琥珀色の戯言

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【読書感想】検証 ナチスは「良いこと」もしたのか? ☆☆☆☆☆


Kindle版もあります。

ナチスは良いこともした」という言説は、国内外で定期的に議論の的になり続けている。アウトバーンを建設した、失業率を低下させた、福祉政策を行った――功績とされがちな事象をとりあげ、ナチズム研究の蓄積をもとに事実性や文脈を検証。歴史修正主義が影響力を持つなか、多角的な視点で歴史を考察することの大切さを訴える。



 「ホロコーストは無かった!」というようなトンデモ史観は論外ではありますが、「ナチスの政策のなかには、評価すべきものもある」「ナチスの宣伝戦略は参考になる(たしかに「悪用」したい人には役立つかもしれませんが)」などの見解を示して炎上する人は第二次世界大戦が終わってから80年近く経っても絶えないのです。
 僕も正直なところ、「ナチス=絶対悪」として、あの戦争をすべてナチスの責任にして、思考停止しているのではないか、ナチスアンタッチャブルな悪とし、ナチスについて歴史的に検証することそのものが忌避されているのではないか、とも感じていました。

 この本では、歴史学者である著者たちが、当時の史料やこれまでの歴史学者たちのさまざまな研究に基づき、「ナチスが行ったことの歴史学的な評価」を試みているのです。


 「はじめに」には、こう書かれています。

 現代社会においては、ナチスには良くも悪くも「悪の極北」のような位置付けが与えられている。ナチスは「私たちはこうあってはならない」という「絶対悪」であり、そのことを相互に確認し合うことが社会の「歯止め」として機能しているのである。「ナチス」と名指しされて、それを受け入れる人は現代社会にはほとんどいないだろう。自分はナチスとは違うと、否定する人間が大多数ではないだろうか。
 こうした意味で、ナチス認識はその裏返しである「私たちの社会はこうあるべき」という、「政治的正しさ(ポリコレ=ポリティカル・コレクトネス)」と密接につながっている。

 そしてまさにこの点にこそ、少なくない人びとが「ナチスは良いこともした」と語りたくなる原因がある。
 一つには、「物事にはつねに良い面と悪い面があるのだから、たしかに戦争やホロコーストなどは悪いことだったのかもしれないけれども、探せばいろいろと良い面もあったのではないか」という、それ自体としては真っ当な疑問がある。民主的に選ばれた政権だ、アウトバーンを作った、失業率を低下させた、経済を建て直した、歓喜力行団(かんきりっこうだん)で誰でも旅行に行けるようにした、有給休暇を拡充した、禁煙政策を進めた、先進的な環境政策をとった、制服が格好いい、などなど。本書で詳しく検討するように、これらには事実認識として誤っているもの、事実関係は間違っていないが各々の政策が置かれている歴史的文脈への理解が不十分なものが数多く含まれている。さらには、多くのドイツ人が熱狂的にナチ体制を支持していたのだから、少なくとも当時は「良い」ことと思われていたのではないか、という意見もある。「当時の人びと」の価値観はけっして一枚岩ではないし、支持していたことと「良い」と思われていたことはイコールでもないのだが、ともあれきちんと考えてみる必要のある意見ではある。


 著者たちは、ナチスの経済政策や福祉、健康関連の施策について、個別に詳細な分析を行っています。
 「ヒトラーアウトバーンを作ってドイツを復興した」という「神話」については、こんなふうに述べています。

 プロパガンダが国民の心理に一定の影響を及ぼし、景気上昇ムードの醸成に一役買ったことは否定できない。だがアウトバーン建設の雇用創出効果は実際にはきわめて限定的で、建設工事に雇用された労働者は1934年に3万8000人、最大でも36年に12万4000人を数えるにとどまった。これとほぼ同等の下請け産業の雇用を合わせても、この事業の失業者減少への寄与が宣伝されたほど大きくなかったことは疑いない(そのため近年のナチズム概説書では、アウトバーンについてまったく触れていないものも少なくない)。政府の雇用創出策全体で見ても、1935年までに50万人程度の雇用を生み出すにとどまった。もちろん、それをもって一定程度の成果が得られたと評価することも可能ではあるが、失業者が600万人に及んでいたことを考えれば、効果は限定的だったと判断するのが妥当だろう。


 では、ナチ政権下でドイツの失業者が減った原因は何だったのか? 
 著者たちは、ヒトラーが政権を握る前に(世界恐慌時の企業努力や前政権の経済政策の効果が出てきて)ドイツの経済は景気の底を脱し、回復局面に入っていたこと、徴兵制度の導入で若者に兵役が課せられ、女性を家庭に戻そうとする政策が薦められたことなどを指摘しています。

