琥珀色の戯言

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【読書感想】四大公害病 - 水俣病、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市公害 ☆☆☆☆



Kindle版もあります。

内容(「BOOK」データベースより)
四大公害病とは、水俣病新潟水俣病イタイイタイ病四日市公害を指す。工場廃液などが痙攣、激痛、発作といった重い障害を多くの人にもたらした。当初、企業は工場との関係を否定。だが医師・研究者らが原因を究明し、1960年代末以降、患者が各地で提訴。70年代半ばまでに次々と勝利した。本書は高度成長の「影」である公害病の全貌を明らかにすると同時に、21世紀の今なお続く“認定”をめぐる国と被害者との訴訟・齟齬も追う。


 1970年代前半生まれの僕は、この「四大公害病」を社会の時間に習って、「昔の、高度成長期の日本では、ひどいことが行われていたんだなあ」と憤った記憶があります。
 今回、この新書で、これらの公害病が「ある地域にみられる風土病」のような認識から、さまざまな人の力で、地元の工場の排水や煤煙との関連が指摘され、「公害病」として認定されるまでの経緯を再確認したのです。
 そこで僕が痛感したのは、「公害病」そのものの怖さと同時に「集団とか、組織とかに属し、その『組織の論理』に流されてしまうことの怖さ」だったのです。

水俣病」は、熊本県水俣湾を中心とした不知火海八代海)沿岸で魚介類を食べる人びとに発症した。症状は、死亡、麻痺、痙攣といった急性劇症から、知覚障害、視野狭窄、聴力障害、手足の感覚障害までさまざまある。「原因不明」のままその発症が水俣保健所に報告されたのは1956(昭和31)5月1日。チッソ水俣工場の付属病院に、手足がしびれ、口がきけず、食事ができない少女が連れて来られたのがきっかけである。原因はチッソ水俣工場が水俣湾に排出した「メチル水銀化合物」だった。

 のちに出た結論では、「原因はチッソ水俣工場が排出した『メチル水銀化合物』だった」のですが、そう認定されるまでには、長い時間がかかりました。


 熊本大学の研究者たちが「有機水銀が原因である可能性」を発表したのは、1959年のことでした。
 ところが、ここから原因究明は迷走していきます。
(以下、池上彰著『この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」』からの引用です)

 これに対してチッソは「工場で使用しているのは無機水銀であり、有機水銀は使っていない」と反論します。
 また、「日本化学工業協会」は、「戦時中、水俣市にあった海軍の弾薬庫の爆弾が、敗戦時に水俣湾に捨てられた。その弾薬が溶け出して水俣病を起こした」という説を主張します。
 厚生省(現・厚労省)の水俣食中毒部会は、熊本県衛生部と共に、敗戦時に水俣湾内に遺棄されたと見られる旧軍需物資について現地調査を行います。その結果、爆薬投棄の事実はないことが明らかになります。
 しかし、爆薬説を否定するためには、爆薬が遺棄された事実はないことをわざわざ実証しなければなりませんでした。それだけ対策が遅れたのです。
 さらに、当時の東京工業大学のある教授は、日本各地の魚介類が含有する水銀濃度と水俣湾の魚介類の水銀濃度を比較し、水俣のものより高い例もあるがそこでは奇病は発生していない(だから水銀が原因ではない)と報告します。
 代わりに「アミン説」を提唱します。「水俣湾の貝肉を繰り返し消化酵素で分解し、得られた液を実験動物に注射すると水俣病のような症状を起こして死ぬ」というものでした。


 要するに腐った液を動物に注射してみるという実験でした。医学的な知識などなくても、実験動物が死ぬことも、また水俣病とは全く関係がないこともわかるレベルのものでしたが、「東工大の教授が提唱」というだけで社会的影響力が大きく、原因究明は遅れたのです。「東工大」というブランドネームが悪用されることがあるのだということを、東工大の学生の君たちには知っておいてほしいのです。
 結局、「チッソの廃水が原因」との政府見解が確定するのは1968年になってからのことでした。


 のちに発見された資料で、チッソ側も、動物実験などで、有機水銀中毒の可能性が高いことや、工場の廃液と関連がありそうなことについて、知っていたことがわかっています。
 ところが、彼らは、情報を隠蔽したり、一部の被害者に「責任を追求しないことを条件に」救済を申し出たりして、さらに被害を大きくしてしまうのです。

 厚生省に汚染源として名指しをされてから二ヵ月が経った1958年9月、チッソは工場の排水口を外部の者には知らせずに変更する。水俣湾に注ぐ百間排水口から、湾の外に向かって流れ出る水俣川河口にである。河口左岸の「八幡プール」と呼ばれる場所に、アセトアルデヒド製造後の廃液を捨てると、カーバイド残渣が残り、排水が川へと染み出る仕組みである。結果的に、染み出した水に含まれていた汚染物が、川の流れとともに不知火海全体へと拡がった。

