琥珀色の戯言

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【読書感想】夜と霧 新版 ☆☆☆☆☆

夜と霧 新版

夜と霧 新版


Kindle版もあります。

夜と霧 新版

夜と霧 新版

「言語を絶する感動」と評され、人間の偉大と悲惨をあますところなく描いた本書は、
日本をはじめ世界的なロングセラーとして600万を超える読者に読みつがれ、現在にいたっている。


原著の初版は1947年、日本語版の初版は1956年。
その後著者フランクルは1977年に新たに手を加え、改訂版が出版された。
みすず書房では、改訂版のテキストよりまた新たに『夜と霧 新版』(池田香代子訳)を2002年に出版し、
現在は、『夜と霧――ドイツ強制収容所の記録』霜山徳爾訳本と、
『夜と霧 新版』池田香代子訳との、
ふたつの『夜と霧』がある。
いずれもみすず書房刊。


霜山徳爾さんが訳された「旧版」を読んだのが、大学生の頃。
あれから、もう20年も経ったんですね。
原著が出てから、もう65年になります。


やっぱりちょっと「古い」のではないかと思いながら読み始めたのですが、読んでいくうちに、ひき込まれていきました。
思い返してみると、20年前にこの本を読んだときの僕は「強制収容所の悲劇」に圧倒されるばかりで、「なんて恐ろしいことを人間はやってしまったんだ……」と愕然としていました。
「人が理不尽に死んでいくこと」ばかりを考えていたのです。


でも、いま人生の折り返し点くらいのところに立って、あらためてこの本を読んでみると、これは、「それでも、人間が人間として生きていくこと」を伝えるために書かれた作品なのだということがようやくわかってきたのです。
年を取るのも悪いことじゃないのかもしれない。


ユダヤ人精神分析学者、ヴィクトール・E・フランクルさんが自らの強制収容所体験を書いたこの本は、読んでいて、すごく居心地が悪くなる本です。
フランクルさんは、自分を「善人」あるいは「ヒーロー」として描いてはいません。
もちろん、「悪党」ではないけれども。
あのとき、収容所に入れられていた、ひとりの人間として、善いことも狡いことも、そのまま書き記しているのです。


20年前にこれを読んだとき、僕は「でもさ、この人が生き残れたのは、結局、医者という特殊技能の持ち主で、看守の側にとっても『便利な人間』だったからじゃないの?」と、思ったんですよ(若いですね)。


フランクルさんは、こんなふうに書いています。

 収容所暮らしが何年も続き、あちこちたらい回しにされたあげく1ダースもの収容所で過ごしてきた被収容者はおおむね、生存競争のなかで良心を失い、暴力も仲間から物を盗むことも平気になってしまっていた。そういう者だけが命をつなぐことができたのだ。何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。

そんなことはないですよ、あるいは、それは仕方のないことだったんですよ、ああいう状況だったんですから。
でも、そんな部外者の慰めの言葉は、たぶん、何の意味もないのでしょう。
それでも、そんな自分のせいではない重荷を背負わされても、人は、生き続けるのです。
20歳の頃は、「生き残ったときのフランクルさん」のことをあれこれ想像したのだけれど、いまは、「生き残ったあと、人生を全うしたフランクルさん」のことを考えます。


この本には、人間の絶望、そして、ささやかだけれど、失われることのない希望が書かれています。

 とにかく、あれは忘れられない。ある夜、隣で眠っていた仲間がなにか恐ろしい悪夢にうなされて、声をあげてうめき、身をよじっているので目を覚ました。以前からわたしは、恐ろしい妄想や夢に苦しめられている人を見るに見かねるたちだった。そこで近づいて、悪夢に苦しんでいる哀れな仲間を起こそうとした。その瞬間、自分がしようとしたことに愕然として、揺り起こそうとさしのべた手を即座に引っこめた。そのとき思い知ったのだ、どんな夢も、最悪の夢でさえ、すんでのところで仲間の目を覚まして引きもどそうとした、収容所でわたしたちを取り巻いているこの現実に比べたらまだましだ、と……。

どこまでいっても、「絶望」しかない生活。
その一方で、「愛」についての、こんな記述もあるのです。

 わたしはときおり空を仰いだ。星の輝きが薄れ、分厚い黒雲の向こうに朝焼けが始まっていた。今この瞬間、わたしの心はある人の面影に占められていた。精神がこれほどいきいきと面影を想像するとは、以前のごくまっとうな生活では思いもよらなかった。わたしは妻と語っているような気がした。妻が答えるのが聞こえ、微笑むのが見えた。まなざしでうながし、励ますのが見えた。妻がここにいようがいまいが、その微笑みは、たった今昇ってきた太陽よりも明るくわたしを照らした。
 そのとき、ある思いがわたしを貫いた。何人もの思想家がその生涯の果てにたどり着いた真実、何人もの詩人がうたいあげた真実が、生まれてはじめて骨身にしみたのだ。愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること! 人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。

僕は正直、「愛ってよくわかんないな」と感じることがあるのです。
でも、このフランクルさんの言葉を読んで、人間というのは、「愛する人」が存在することで(ほんの少しの時間でも)救われることができるのだな、と理解できたような気がします。


フランクルさんは、極限状態での人間の「生きかた」について、こう述べています。

 強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟のあいだで、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。

ただ、こういう「美学」みたいなものを最後まで貫いた人たちの大部分は、命を落としてしまったのだろうと僕は想像するのです。
これは、実際にその状況に置かれたフランクルさんだからこそ語れることであって、僕は自分にそんな「自分の生存に不利なことをしてまで、人間の尊厳を守る」ことができるだろうか?と考えずにはいられません。
そんなことは、フランクルさんは百も承知だろうし、「そうではない(自分が生き延びることを最重視する)人たち」をたくさん見てきたのだろうけど……


「人はどう生きるべきか?」「なぜ生きているのか?」
この本にすべての解答があるわけではないのは、この本が世に出てから65年も経っているのに、同じことで悩んでいる人が大勢いることからも明らかです。
しかしながら、この本は、そういう迷える人間たちに、65年間も読み継がれているのも事実です。

わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。
では、この人間とはなにものか。
人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。
人間とは、ガス室を発明した存在だ。
しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。

2002年に出た、この「新版」は、いまの若い人にとっては、旧版よりだいぶ読みやすくなっていると思います。
そんなに長い本でも、具体的な残酷描写があるわけでもありません。


ネットで、「戦争」とか「民族差別」とかを軽々しく口にする前に、ぜひ、この本を読んでみていただきたい。
「生きることの意味」に迷いを感じている、僕と同じ中年諸氏にも。
これはけっして、「若者のためだけの本」ではないから。

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