ヒトラーの脱走兵-裏切りか抵抗か、ドイツ最後のタブー (中公新書)
- 作者:對馬 達雄
- 発売日: 2020/09/18
- メディア: 新書
Kindle版もあります。
内容(「BOOK」データベースより)
ナチス・ドイツ国防軍の脱走兵は、捕らえられて死刑判決を受けた者だけでも3万人以上と、英米に比べて際だって多い。その多くは戦闘中の逃亡ではない。民族殲滅に加担したくないという、生命をかけた抵抗であった。戦後、生き延びた脱走兵たちは久しく卑怯者と罵られ、存在までも否定されつづけるが、ついに軍法会議の不当な実態を暴き、名誉回復をなし遂げる。最後の脱走兵の生涯を通じて、人間の勇気と尊厳を見つめる。
ドイツの第二次世界大戦後の「あの戦争への向き合いかた」に対して、「日本も見習うべきだ」という話を聞くことが少なくありません。
しかしながら、ドイツの戦後処理というのは、「ナチスとヒトラーという絶対悪」を認定して、「ドイツの一般の国民」から切り離すことによって、成り立っているのも事実なんですよね。
多くのドイツ国民は、あの戦争に協力していた、あるいは協力せざるをえなかった。
戦争中は「反逆者」として処断された、ナチスに積極的に抵抗した人たちは、戦後、名誉を回復され、英雄視されるようになりました。
しかしながら、さまざまな理由で所属する隊から逃亡した「脱走兵」たちへの処遇は、長い間、ドイツの社会のなかで議論され続けてきたのです。
いや、「議論されてきた」というよりは、戦後も長い間、「いくらナチスがひどいことをやっていたとはいえ、軍の規律に従わず、仲間を見捨てて逃げた兵士は許せない」というのがドイツの世論だったのです。
僕も、この本を読むまでは、なんのかんの言っても、「脱走兵」は「裏切者」って感じがするよなあ、と思っていました。
いや、正直なところ、読んだあとも、「彼らが良心に従い、命の危険を承知で隊を離れたのはわかるけれど、戦場で死んでいった人たちのことを思うと、『赦す』は可能でも、『称える』のは難しいなあ」と感じています。僕自身が、もし戦場に駆り出されたら、こんなことやりたくないなあ、と内心思いつつも、逃げる勇気のなさと責任感から、上官の言う通りに行動して戦死するタイプだという気もしますし。
著者は「脱走兵」たちの戦後について、こう述べています。
脱走兵という前歴の生存者たちはまっとうな職に就けなかった。生活の困窮は遺族にも及んだ。一方、軍司法官はこぞって復職し、昇進を重ねて安逸な年金生活に入った。司法界も軍法会議の判決を擁護した。
くわえて、東西冷戦のなかで旧軍幹部たちを登用し再軍備を急ぐドイツ連邦政府、戦死者を慰霊する各自治体にとって、脱走兵は忌まわしい存在であった。元脱走兵たちも世間の冷たい目を避けて沈黙し、その身を隠すほかなかった。
しかし1980年代後半になると、ナチス軍司法が見直され、その実態が明らかにされるようになった。さらに1989年以降、東西分断の壁が取り除かれてイデオロギー対立から史実の究明へと時代の空気も変わっていく。
こうした移ろう時代のなかで、絶望的に生きながらえる元脱走兵たちの来し方と行く末を探ろうとすると、みずからその渦中にあって復権を主導した人物が浮かびあがる。はじめに挙げた反ナチ脱走兵ルートヴィヒ・バウマンである。
この本は、バウマンさんの脱走に至るまでの経緯と、戦後の「脱走兵」として周囲から受けたさまざまな差別、そして、長年の活動の末ようやく実現した名誉の回復までの過程が語られています。
ここで大戦下の状況について少し述べよう。ナチスドイツの軍法を特徴づけるのはその苛酷さである。著名な軍事史家マンフレート・メッサーシュミットによるおおよその数字だが、ドイツと交戦国とくに米英との軍事裁判による処刑数をくらべるとこうなる。
アメリカ146(うち殺人・強姦・強姦殺人145)、イギリス40(うち殺人36・武器をもった反抗3)に対して、ドイツでは陸軍だけで1万9600、米英同様の一般犯罪も含まれるとしても、処刑数が極端に多い。
さらに脱走兵について見ると、ドイツ国防軍の場合、1939年9月の開戦から1945年5月の終戦までの総数は30万人。捕まった13万人のうち死刑判決3万5000人(処刑数2万2000~2万4000人)、減刑された者も含め軍懲罰収容所・軍刑務所に送られたのは10万人以上だが、生きのびたのは4000人。一方、アメリカ軍では、脱走兵は2万1000人、死刑判決162人、処刑は1人だという。
