- 作者:辻田 真佐憲
- 発売日: 2016/07/29
- メディア: 新書
Kindle版もあります。
内容紹介
信用できない情報の代名詞とされる「大本営発表」。その由来は、日本軍の最高司令部「大本営」にある。その公式発表によれば、日本軍は、太平洋戦争で連合軍の戦艦を四十三隻、空母を八十四隻沈めた。だが実際は、戦艦四隻、空母十一隻にすぎなかった。誤魔化しは、数字だけに留まらない。守備隊の撤退は、「転進」と言い換えられ、全滅は、「玉砕」と美化された。戦局の悪化とともに軍官僚の作文と化した大本営発表は、組織間の不和と政治と報道の一体化にその破綻の原因があった。今なお続く日本の病理。悲劇の歴史を繙く。
「大本営発表」といえば、「嘘にまみれた『公式』からのコメント」というイメージがあります。
太平洋戦争中(実際は、日中戦争の時期から「大本営発表」が行なわれていたことを著者は紹介しているのですが)の「本当の大本営発表」とは、どのようなものだったのか?
僕は、この「大本営発表」という言葉の用法って、ちょっと揺れているように感じます。
広島カープファンの中には、中国新聞に出たカープ関連の記事を「東スポ情報では信用できないけど、大本営(中国新聞)から記事が出たということは、やっぱりFAするのか……」というような使い方をしている人もいます。
要するに「確定情報」「公式情報」「信頼できる情報」を出すところ=大本営、というような、ある意味「本来の用法」に戻っているんですね。
中国新聞は「カープの公的なスポークスマン」ではないのだけれど、地元の有力紙で、カープに関しては、かなり情報の信頼性が高いのです。
この新書では、「大本営発表」の歴史や、そこで、どのような情報の改ざんや隠蔽が行なわれてきたのかが、時系列で詳しく紹介されています。
これを読むと、大本営発表は、当初から「嘘ばっかり」だったわけではなくて、当時の戦果について情報を得ることの難しさを考えると、仕方が無い、というくらいの「ズレ」しかなかった時期もあったんですね。
それが、戦局の悪化と、一度ついてしまった嘘を隠すために、嘘の上に嘘を重ねるようになっていくのです。
大本営発表の発信元である大本営は、天皇に直属する日本軍の最高司令部である。常設ではなく、日清戦争や日露戦争など戦時に際して特別に設置された。昭和年間では、日中戦争初期の1937年11月に大本営が設置され、以後太平洋戦争の敗戦まで存続した。
明治の大本営は天皇の特旨によって首相も参加し、名実ともに日本の戦争指導の中心機関であった。これに対し、昭和の大本営は敗戦の年まで首相の参加を認めず、天皇臨席の形式的な会議を開くだけで、実態は陸海軍の寄り合い所帯にすぎなかった。すなわち、陸軍の参謀本部と海軍の軍令部がそれぞれ(多少の手直しを経て)大本営陸軍部と大本営海軍部の大部を構成し、引き続き個別に戦争を指導したのである。
細かい点を横に置けば、事実上、参謀本部が大本営陸軍部を名乗り、軍令部が大本営海軍部を名乗っただけといってもよい。そのため、昭和の大本営は単なる看板に等しく、陸海軍を統合して運用する機能を持たなかった。
大本営でも、陸軍と海軍は分断されていて、勢力争いをしていたのです。
そして、「どちらの名前を上にするか」を決めるために、高官たちが何時間も会議を紛糾させていました。
戦果が割り増され、損害が隠蔽されていたのも、内部での手柄争いがひとつの原因であったのですが、僕は、この本を読むまで、「軍部は自軍の損害や敗勢を知っていたにもかかわらず、国民向けには嘘の発表を続けていた」と思っていました。
ところが、「大本営発表」が欺いていたのは「何も知らない国民」だけではなかったのです。
また少しさかのぼるが、大本営は1942年1月14日に、潜水艦によって空母「レキシントン」を撃沈したと発表していた。ところが、これは実際のところ、空母「サラトガ」に魚雷一本を命中させただけだった。すでに日本海軍は、一月の時点で空母の艦名や戦果を間違っていたのだ。
その結果、珊瑚海海戦において、「レキシントン」ではなく「サラトガ」を撃沈したと発表せざるをえなくなった。「レキシントン」はもうこの世に存在しないはずだからである。米海軍は、日本海軍のちぐはぐな発表を見て、失笑したことであろう。いわんや、「ヨークタウン」の撃沈に至っては、またもや戦果の誤認にほかならなかった。
