琥珀色の戯言

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【読書感想】内田さんに聞いてみた 「正しいオヤジ」になる方法 ☆☆☆☆


内容紹介
内田樹さんと元吉本興業常務、木村政雄さんによる「オヤジ論」。かつて存在した「オヤジ」はどこへ行ってしまったのか。なぜ日本ではオヤジの存在感がなくなってしまったのか。オヤジというキーワードから見る日本論、そして今からでも間に合う「オヤジの処し方」。「正しいオヤジ」生活を享受するためにすべきことを2人が徹底議論します。30代、40代は必読の一冊。

「オヤジ」無き時代に、「中高年男性」は、どう生きればいいのか?
そもそも、「オヤジ」とは何だったのか?


「まえがき」で、木村政雄さんは、「オヤジ」の定義について、こう仰っています。

 ところで、「オヤジ」って、いったい何歳からのことを言うのだろう?
 少し旧いが、2004年の新成人に聞くと、「オジサン」(ここはアンケートだから丁寧にさん付けで聞いているが)は何歳からのことを言う?」という問いかけに対して、「40歳から」と答えた若者が多かったそうだ。ある化粧品メーカーの調査でも、加齢臭の原因といわれる有機化合物が検出されるのもこの年代からであるらしい。どうやら、このあたりを「オヤジ」発生ゾーンと見て間違いはないようだ。

ああ、言われる前から覚悟していたつもりだったけど、僕も「オヤジ年代」になってしまっているわけで。
年齢って、子どもの頃に見上げていた時期と、自分がなってみてからの実感とは、こんなにかけ離れているものなのかと思い知らされるばかりです。
「加齢臭」か……うーん……


とはいえ、年を取らないで済ませるわけにはいかないので、その年齢なりに、どう生きていくかを、考えなければなりません。
木村さんによると、「『主観的に感じる幸福度』も40代後半から50代以降にかけて下がっていく」そうです。
もう夢を追いかけられる年齢でもないし、仕事でも「自分のピーク」はだいたいわかるし、子どもが大きくなってくると、家庭での自分の居場所もない、そんな時期になってくるわけですから、それも頷ける。

木村政雄年齢と幸福度の相関関係を日米で比較したデータがあるのですが、アメリカの場合は15歳から79歳までずっと右肩上がり。ところが日本は間逆で15歳からずっと下がっていく。アメリカが何でも優れているわけではないですが、こればかりはアメリカのように右肩上がりではなくてもせめて落ちないようにはしたいもんですよね。日本人の平均年齢って戦後若かったでしょ。昭和30年で27歳くらい。それが今は45歳くらいになった。昔は定年が55歳でしたから、若いうちから60歳以降のことなんて考えなくても良かったのでしょうね。
 ちなみに『サザエさん』の波平さんは54歳。あれで定年の一年前ですよ。当時は55歳が定年でしたからね。


内田樹そうなんですよね。少し前に『サザエさん』を読み返したら、酔っぱらった波平さんが交番に連れて行かれて、警官に「磯野波平、54歳」と言ったときは、すごくショックでしたよ。俺より若いじゃん(笑)。


木村:確かに、波平さんが西城秀樹さん(57)より若かったり、フネさん(48)が黒木瞳さん(52)より若いって驚きますよね。これほど若い年寄りが増えた時代ってないでしょう。人類初めての経験ですよね。

 少なくとも『サザエさん』がリアルタイムで連載されていた時代には、波平さんが55歳であることにそんなに違和感はなかったんですよね……
 僕はこれを読んで驚いたのですけど。波平さんは『おじいちゃん』にしか見えなかったから……


 フネさんがワカメちゃんの母親であることに「高齢出産すぎるんじゃないか?」と疑問だったのですが、逆に、いまの時代であれば40歳くらいで子どもを産む女性は珍しくもありません。
 僕は仕事柄、それなりに年を重ねた人と会う機会が多いのですが、60歳くらいの人って、全く「老人」って感じがしないんですよ。
 そういう意味では「超高齢化社会」の一方で、「高齢者の線引き」そのものを見直したほうがいいのかな、とも思うのです。


おふたりは「老いる訓練」の重要性を説いておられます。
実際に60歳になってから、あれをやろう、これをやろうと思っても難しい。趣味だって、面白くなりはじめるのに10年くらいかかるのだから、と。


