琥珀色の戯言

【読書感想】と【映画感想】のブログです。

「X68000の落日」から、僕が学んだこと

まず最初に謝っておかなければなるまい。
昨日のエントリで、「X68000のゲームが衰退したのは、市販のゲームのコピーが氾濫し、ゲームが売れなくなったからだ」と書いたのだけれども、僕はそのことを証明できるソースを手元に持っておらず、当時のマイコン雑誌(『Oh!X』だったか、『LOGIN』だったか、これもよく覚えてません)に書かれていた記事を鵜呑みにして、それを信じ続けていたからなのだ。ちなみに、当時はアートディンクの『地球防衛軍』にウイルスが混入されたまま発売されたのが「引き金」になったというような風説も耳にしたことがあった。

大学受験を「X68000ソフトカタログ」を眺めながら乗り切り、大学時代にようやく憧れの「マンハッタン・シェイプ」を我が物とした僕にとっては、X68000はまさに「宝物」だったのだ。しかしながら、当時は九州の片田舎で68のソフトを手に入れるには通販(それも「Amazon」なんてエレガントなものじゃない、ゲーム雑誌の巻末の白黒ページに広告を載せているような会社)か、たまに博多に出たときに「そこに運良く置いてあるゲームを買う」くらいしかなく、僕が当時置かれている環境というのは、「豊富なフリーソフト」などとは縁遠いものだった。

最初に買ったソフトは『スペースハリアー』『ファンタジーゾーン』『信長の野望戦国群雄伝』だったと記憶しているのだが、1980年代が終わろうとしている時期は、まさに「X68000の黄金時代」だった。当時の僕は、『LOGIN』の広告ページを1ページ1ページ丁寧に眺めて、「次はどんなゲームが出る(移植される)のだろう?」とワクワクしていたものだ。
1990年の3月に『ワンダラーズ・フロム・イースイース3)』が、当時のトップメーカーである日本ファルコムから「X68000仕様」で発売され、『ログイン』の売り上げランキングで1位に輝いたときには、「これからファルコムもどんどん68ソフトを発売していって、68の時代が来るのだ!」と、当時の僕は信じていたのだ。

だが、結果的に『ワンダラーズ・フロム・イース』の発売は、「全盛期の幕開け」ではなくて、「終わりの始まり」でしかなかった。
前述した「ウイルス混入事件」の余波などもあってか、電波新聞社やZOOMのような「X68000ユーザー御用達」のような一部のメーカー、そして当時から多機種展開を続けていた光栄(KOEI)などを除いては、大手マイコンゲームメーカーは、潮が引くように、一斉にX68000を見切りはじめたのだ。ファルコムX68000ゲームも、結局、(正規のものは)『イース3』だけだった。
正直、当時の僕には、その「理由」がよくわからなかった。いや確かに、光栄の歴史シミュレーションのような1画面の文字情報の多さが必要なゲーム以外は、スーパーファミコンやPCエンジンで十分と考える人が多くなり、30万もするX68000をわざわざ買おうという人は少なくなってしまったのかもしれないけれども、それにしても、「ゲームをするためのマシン」としては、PC98シリーズよりは、グラフィックもサウンドもはるかに上なはずなのに。
前のエントリへの反応として、「X68000のゲームが売れなくなったのは、市場の大きさのわりにゲームの数が増えすぎてしまったからだ」と書いた人がいたが、少なくとも当時の僕には「飽和している」というイメージは全く無かったし、「もっともっとX68000のゲームは増えていくはずだ」という希望を抱いていた。
あの頃のことを思い出してみると、「なんでいつの間にか、こんなに68のゲームが減ってしまったんだ?」という疑問しか、僕の心には浮かんでこなかったし、そんな中で「不正コピーが原因」という話を耳にして、「そうだったのか……」と納得してしまったのが事実なのだろう。

不正コピーができなかったFM-TOWNSのこと(ちなみに、X68000は、ファミコンには敵わなかったし、PC98には確かに「負けた」。でも、TOWNSに「負けた」わけじゃない。TOWNSには、「足を引っ張られた」だけだ)、そして、「巨人」PC98シリーズにおいても、X68000の「市販ゲーム市場」の実質的な消滅後、「マイコンゲーム文化」が急速に衰退期に入っていったことを考えると、「ユーザーの不正コピーX68000のゲーム市場を終わらせた」わけではなくて、あれは、「マイコンでゲームをする時代そのものの終焉」だったのかもしれない、と思う。
しかしながら、その一方で、『スペースハリアー』や『アフターバーナー』や『ジェノサイド』が出たときと同じくらいの「このマシンですごいゲームを作ってくれる人たちへの感謝の気持ち」があれば、もう少し、あの「熱い時代」は続いたのではないかと思うし、もっと「受け入れやすい衰退のしかた」をしたのではないかな、という気がしてならないのだ。