たしかに、珊瑚海海戦の戦果は、悪意ある戦果の誇張ではなかった。ただ、それは問題が軽いことを意味しない.戦意高揚のため、大本営が敢えて虚偽を発表したのならば、それはそれでひとつの判断だったかもしれない。どこの国も、戦時下にはある程度情報を都合よく操作していたからである。
しかし、意図的な情報操作ではなかったがゆえに、大本営は誇張された戦果を「真実」として受け入れざるをえなくなった。「真実」である以上、以後の作戦は(多少割り引いていたとはいえ)基本的にこの戦果にもとづいて立てなければならない。すなわち大本営は、誇張された戦果に自ら騙され、縛られてしまったのだ。「もう米海軍に空母はほとんど残っていないはずだ。したがって、この方面にはこれくらいの部隊を送れば十分だろう」。こうして、必要以上の損害を被ったことも一度や二度ではなかった。
それゆえ、情報の軽視は、日本軍の行動を歪めるきわめて致命的な欠陥だった。これにもとづいて作成された大本営発表は、国民だけでなく、日本軍の指揮官たちをも誤謬の霧のなかに閉じ込めたのである。
現場も、この「大本営発表」を基に作戦を立てていた、というのを聞いて驚きました。
そりゃ勝てるわけないよ……
著者は、日本軍は「正しい情報を得る」ことに対して、アメリカほど価値を見いだしておらず(費用も技術も乏しかったのだとしても)、それが「敗因」のひとつだったと述べています。
ただ、これを読んでいると、戦場で「戦果」を確認することの難しさ、というのはあるみたいなんですけどね。
平時のように、「中立」のメディアが第三者として報道してくれるわけではないし、戦いながらその効果を確認するのは、熟練兵でも困難なのだとか。
太平洋戦争後半の経験の浅い兵士が多かった日本軍では、そんな技を持った人がほとんどいなかったのです。
大本営発表といえば、「撤退」を「転進」、「全滅」を「玉砕」と言い換える、現実を反映していない「美辞麗句」が思い浮かぶのですが、ずっとこの表現が使われていたわけではありません。
玉砕という言葉はあまりに重々しい。こんな言葉が何度も使われてはたまらない。こうした国民の感情もあってか、タラワ・マキン以降、大本営発表で「玉砕」という言葉は使われなくなった。
たしかに、このあとも守備隊の全滅は続く。ただ、その場合は「全員戦死」という即物的な表現が使われるようになった。「玉砕」は大本営発表の表現としては有名だが、使われた期間は一年にも満たなかった。戦局の悪化はあまりにも急速で、美辞麗句で誤魔化される時期はあっという間に過ぎ去ったのだった。
大本営発表のなかで、この「転進」「玉砕」が最初に使われたのは、1943年2月。
実際に使われたのは、「一年にも満たなかった」のです。
それでも「玉砕」という言葉は、ずっと日本人の記憶の中に残されています。
当時の国民も、この時期から「大本営発表」に疑いを持つ人が増えたそうです。
これ以降、晩期になると、いくら勝っていると発表したところで、自分たちが暮らしている街が間断なく空襲されているのですから、それはもう、「勝っている」と思えるわけがないですよね。
著者は、このように大本営発表が破綻した原因のひとつに「軍部と報道機関の一体化」があると述べています。
いかに大本営がデタラメな発表を行なっても、報道機関がその不自然さを的確に指摘していれば、国民はここまで騙されなかっただろう。また、大本営でも報道機関が厳しくチェックするとわかっていれば、ここまでデタラメな発表は行なわなかったに違いない。
ところが、報道機関が大本営報道部の下請けに成り下がり、そのチェック機能を手放してしまった。その結果、大本営は歯止めが利かなくなり、内部の論理のみに従って、自由自在に発表を行なえるようになった。
この「権力とメディアの一体化」というのは、今の日本にとっては「昔話」ではない、と著者は警告しています。
だからこそ、あらためて「大本営発表」について検証する意義もあるのだ、と。
もしかしたら、「大本営発表」=「公式発表」と素直に受け止め、そこに「嘘や隠蔽」のニュアンスを感じない人が増えているのは、偶然ではないのかもしれませんね。