あと、橋下大阪市長批判も、例のごとく。
僕は橋下さんを支持しているわけじゃありませんが、内田先生は、こうして事あるごとに橋下さんを槍玉にあげなくてもいいのではないか、とは最近思うことが多いのです。
「時代の象徴的な人物」であり「わかりやすい具体例」だからなのかもしれませんが……


この本のなかで印象的だったのは、おふたりが、「団塊世代と若い世代の対立」の先に「もうひとつ若い世代の変化」を語っていたところでした。

内田:我々のような中高年の世代がいて、その下にB層(引用者註:ここでは「構造改革に肯定的で、かつIQの低いひとたち、マスコミの報道に流されやすい人たち」と定義されています)を含む巨大な層があって、さらにその下に、もっと若い人たちがいます。これまではずっと我々の世代と若い世代は対立関係で語られてきた。
 別に対立していたとは思わないんですけれど、ロストジェネレーション論とか、非正規雇用年金問題になると、必ず「既得権益を独占する団塊世代」と「その割を食っている若者たち」という図式が持ち出されて説明されてきた。僕はこの図式はいくらなんでも単純すぎて、使い物にならないと思っていたんんですけれど、ありがたいことにようやくその下に新しい世代が出現してきた。この人たちは彼らの直近の世代である今35歳から45歳くらいの人たちとは肌合いが違います。
 言ってみれば、僕らの下の世代は、僕たちとの違いを際立たせるという戦略上の必要性があってか、必要以上に「子供っぽい」んですよ。若作りするというのではなく、いい年をして「少年ジャンプ」読んでいたり、アニメの話を夢中でするとか。「お前らみたいな大人になんかならないぜ」という態度を誇示するところがあった。でも、その下の世代には、もうそういう「子供ぶり」が見られないんです。むしろ、彼らのすぐ上の世代の「若作り」に対して膨満感があるのか、ある意味ずっと青年らしい。「青年」という社会集団が出てきたのって、久しぶりな気がするんです。

内田:それに青年たちは、先行世代よりもっとリアルなものを欲しているようです。スティーブ・ジョブズマーク・ザッカーバーグを神様みたいに仰いでいるのは、もうちょっと上のアラフォー世代までで、下の世代はそうでもない。子供の頃からずっと身近にパソコンがあるので、「インターネットで世界が変わる」という言い方をしないんです。
 彼らにとってパソコンはクマのぬいぐるみと同じで、ずっと手元にあるものだから。コンピュータがなかった世界とコンピュータがある世界の間に劇的な段差があるんだ、という言葉づかいそのものがぴんと来ない。このコンピュータについての世代間の認識の落差はけっこう大きいと思いますよ。


木村:ある意味、頼もしい、託せる人たちが出てきたということですね。

「アラフォー世代」の僕としては、この「もうひとつ若い世代への評価」には、頷けるところもあるし、その一方で、「団塊世代」に対して、「敵の敵は味方」かよ!と食ってかかりたい気分にもなるのです。
ただ、ある種の「揺り戻し」みたいなものが、いまの20歳くらいの世代にはあるのは、わかるような気がするんですよね。
インターネットや携帯電話が、物心ついたときからあった世代は、それを「特別な道具」だとは思わない。
「ネットとリアルの境界」なんて、あまり気にしないというか、「ネットもリアルの一部でしかない」。
ただ、少なくとも僕が実際に接してきた20代半ばくらいの世代については、「世の中の枠組みは、どうせ変わらないのだから、自分がその中でどうやって生きていくかを考えていくしかない」という悲壮感を感じることも多いのです。
もう、誰かの責任にしても仕方がないということを、直上の世代をみて悟ってしまった、とでも言うべきか……


団塊組」が、彼らを「見所のある『青年』たちだ」と言っても良いのだろうか……


まあ、そんな違和感を抱えつつも、「団塊世代のスター」であるお二人の対談は、なかなか興味深いものではありました。
なれるものなら、お二人のような「オヤジ」になりたいものです。


最後に、内田先生による「大人の定義」を御紹介しておきます。

 大人というのは、一言で言えば、「いろいろな人間と一緒に生きていける人間」のことですね。共生能力のある人。集団の中にあって、お互いに仲良くして、なるべく脱落者や犠牲者を出さないようにあれこれ工夫しながら、何とか集団ごと生き延びていくように知恵を働かせることのできる人。それが大人でしょうか。

ああ、たしかにこういう「大人」は、絶滅危惧種かもしれないなあ。

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