琥珀色の戯言

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【読書感想】甲子園は通過点です〜勝利至上主義と決別した男たち ☆☆☆☆


Kindle版もあります。

「メジャーを目指しているので、頑張るのはそこじゃない」。高校野球の現場で進む変化を追う。
二〇一九年夏、岩手県大会の決勝で大船渡高校のエース、佐々木朗希が登板を回避したことは、賛否の論議を呼んだ。それは突き詰めると、「甲子園にすべてを捧げる」か「将来の可能性を取る」かの選択に他ならない。「負けたら終わり」のトーナメント方式の中で、どう選手を守り、成長させていくのか。球数制限、丸坊主の廃止、科学的なトレーニングの導入など、新たな取り組みを始めた当事者たちの姿を追う。


 僕が子どもの頃、もう40年くらい前は、インターネットもビデオデッキもKindleもなく、夏休みにはけっこう高校野球を観ていた記憶があります。
 僕自身は運動音痴でスポーツにはなるべく参加しない人生をおくってきたのですが、野球観戦はけっこう好きだったのです。夏休みの昼間なんて、友達と遊ぶ約束でもなければ、けっこうヒマでしたし。
 「高校野球とか、大相撲の中継って、あんな時間に誰が観ているのだろう?」という感じている人も多そうですが、病院で働いていると、甲子園を楽しみにしていて、部屋を訪れるといつも野球中継、という人も大勢いるのです。

 その一方で、僕の子どもたちは、僕が子どもだった頃のようには高校野球には興味を持っていないようです。
 2時間も3時間もひとつの試合を観ているよりは、『フォートナイト』のほうが楽しい、というのもわかります(僕も基本的にインドア系ではありますし)。

 プロスポーツ、というのが「コンテンツ」としてメディアから重視され、プロ野球選手、あるいはメジャーリーガーとして成功すれば、億単位の年収がもらえるようになった一方で、野球をやっている子どもたちは減っていて(少子化の影響もあります)、若い世代にとっては、野球は「かったるいスポーツ」になってきているのです。

 それでも、甲子園で行われる全国高校野球選手権は、大々的にメディアで報じられますし、まだまだ注目度が高いイベントです。
 むしろ、学生スポーツのなかで、「甲子園」だけがあまりにもメジャーである、というのが問題なのかもしれません。
 大学の陸上で、箱根駅伝の注目度が突出して高いために、「箱根駅伝という『山の上り下り』がある特殊なレースで勝つことに特化したチームや選手」がつくられ、箱根で活躍した選手が、その後マラソンやロードレースで伸び悩んでしまうことが多いように。

 とはいえ、「甲子園」という憧れの大舞台があることが、多くの若者のモチベーションにつながっていることも事実ではあります。
 僕の地元でも、「甲子園で活躍した選手」は、大人になっても、「地元の英雄」なんですよね。本人は、それはそれで大変そうではありますが。
 甲子園で大活躍しても、松坂大輔選手や桑田真澄選手のように、そのままプロで成功を収められる選手ばかりではないのです。
 甲子園に出るため、そこで勝つために無理を重ねて大きな怪我をして野球人生を狂わせてしまうこともあります。

 この新書の著者は、高校野球の「新しい潮流」について、たくさんの関係者に取材をし、紹介しています。

 始まりは2019年夏、「夏の甲子園」こと全国高等学校野球選手権大会が「百一回目」を迎える岩手県予選でのことだった。
 決勝に進出した岩手県立・大船渡は163キロを投げ込むと評判だったエース、佐々木朗希(ロッテ)の登板を回避したのだ。
 甲子園を目前にした決勝戦でエースが投げない。つい十年ほど前は考えられないことだった。
 この十年を思い返して鮮明な記憶としてあるのは、2008年夏の甲子園勝戦だ。大会中に左肘の痛みを覚え、まともなフォームで投げられなかった常葉菊川のエース、戸狩聡希投手が決勝戦のマウンドに上がった。
 当時の指揮官・佐野心監督は「マウンドに立っている以上、痛いもかゆいもない。一生懸命やるのが男の美学」と語ったが、戸狩はそのマウンド上で、肘の痛みに耐えかねて何度も悶絶した。
 エースの宿命、当時はそれが当たり前だった。
 しかし、十年の時を経た岩手県大会決勝戦では、この試合に勝てば公立校の悲願が叶うという試合でエースが先発しないということが起きたのである。
 この試合後に、大船渡の監督・国保陽平が語った言葉は、日本の指導者に新たなマインドが生まれつつあることを象徴するものだった。
「故障を防ぐためです。どこが痛いというわけではなく投げられる状態でしたが、三年間で一番壊れる可能性の高い試合だった。後悔は特にありません」
 もちろん、賛否はあった。むしろ否のほうが多かったかもしれない。


