紙の新書は、1990年8月発売。
- 作者: 江村洋
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1990/08/10
- メディア: 新書
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こちらはKindle版。2013年5月に出たばかりです。
- 作者: 江村洋
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2013/05/17
- メディア: Kindle版
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内容紹介
キリスト教が心なら、ハプスブルク家は背骨である。ヨーロッパの「宗家」ハプスブルク家の盛衰。王家の中の王家、超国家的な支配原理で陽の沈まない帝国を築いたハプスブルク家。カール5世、マリア・テレジア等の闘争と政略の700年を通しヨーロッパを考える。(講談社現代新書)
Kindleで読む本を物色していて発見。
新書が出たのは、なんと今から20年以上前の1990年。僕がまだ10代の頃だったんですね。
もしかしたら、どこかで一度読んでいたかもしれない……なんて思いつつ、Amazonのレビューの高評価もあって購入しました。
歴史に関する本でも、20年くらい前だと、まったく解釈が変わっていたりすることもあるので、ちょっと心配だったりもしたのですが、この本については、「東欧諸国の現在」が1990年までで止まっていることを除けば、「古さ」はほとんど感じませんでした。
もっとも、僕はハプスブルク家に関する予備知識が乏しいので、歴史通にとっては「いまの解釈は違う」というところもあるかもしれませんが。
僕にとって、最近もっとも印象に残っている「ハプスブルク家」は、2012年9月に『カンブリア宮殿』で、司会の村上龍さんが村上隆さんがフィギュアの名門・海洋堂を「オタクのハプスブルク家」と評したことでした。
高校時代、世界史選択だった人ならば、「〜家」として、「ハプルブルク家」と「メディチ家」くらいは、なんとか記憶に引っかかっているのではないかと思います。
僕もせいぜいその程度で、もうひとつ!と問われたら、「吉野家」とか答えてしまいそう。
まあ、そんな与太話はさておき、この「ハプルブルク家」といえば、「政略結婚でヨーロッパを支配した名門貴族」として有名なのですが、著者は、その創成期から、「実質的な最後の皇帝」である、フランツ・ヨーゼフ帝までの歴史を、さまざまなエピソードを交じえながら語っていきます。
この新書、教科書としてだけでなく、歴史物語としてもかなり優れていて、これまで「名門」「謀略家」的なイメージしかなかったハプルブルク家の人々の「顔」がみえてくるんですよ、読んでいると。
西洋史全体の動向において、ローマ教皇庁とならんでただ一つの王朝だけが、汎ヨーロッパ的な性格と重要性を常に失うことがなかった。ハプスブルク王朝である。
この王朝はほぼ13世紀から今世紀初頭までの約700年間にわたって、ヨーロッパの政局にも文化の進展にも、絶えず関わり続けてきた。しかもその影響範囲は、中欧のオーストラリアばかりではなく、ポルトガルからポーランドまで、ドイツからイタリアそしてバルカン南部までと、ヨーロッパの全領域に及んだ。その国家には実にさまざまな民族が含まれていた。いわばゆるいヨーロッパ共同体あるいは国家連合として機能していた時代もあった。
このような意味において、ハプスブルク家は汎ヨーロッパ的だった。このような性格をもった王朝は、ハプルブルク以外には存在しない。少なくともこの王朝は、700年余の永きにわたって子々孫々、脈々と君主の地位を継承し続けてきたのである。
ハプスブルクの名が初めて歴史に刻まれるのは11世紀ころである。といってもそれは、起源をたどればということで、実質的には1273年に、この王朝の始祖とされるルードルフ一世が、神聖ローマ帝国の王位に即いて以後というのが妥当であろう。
このルードルフ一世が、神聖ローマ皇帝に選ばれたときの状況を、著者はこんなふうに述べています。
彼に白羽の矢が立ったのは、この男ならば他の君主たちよりも才能の恵まれ、懐具合も豊かで、皇帝にふさわしいと見なされたためでは決してなかった。事実はその逆だった。ハプルブルクのルードルフだったら、ボヘミア王やバイエルン公などと違って、所領はライン上流のわずかな地域にすぎず、財政潤沢というにはほど遠い。また君主の器でもない、と解釈されたにすぎなかった。
このときハプスブルク家の惣領が選ばれたのは、その当事者自身でさえが寝耳に水といった感じで受け止めたほど、意外なことだった。その何よりの証左は、帝国の使者が、当時バーゼルの町を包囲していたルードルフのもとに選挙結果を告げにきたとき、彼が使者にいった次の言葉である。
「ひとを馬鹿にするにもほどがある。そのような戯れ言をおっしゃるものではない」
