように、人と会うというのは、どんなに相手が優しい人であっても、お互いが気を遣い合っていたとしても、それぞれの持つ領域を侵犯し合う行為なのです。相手の境界を越えなければ、会話自体が成り立ちませんから。


佐藤:確かにお互いの境界内で話すだけなら、独り言と変わりません。


齋藤:私は、コロナによる外出自粛、リモートの導入で、そうした暴力がいったん消滅した結果、逆に社会生活の中でいかにそれが絶大な影響力を行使していたのかが、浮かび上がったように感じるのです。考えてみれば、自分が日常的に行っていた会議も授業も診察も、みんな多かれ少なかれ暴力性をはらんでいたわけです。だから、そこに向かうまでは、とても気が重かったりもする。


佐藤:では、どうして人間はわざわざつらい思いをしてまで、人と会おうとするのでしょうか?


齋藤:身も蓋もない言い方に聞こえるかもしれませんが、「会ったほうが、話が早い」からだというのが、現時点での私の結論です。考えてみれば、これは暴力の本質でもありますよね。


 僕自身、どんなに自分が好きな人、大事な人であっても、いや、大事な人だからこそ、「会うこと」にプレッシャーを感じるので、この話、よくわかります。
 実際に会うまでは、すごく緊張もします。
 会ってしまえば、「あんなに身構える必要なかったなあ」と楽しい時間を過ごせることが多いのですが、次に会うときにはまた「うまく嫌われないようにやれるかなあ」と不安になる、その繰り返しです。
 若い頃よりはマシとはいえ、50歳にもなって、どうしてこうなんだろう、と情けなくなるのですが、10年以上僕より長く生きていて、僕よりもずっと多くの人に会い、公的な場にも出ておられるお二人でもこんな感じだということに、なんだか安堵もしたのです。
 

 僕が以前書いた、この話を思い出しました。
fujipon.hatenablog.com


 他者からは「うまくやれているように見える」だけマシなのかもしれないけれど、本人にとってはけっこうきつい。
 僕の場合は、電話も苦手だし、ZOOMとかで「オンラインで会う」のも苦手なんですよね。ネット上にしか存在しない、『キャプテンハーロック』のアルカディア号に意識だけ移植されたトチローみたいになれないものか、と子どもの頃から考えていました(僕はあんなに賢くはないですが)。

 しかしながら、この「直接会ったほうが話が早い」というのはよくわかりますし、佐藤優さんも、今の世の中でも外交の場で国のトップ同士が「直接会う」ことで、いろんなことが決めやすくなる、あるいは、決めざるをえなくなると仰っています。


 対談のなかで、コロナ禍によって格差がさらに拡大し、「優生思想」が浸透しつつあるのではないか、という指摘がされています。

齋藤:経済格差に関連して言うと、最近流行っている言葉に「弱者男性」というのがあります。ひと頃、「キモくて金のないおっさん」の略称として「KKO」と称するネットスラングがあったのですが、さすがに差別的だということもあって、今はこう呼ばれます。要するに、職も不安定なまま、気づくと中高年になっていた人たち。見た目もイマイチ、貧困で結婚もできず。従って、幸福度は低い。独居男性は、結婚している人たちに比べて、10年以上早死にするというデータもあります。

佐藤:この前、非正規雇用労働者などの支援活動をしている作家の雨宮処凛さんと対談したのですが、支援を受ける人たちに共通するのが、お話しのように自己肯定感が極めて低いことだとおっしゃっていました。一方で、理想とするのは、実業家の前澤友作さんや堀江貴文さんだったりするんですね。やっぱり、新自由主義的なものはウェルカム。なぜ自分を苦しめているものを是認してしまうのか、クエスチョンマークしかないと彼女は言っていました。


齋藤:弱者男性の怨嗟の向かう先は、支配層ではなく、自分のちょっと上の中流ぐらいの層だというのも、よく言われることなんですね。自分たちより弱者に対しては、もっと容赦なかったりする。結果的に、弱者切り捨てに賛成してしまうという、自分の首を絞めるようなことになっているのです。