それだけではない、ナチスドイツは軍法に「国防力破壊」という罪まで規定した。この規定により国防軍の司法は前線銃後の別なく、戦争遂行に不利益となる言動をとったとされた少なくとも3万人に、原則死刑の重刑を科した。
この数字からドイツ国防軍裁判の異常な姿が見てとれる。またそうした裁判をつかさどる軍司法官(裁判官と検察官)とは何であったのかという疑問も湧く。
さらに米英と比べ桁違いの脱走兵がなぜ生まれたのかという問題がある。一つだけその背景を指摘すると、独ソ戦の東部戦線が当初から絶滅戦争の性格を帯びていたこと、そのために敵兵捕虜の大量殺害や、無辜の土地住民の大虐殺を強いる戦闘となったことである。
敗勢にあったドイツは、軍紀の引き締めのために、苛酷な刑罰を科していたという面はあるのでしょうが、それにしても、この米英との差は大きすぎます。
ナチスの非人間的な行為に反発して脱走した兵士たちが戦後も社会的に抹殺されていた一方で、彼らを裁き、他国よりも圧倒的に重い刑罰を科していた軍司法官の多くが、戦後のドイツ社会でも栄達を重ね、重要な地位を占めていったことも描かれているのです。
しかも、軍司法官たちは、脱走兵たちに苛酷な判決をくだしておきながら(なかには、微罪や、実質的に戦争が終わったあとなのに処刑された兵士たちもいます)、長年、「ドイツの軍司法官は、戦争中もナチスの圧力に屈せず、法と良心に従ってきた」という偽の軍司法官像を主張し続けてきたのです。
世論も、「国や仲間を裏切った脱走兵」たちには冷淡で、脱走兵だと知られると仕事を失ったり、地域でつまはじきにされたりしていたのです。
身内に「国や同胞のために戦死した人」がいれば、脱走兵に寛容になれないのも理解はできます。戦争の記憶が生々しい時代であれば、なおさらでしょう。
ドイツは、「あの戦争」への反省を繰り返しながらも、東西冷戦下での国内の政治を担ったのは、「あの戦争でナチスに(積極的・消極的という温度差はあるとしても)従った人たちでした。あの時代は、ほとんどのドイツ人が、ナチスを支持していたのだから。
結局、「あの戦争で何が行われたのか」が客観的に検証されるようになるには、あの時代の人々が退場していく、半世紀近い時間が必要だったのです。
政府与党提出の法案「ナチス不当判決破棄法に関する改正法案」に対して、2002年に4月に行われた公聴会でのバウマンさんの発言です。
彼は語った。クルト・オルデンブルクとの脱走による死刑判決に始まる拷問や軍事懲罰収容所の苦痛や戦後の苦しみ、これと対照的な軍司法官の戦後の栄達のこと、脱走兵の90パーセント以上が前線ではなく、帰郷時や傷病休暇中に残虐と殺戮の世界に戻ることを拒否して逃亡したこと、さらに重要なのは前線が防御されているかぎり背後で無辜の人々が殺戮されつづけたこと、大量のドイツ人兵士がヒトラーの戦争を拒否していたら、数百万の人間、市民、兵士が死ぬ必要もなかったこと、こうした事柄を真剣に議論してほしい、と。これを言い換えると、伝統的な「服従崇拝」(ヤン・コルテ)が最悪の悲惨な事態を生んだことに思いをめぐらせよということである。
さらに彼は話をすすめ、「戦時反逆」の破棄を求めた。それを彼はわかりやすい問いのかたちで表現した。「いったいナチス国家が企てた絶滅戦争にあって、この戦争に反逆することを有罪だと宣告する意義はあるのだろうか」。彼の問いは本来、ナチス不当判決の一括破棄のロジックからすれば、出されて当然の問いではあった。だが公聴会では問題提起に終わっている。
「道義的、人道的に正しくない法には従う必要はない」のか、「それでも法は法」なのか?
人類の歴史において、これは、長年結論が出ていない「問い」なのです。
そもそも、あの戦争でナチスが勝っていたら、「正しさ」の定義そのものが変わっていたかもしれません。
人間の「勇気」や「正しさ」、そして、「許す」「理解する」ことについて考えさせられる本だと思います。
正直、僕はこれを読み終えても、「やっぱり、脱走が正しいと言い切る自信はない」のです。
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- 作者:ヴィクトール・E・フランクル
- 発売日: 2014/11/07
- メディア: Kindle版