 この景気回復に決定的に寄与したのは、戦争準備のために急激に拡大した、軍需産業だったのです。
 ナチスの政策の多くは、それまでの政策の流れに沿ったものであり、斬新な発明みたいなものは、ほとんどなかったこともわかります。
 ちょうど経済が回復してくるサイクルに政権が誕生し、ユダヤ人や占領地から搾取したものを「ナチスを支持し、ナチスが求める国民」に分け与えることによって、経済が劇的に回復したように見えただけです。
 戦争や人種差別政策による略奪品を分け与えて支持を得る経済政策では、政権を維持するためには誰かから奪い続けるための戦争をやり続け、いずれは行き詰まるしかなかったのです。
 
 比較として適切ではないかもしれませんが、プロ野球でも、「前監督が育てた選手たちが成長した時期に就任した新監督が『名将』として評価される」ことはよくありますよね。
 政治家でも「自分の任期はバラマキ政策で人気を得て、次の世代にツケを遺してしまう人」がいます。

 ナチスの政策でオリジナリティがあるといえば、「ユダヤ人虐殺」や「アーリア人信仰にもとづく優生主義」など、ろくでもないとしか言いようがないものばかりみたいなのです。


 子どもの数を増やすために、「母親」を称揚し、子どもを産んでくれる家族への援助を惜しまなかった、というと、「少子化」が叫ばれている2023年の日本には「参考にすべき政策」のように思われるかもしれませんが、結局のところ、そうやって出産を奨励する目的は「兵士を増やし、戦場に送るため」だったのです。

 結論から言えば、たしかに子どもは増えた。世界恐慌の影響で、1933年には14.7人まで落ち込んでいた人口1000人あたりの出生数は、1939年には20.3人まで増加した。出生の絶対数も約99万(1932年)から約140万(1939年)へと41%増加している。この数字だけ見れば、明らかにナチスの出産奨励策は成功したかに見える。
 ただしその際同時に見る必要があるのが、結婚数の推移である。1932年に約51万件だった数字は、1939年には約77万件と、49%増加している。つまり、結婚数の増加を出生率の伸びが若干下回っているのである。
 さらに別の数字もある1920年時点でドイツ家庭の一家族あたりの子どもの数は平均2.3人であったのに対し、1940年にはこれが1.8人へと低下しているのである(ナチ体制における「規範」である親衛隊員に至っては、1939年時点でその61%が独身であり、既婚隊員の一家族あたりの子どもの数の平均は1.1人であった)。

 この数字に対して、多くの研究者は、「1939年までの出生率の増加はナチスの家族政策の効果というよりは、景気回復で結婚の絶対数が増えたためで、成立したカップルには『もっと子どもを産もう』とする影響は与えなかった」と考えているそうです。


 いくら手厚い経済的なサポートがあったとしても、「国のために子どもをつくろう」とか「奨励金のために産もう」と考える人はそんなにいないはずです。国家による強制や「人間牧場」みたいなものをつくるのならともかく、「個人の自由意志」が尊重される社会であれば、子どもを産むリスクや育てるためのコストや時間と「自分がやりたいこと」を考え、産まない選択をする人が増えていくのは当然だと僕は思います。今の日本では、結婚だって「したくない人は、しなくていい世の中」になってきているのだから。
 ドイツにしても日本にしても、手厚い少子化対策よりも、経済的な成長期で(あるいは戦争が終わって)、将来に希望を持っている人が多い時代には、人口が増えているのです。


 ナチスの政策で恩恵を受け、「良い時代だった」と感じた人はいる(いた)はずです。
 でも、それが「罪もない人々から間接的に奪ったもの」や「国民を戦争に向かわせるため」だとすれば、それは「良いこと」だとは言えないし、言うべきでもないと僕も思います。

 この本を読んでいると、政策というのは行われたタイミングや宣伝のやり方で、ありきたりのこと、同じようなことをやっても、人々が受ける印象が変わるし、そうやって人の心を鼓舞することで、効果まで変わってしまうということに、恐ろしさも感じてしまうのです。

 善悪を持ち込まず、どのような時代にも適用できる無色透明な尺度によって、あたかも「神」の視点から超越的に叙述することが歴史学の使命だと誤解している向きは多い。端的に言ってそれは間違いだし、そもそも不可能である。誰もが社会のなかで生きていて、そこから何らかの影響を受けており、それぞれに価値観をもっている。人びとがそれぞれに過去を自分の立ち位置から切り出してくるなかで、切り取られていきたものの妥当性を相互チェックするというのが学問本来のあり方だろう。「無色透明」な歴史叙述という不可能な到達点をめざすのではなく、自分にも他人にも色があることを認めた上で、相互チェックによって誤りや偏りを正していくということである。

 「実際に起こったこと」は一つであっても、その「解釈」は、人間の数だけ存在しています。
 だからといって、「ホロコーストも、歴史的事実のひとつに過ぎない」と言うのは、単なる思考停止にしかなりません。
 しかし、「多様な価値観を尊重する」というのは、歴史研究者のみならず、すべての人間にとって、簡単なことではないのです。


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