佐藤:さらにこうした弱者男性たちは、福祉の話になると、「でも財源がないから」などと言うのだそうです。自分自身は弱者なのに、まるで為政者側の立場にいるかのような発言をする。そのことにも驚いていました。


齋藤:それは、本当におかしな話なのです。例えば、私は障害者年金の申請書を書く時に、この人に年金を出したら国の財政が破綻するとかしないとかいうことは、一切考えません。自分の患者さんが楽になってくれれば、それでいいわけです。医療行政のことは、政治家が決めてくれ、と。


佐藤:それは当然のことで、支援を受ける側が財源のことを考慮する必要など、ありません。「苦しいからなんとかしろ」と異議だけ申し立てればいいのです。それを全部受け止めて、どう整理していくのかが代議制民主主義であり、官僚制が存在する意味なのですから。


 これは、本当にその通りだと思うのです。「弱者切り捨て」を「自分の力だけで成功したと信じている富裕層」が主張するのは、その態度が正しいかどうかは別として、筋は通っているのです。
 でも、そんなに余裕があるとは思えない人が、自分より弱い立場の者に厳しい態度を示すのは「自分の首を絞める」ことになるだけではないのか、と僕も長年考えてきました。
 みんな自分の立場から苦境を訴えればいいし、要求を全部受け入れるのは無理だから、それを交通整理するために「政治」というものがあるはず。


fujipon.hatenadiary.com


 でも、この『リベラリズムの終わり その限界と未来』に書かれていたことを読んで、「弱者に厳しい弱者」というのも、それなりに合理性があるのかもしれない、と感じたのです。


 『リベラリズムの終わり』には、こう書かれています。

 リベラル派は生活保護バッシングに対して「それは社会の福祉機能を弱めることにしかならない」と批判する。
 しかしこれはかなり表面的な見方だ。「生活保護受給者をバッシングしている以上、それは反福祉にちがいない」と素朴に考えてしまうようでは、政治的言説に対するリテラシーがあまりにも低すぎる。
 生活保護バッシングには、「反福祉」どころか、その制度を「もっと適正化すべきだ」という問題提起が込められている。そこに注目するならば、生活保護バッシングには「財源が限られているなかで生活保護制度をより確固たるものにしよう」という「親福祉的な」方向性さえみいだされるのである。
 そもそも、リベラル派は生活保護バッシングをおこなっている人たちを「不安定な雇用や貧困にあえいでいる人たち」とみなすが、これは一方的な決めつけだ。
 そこにあるのは、生活保護バッシングに込められた問題提起を無視するための無意識的な戦略である。すなわち「生活保護バッシングは不安定な雇用な貧困にあえいでいる人たちがねたみの感情からおこなっているものにすぎず、そもそもまともに耳を傾けるべきものではない」というレッテル貼りをすることで、そこに込められた問題提起を無視する、という戦略だ。
 この戦略は、「右傾化」している人たちを「厳しい生活環境から誤った考えにおちいってしまった人たち」と片づけることと同じ戦略にほかならない。
 これこそ「ズルい」戦略である。リベラル派への批判が強まっているのは、リベラル派が自分たちにとって都合のよい主張や解釈しかしないからでもある。


 自分たちが本当に必要なときに受給できるか不安だからこそ、制度を維持するために厳格な「適正化」を求めている可能性もあるわけです。

 佐藤優さんも齋藤環さんも、そしてたぶん僕も、現状では、本気で「自分が生活保護を受給する状況」を想定してはいないのです。
 他人の立場を「全部わかっているようにふるまう」よりも正直なスタンスなのかもしれませんが……

 『鬼滅の刃』という作品に対する齋藤環さんの分析や、「神はどこにいるのか」という問いへの宗教側からの答えの変遷を佐藤優さんが解説しているところなど、やや脱線しているところも読みごたえ十分な対談集でした。


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