 佐々木投手を投げさせなかった大船渡は、地方大会の決勝で敗れています。佐々木投手抜きで甲子園に出られていればよかったのでしょうけど、勝負の世界はそんなに甘くはなかったのです。国保監督も、この試合で勝つこと、甲子園に出ることにこだわっていなかったのも事実でしょう。

 僕はこの佐々木投手登板回避のニュースを聞いたときには、「どこか怪我でもしたか、コンディションが悪かったのだろうな」と思ったんですよ。いくらなんでも、あの状況で、大船渡の大黒柱ともいえるエースを投げさせないのには明確な理由があったのだろう、と。
 「リスクを避ける」とはいっても、こんな大事な試合に「温存」されるような壊れやすい選手では、大成することは難しいのではないか、とも。

 ただ、佐々木投手がロッテに入団後、投げているボールは絶賛されながらも、1年間は身体づくりに専念していることを考えると、まだ基礎体力ができておらず、無理をさせると大きな怪我のリスクが高い、とプロのスタッフも判断したことがわかります。

 「これで投げられなくなってもいいから、甲子園に出たい、チームのためにマウンドに立ちたい」というのが「美談」として語られるため、選手たちも、無理をせざるをえなくなっていた面はあるのです。

 そして、観客やメディアも、エースがひとりで延長18回を完投する、とか、大会の全試合を投げ切る、という「エースがいつ壊れるのか不安になるようなドラマ」を期待していました。

 選手の人生は甲子園のあとのほうがずっと長いはずなのに。

 とはいえ、大船渡の佐々木投手の場合は、僕は「ここまで来てエースを投げさせないのは、監督が自らの考えかたをアピールするためではないのか」とも感じました。僕が選手の立場、とくに、佐々木投手以外の大船渡の選手だったら、「ここまで来たら、甲子園に出たい」と思ったのではないかと。

 なんのかんの言っても、甲子園の影響力は大きすぎるし、日本の野球界、そして、野球ファンが、甲子園でスターを生み出し、そのスターがプロの世界で活躍していくという「仕組み」に縛られ続けているのです。


 いちはやく球数制限を打ち出した新潟県高校野球連盟の富樫信浩会長(取材当時)は、こう述べています。

「今、野球界がどのような状況に置かれているか。人がいないんです。野球をする子どもが。『甲子園で勝つことを目指す』という目標を掲げるだけでは、野球が魅力的なものであると思ってもらえないんです。親御さんたちに(高校野球をやれば)こんないいことがありますよって、訴えていかなければいけない。だから、新潟県では青少年のためになる団体を立ち上げて、いろんな取り組みの中で高野連の覚悟を発表した方がいいという判断なんです。我々は子ども達の将来を考えるべき立場にあるわけで、このままでいいという考え方は持っていないんです」


 プレーする側からすれば、ごく一部の野球エリートを除くと、「勝利至上主義」で、高校生活でさまざまな犠牲を強いる高校野球には魅力がないというか、近寄りがたく感じるのではないでしょうか。

 競技人口減少、指導者育成、プレーする場の不足など野球界にはたくさんの課題がある。その課題に対して「任務をこなすだけでいい」という立場をとるのか。青少年の健全育成や野球界発展のための施策に力を入れるという立場をとるのか。結局、球数制限の問題にしても、実際には野球界全体の問題なのだ。
 野球界に蔓延しているのは勝利至上主義だ。勝つことばかりにとらわれ、子どもの身体を大事にしない。指導現場において怒号・罵声が常態化している野球界の風潮は、子どもやその親たちから「野球」をプレーする選択肢を奪っている。