著者は、「この言葉が事実かどうかは眉唾物」だと書いておられますが、「そういう伝説が生まれてもおかしくないくらいの(小さな)存在」だったということは言えそうです。
当時の神聖ローマ帝国の王(ローマ教皇に帝冠を授与されると皇帝)は、3人の聖職者と4人の世俗君主からなる、合計7人の「選帝候」によって選ばれていました。
この7人にとっては、あまり強力な王を戴くことはかえって自分の勢力を削ぐことにもつながるので、「無害な」小領主のルードルフ一世をまつりあげることになったのです。
ここから、ヨーロッパ最大の名門の飛躍がスタートするのですから、歴史というのは、面白いものですね。
ハプスブルクは、さまざまなキャラクターの人物を輩出しながら、混沌とした中世〜近代ヨーロッパを生き抜いていきます。
フリードリヒ三世はたしかに勇敢でもなければ、才知に富んでいたわけでもなかった。親から受け継いだ資産に恵まれているわけでもなかった。彼が生きる上での武器としたもの――それは忍耐力だった。それほどみじめな思いをしてもじっと耐え忍ぶこと。いかなる恥辱を受けてもひたすら我慢して、時が至るまで待つこと。
半世紀という在位期間中に、彼の前にはとても太刀打ちできそうにない強敵が何人もあらわれた。フリードリヒ一家をウィーンの王宮に幽閉した乱暴者の弟アルプレヒト。フリードリヒをウィーンから追放し、オーストリアのかなりの部分を占拠したハンガリー王マーチャーシュ。自分をローマ王に推挙せよと迫ったブルゴーニュのシャルル突進公。給金を支払えと強要した傭兵隊長たち。
名をあげれば限りのないほどの敵や武将に威圧されながらも、フリードリヒはその度ごとに口実をもうけ、あるいは姿をくらまし、あるいは逃亡したりして相手が去るのを待った。すると彼らは鰻のように掴まえようのない王に業をにやして、彼の前からしりぞいたり、死去したりした。辛抱した者が最後に勝ったわけである。
また、マリア・テレジアに関しては、こんなエピソードを紹介しています。
女帝は国家再建のために多方面で大鉈を振るったので、当初のうちは、民衆の間で評判は必ずしもよくなかった。ある日のこと、建設後まもないシェーンブルン宮殿の城壁に、怪しからぬ落書きがされているとの報告が衛兵から伝えられた。
「あんたは女帝などと偉ぶっているが、どうせ俺たち皆と同じさ――いずれお陀仏だよ」
それを聞いたテレジアは、しばらく頭をめぐらせてから、その衛兵に指示した。
「ではその落書に並べておきなさい。『私だって他の人と変わりのない女よ。ただ両親選びをちょっとうまくやっただけ』」
世界史上は、プロイセンのフリードリヒ2世とのライバル関係や「啓蒙君主」のカテゴリーで語られることが多いマリア・テレジアなのですが、この新書のなかでは、帝国民に愛された、気さくな姿が紹介されているのです。
著者は、ハプスブルク家の君主たちの「特徴」をこう述べています。
後の17世紀に新教徒と旧教徒が血で血を洗う凄惨な殺戮をくり返していた宗教戦争の時代でさえ、この一家の君主たちは、たしかに例外はあるとはいえ、おおむね温和で、温情を施し、人を処刑したりすることは好まなかった。
こうした温情主義は、時として相手につけいる隙を与える元ともなり、弱肉強食の時代には身を滅ぼすことにもなりかねない。君主たる者は一度与えた約束を軽々と破ってはならないとするカール五世の新年は、マキアヴェリの『君主論』の精神からいえば笑止千万で、君主の取る道ではない。カールの同時代人フランソワ一世、ヘンリー八世、レオ10世などはマキアヴェリ精神に則って、しばしば前言をひるがえしたり、信義にもとる行為に走っても恬として恥じることがなかった。それによって国益が得られればよいのである。
だがハプスブルク家では、馬鹿正直なほどに約束を守ることが伝統的だった。カールの祖父マクシミリアン帝など典型的な例だが、誓約を結んだ同盟は必ず遵守するというのが、同家の君主たちに共通した特徴といえる。それははるか後代のマリア・テレジア女帝やフランツ・ヨーゼフ帝に至っても変わることがない。その結果、彼らはおうおうにして<お人よし>のレッテルをはられ、時として他の王候らの笑い者になる。それにもかかわらずハプスブルク家では、約束を反故にするのは矜持が許さないとばかりに、他国との信義を誠実に守るのが常だった。その結果としてこの権門は他のいかなる王朝にもまして長続きしたわけだから、<正直者に幸あり>ということにもなるだろうか。
歴史上のひとつひとつの事例では、ハプスブルクの君主たちは、けっこう騙されたり、出し抜かれたりしています。
しかしながら、一族全体の繁栄の長さは、「マキアヴェリズム」を実践した他家の君主をはるかに凌駕したんですよね。
さまざまな「生き残り戦略」のなかで、「信義」を重んじたハプスブルク家が結果的に勝利したのは、とても興味深いことだと思うのです。
20年以上前に書かれた新書ですが、ずっと読み継がれてきたのには理由があるんだな、と納得させられる、優れた「短時間で歴史の面白さを再確認できる一冊」ですよ。