そりゃあ、20年経てば、
『コピーで潰れたと断定しないでぇぇ』
↑で書かれているように、

X680x0のコピー対策はそれほど必死だったようには見えない。 X680x0のソフトウェア市場の規模が他機種に比べて小さくて、コピー対策のコストをペイできなかったのかもしれないが、それは先行機種の状況を見ながら事前に考慮すべきコストなんだから、この場合「コピーユーザが多過ぎた」と理由を述べるのではなく「見通しが甘くてコストを回収できなかった」と考えるべき。

と「俯瞰」する人がいるのはしょうがないことだと思うよ。
でもね、当時の僕のような田舎の熱狂的な1ユーザーにとっては、「大好きなマイコンのゲームが、なぜか急に全然発売されなくなってしまった」という感覚しかなかった。そもそも、この理屈を是とするならば、新しいコンセプトを持つ、既存の機種との上位互換のないハードでゲームを発売すること自体が間違っているってことになる。
……その後の「歴史」を考えれば、まさに「その通り」なのかもしれないけれども……

僕はあの頃、ひたすら市販ゲームを不正コピーしまくっていたユーザーたちを軽蔑している。もし自ら不正コピーをしながら、「X68000の可能性をつぶしたのは、不正コピーのせいじゃない」「証拠もないのに、ユーザーのせいにするな」と言う人がいるのなら、まさに「盗人猛々しい」とはこのことなんじゃないか?
「俺がチロルチョコを万引きしたからあの店が潰れたわけじゃないだろ?」ってさ、確かに店が潰れた全責任を負わせるのはあんまりだろうけど、万引きは万引きだよ。

当時、田舎の1ユーザーでしかなかった僕の実感が「一般的」というものではないだろう。
でもね、どの世界でもそうなんじゃないかと思うけど、結局、「優秀なフリーウェアがたくさんあった」って言っても、それを当時享受できていたのは、都会の一部のユーザーだけだったんじゃないの?
多くのユーザーは、「滅び」を目の当たりにして、ただ右往左往するしかなかったのでは?

結局、最もワリを食うのは、いつも「真面目にコンテンツに対価を払っている、沈黙の消費者」たちなんだよ。
自分たちはちゃんと「支えている」はずなのに、いつの間にか好きなものが失われていくのだから。

ちなみに僕は、CCCDが売れなかったのは、「コピーできないこと」よりも「iPodなどのデジタルオーディオに落としにくいこと」が大きかったのではないかと思っている。不正コピーする連中は、コピーガードをさっさと外して楽々コピーしていた一方で、「普通のユーザー」は、「せっかく買ったのに、iPodに入れられないの?」と嘆いていたのだから、こんなものが売れるはずがない。

「制作者に感謝しろ!」って言うとなんだか傲慢に思えるけど、「制作者を応援してやろう!」って、どうして考えてあげられないんだろう? 自分が愛するものが、まだ弱々しい雛であるならば、卵を産めるようになるまで守ってやろうよ。それがお互いの将来のためじゃないの?
無防備な雛」を貪り食って「弱肉強食だ」ってバカかお前ら。
 学生や子供はしょうがない、お前らの分は大人がなんとか頑張るよ。むしろもっと安く(あるいはタダで)いろんな面白いものを見せてやりたい。そして、「大人になったら、ちゃんとお前らが子供たちにそうしてやるんだよ」と教えておきたい。

 大人で「金がないからしょうがない」とか言うのは、単に「金を払いたくない」だけなんじゃないの?
『SPA!』の連載コラムで、鴻上尚史さんが、「ワーキングプア」について書かれた朝日新聞の記事に対して、

 でも、「本物」のワーキングプアは、朝日新聞なんか絶対に読んでないと思う。

と書いていたのだけれども、大人で「本当に金がない」やつが、少なくともネットの常時接続環境が必要な『ニコニコ動画』を観ているとも考えにくい。

 本物の「終わり」は、僕たちがまだ大丈夫だと思っているうちに静かに始まっている。
 そして、気が付いたときには、もう、どうしようもなくなっている。
 これが、「X68000の落日」から、僕が学んだことだ。

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