 強いチームをつくって、甲子園に出ないと、指導者として評価されない、学校も有名にならない、という「勝利至上主義」と「負けたら終わりという一発勝負のトーナメント制の大会」が、特定の有望な選手にばかり負担をかけ、その一方で、ほとんど試合に出ることができない選手を大勢生み出しているのです。

 プロスポーツやアマチュアでもオリンピックを目指す大人のアスリートは「勝利至上主義」も当然だと思うのですが、あくまでも「競技者としての通過点」であるはずの高校野球は、甲子園、というあまりにも注目される大会のために、「教育の一環」「育成」という枠をはみ出してきました。

 でも、球数制限とかしたら、実力がない選手が投げることになるし、「そういう、みんな並んで運動会の徒競走でゴールする」みたいなやり方だと、選手に力がつかないのでは?」とも思いますよね。


 球数制限を自主的に導入してきた、神奈川県の県立・市ヶ尾高校の菅澤悠監督への取材より。

 球数制限の議論が始まった頃、世間で多く聞かれたのは、「制度化されれば公立が不利になる」という言葉だった。単純に考えれば選手を集めて部員数が多いチームが有利に働くのは当然だが、指導者の意識で変えることもできる。市ヶ尾は、自浄作用の働く「球数制限」を実施して戦っているから毎年のように人材が生まれるのだ。
 市ヶ尾の取り組みは、指揮官のマネジメント次第で、普通の公立校でも複数投手制が可能であるという事実を伝えてくれる。
 菅澤はいう。
「球数制限をやってみて得られたのは、エースの酷使回避が一番に挙げられますが、それ以外にも二番手以下の投手の成長、登板機会増による控え投手全般のモチベーション維持、各自の調整能力の向上も挙げられます。また私自身のゲームプラン、投手起用に対する思考力も上がったのかなと思います。中学の時について羽生は『遠征に行っても往復していただけで何も面白くなかった』といっていましたが、高校では最後はリリーフ専属でショートイニングだったけど、楽しかったといってくれたのは嬉しかったです」


 たしかに、球数制限が行われると、圧倒的なエースがひとりで投げ切る、ということができなくなり、部員数が多く、選手の平均的なレベルも高い名門私立高校が有利にはなるはずです。
 しかしながら、球数制限を行うことによって、試合に出られる選手は増えるし、試合で「役割」を与えられると、驚くような成長を遂げる選手もいるそうです。
 
 サッカーコンサルタントで、現在は施設サッカークラブのFC市川GUNNERSを運営している幸野健一さんは、日本の学生スポーツのトーナメント方式の弊害について語っておられます。

 幸野は世界を転々とする中で、海外では当たり前となっているリーグ戦文化との違いが、日本のスポーツ界に与える影響が計り知れないと感じてきた。
「百六年前から始まった甲子園がトーナメント方式で行われ、天国か地獄かの戦いをやり、ドラマチックな試合を生み出した。でも、それは見る側が感じるドラマであり、本来、この年代のスポーツは選手のためのものじゃなくちゃいけない。甲子園によって、スポーツが観客やテレビの視聴者のものになってしまったんです。その結果、莫大なお金が動くようになり、変えることができなくなってしまった。その元凶にトーナメント文化があるとも言えるんです」
 トーナメントのノックダウン方式になったことの影響をどれだけ日本のスポーツ競技団体は考えてきたのか。甲子園のドラマが日本のスポーツを彩る理想の形とされ、正月の高校サッカーの選手権を始め、ほとんどの競技がこの形式を踏襲している。


 甲子園の人気が、野球というスポーツの人気を支え、ごく一握りのプロにまで進める選手には富と栄光をもたらしているのかもしれませんが、たしかに、学生スポーツとしての役割よりも、ドラマを期待する観客やメディアの都合を「伝統」として優先しているのは事実でしょう。学生スポーツなのに、プロ野球よりもミスが許されない状況に、選手や関係者は置かれてしまいがちなのです。


 関係者の考え方とともに、「ドラマ」を期待する観客の意識を変えないと、高校野球は変わらないのです。
 とはいえ、地元の県の代表というだけで、テレビにかじりついて応援している人たちをみると、「改革」をすすめるのは並大抵のことではないだろうな、とも感じます。
 みんな「選手たちのため」よりも、「観客として、面白いドラマを観たい」のですよね。それを公言するのは憚られるとしても。


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