 密かに状況を改善しようとして、思いつきでこんなことをやってしまったがために、かえって、被害は拡大していきました。


 でも、彼らのそういった行為は「100%の悪意から」ではなかったのです。

 チッソは戦後、1950年に「新日本窒素肥料株式会社」を設立、60年代までに、当時の水俣市の人口約5万人に対し、チッソおよび関連下請け工場の従業員は約5000人に及んだ。一世帯が5人と計算すれば市民の半分がチッソ関係者であり、水俣市は「チッソ城下町」と呼ばれる。1965年「チッソ」に改称。その間、アセトアルデヒド生産量では業界トップを走り続けた。


 水俣の人びとにとっては、チッソは「日々の糧を与えてくれる、大切な存在」でもあったのです。
 チッソが潰れれば、水俣も潰れる、そんな気持ちもあったのでしょう。
 いまの時代の感覚からすれば、「反社会的な行為を行う企業に、そこまで忠誠を尽くす必要があるのか?」と思うのですが……
 

 患者は次々と現れ、自宅でも病院でも、「劇症型」と言われる激しい症状を呈して死んでいくようになる。水俣市水俣病資料館は、処置なく苦しんだ患者家族たちの声を水俣病詩集『戻らぬ命』で次のように記録している。

 全身にケイレンがあり、手足をばたつかせ、ベッドに取り押さえるにはまるで格闘でした。孫を大きな腕で抱こうとし、歯をむき出して「ウッ、ウワァ」と叫んでいました。


 狂死。昼夜の区別なく、約1分間隔で顔をゆがめ、叫び、一方では全身が意思とは逆に激しく動きまわっていました。最初に手足のしびれを感じてからわずか52日目のこと……。のたうちまわりながら亡くなりました。


 夫は部屋の板壁を突き破り、手足を血だらけにして死にました。その9日後に娘が生まれ「父ちゃんの分まで生きてくれ」と語りかけましたが、そのかいもなく二歳の時に亡くなりました。


 大切な人が、こんなふうに亡くなっていくのを目の当たりにしながら、多くの人は「チッソへの忠誠心」と葛藤していたのです。
 そして、「チッソ側の論理」を、多くの人が代弁してもいたのです。

 未申請の患者問題も存在することは、水俣市水俣病資料館で坂本直充館長(当時)の話を聞いて実感した。坂本館長を初めてお見かけしたとき、水俣病患者が館長として抜擢されたのだと勘違いをした。しかし、坂本さんは子どもの頃に小児麻痺と診断されたきり、水俣病である可能性を考えつつも、一度も検診を受けたことがないという。 「父がチッソ社員だったので」検診を受けることを控えたまま59歳になったという。同じく父親チッソで働いていた永本賢二さんによれば、賢二さんの認定申請を行った彼の父はチッソの同僚からなぜ申請などするのかと暴行を受けて帰宅したことがあったという。本書で記した「未認定患者」とともに、申請自体が抑制された「未申請」問題も潜在している。


 自分自身やその家族も「水俣病」に罹患したかもしれない人が、なぜ、被害者ではなくて、会社の味方をするのか?と僕は思います。
 でも、自分自身がその「当事者」にならなければ、「会社が潰れるほうが一大事」だと考える人もいる。
 いや、そういう「常識」がまかり通ってしまう世界ができてしまうのです。
 裁判でも、最初の頃は「チッソに不利な証言をしたら、水俣に住めなくなってしまう」と、証言を拒否する人が多かったそうです。


 被害者への補償も、「無い袖は振れない」という状態ではあります。
 この新書によると、「四日市ぜんそく」に関しては、公健法制定以来、2012年度までに原因企業らが負担した補償給付費の合計は大気汚染を対象とする指定地域だけでも2.7兆円を越えたそうです。
「会社が潰れたら、誰が補償してくれるのだ?」と考える人もいるでしょう。


 水俣病患者家庭互助会の中津会長は、司法に訴えた新潟水俣病患者を前に、こんな挨拶をされたそうです。

 私たちが第一回目の患者なのだから、あくまでも頑張って、命をかけて闘っていたら、新潟のあなた方を第二の水俣病患者にさせて苦しませなくてもよかった。12年前のあの頃は、世間も公害に関心がなく、チッソあっての水俣市だったため、患者以外の市民・労働者はすべて私たちの敵でした。(中略)泣く泣くわずかな見舞金で手を打ったために、あなた方に大変な迷惑をかけました。申し訳ありませんでした。(「新潟水俣病現地見学会資料」)

 被害者が、他の被害者に謝る必要なんて、ないはずです。
 でも、当事者は、自分も被害者であるにもかかわらず、いや、その苦しみを知っているからこそ、こう言わずにはいられなかったのでしょう。
 人は、とりあえずいまの自分が無事ならば、「何が本当の敵なのか」を見失ってしまいがちです。
 それは、50年前も現在も、変わらないはず。


 「公害」は、けっして、過去の話ではありません。
 そして、日本だけの問題でもないのです。
 「四大公害病なんて、昔の話」だと思っている人にこそ、ぜひ読んでみていただきたい新書です。



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