参考リンク:今、Twitterやmixiで日常のこと書くと非国民扱いされることについて
僕もTwitterをやっているのですが、今回の地震が発生してから、タイムラインに流れてくる「つぶやき」の中には、「心底腹が立つ」ものも少なからず含まれていました。
それは、「ジョークのつもりなんだろうけど、あまりにも悪趣味なもの」とか「ひたすら不安を煽るだけの情報を脊髄反射的にリツイートしたもの」とか「日頃の自分に主義主張の正しさや政治的な意見をアピールするために、この災害を利用しているもの」など。
このようなつぶやきに対しては、タイムラインのなかでも小競り合いが起こっているのですが、「日常的なつぶやき」に対して「不謹慎」などという声はほとんどありません。
少なくとも、被災者のなかで、いまも避難所で厳しい状態に置かれている人からの、日常的なつぶやきに対する「不謹慎だからやめてくれ」という抗議は、リツイートされたものも含めてひとつも見たことがありません。
もっとも重大な被害を受けている人たちは、まだ、ネットを十分に使える環境にないのかもしれませんが。
「不謹慎」って何なんだろうなあ、と僕は思います。
そもそも、いろんな人が目にする機会があるネットの世界で、絶対的な「不謹慎の基準」が決められるのでしょうか?
子どもが生まれた話をすると、流産してしまった人は、悲しい気分になるかもしれない。
ネットで発言をすることには、つねに、そういう可能性が伴っているのです。
でも、僕は言わずにはいられない。黙っていることができたら、そのほうが良いはずなのだけれど。
これはもう、「業」みたいなものなのでしょう。
その一方で、「表現の自由」を錦の御旗にして、あえて他人を傷つけるようなことをこんな時に言いたがる人も、やっぱりどうかとは思うのですが。
こういうたとえ話は不適切なのかもしれませんが、ひとつの経験談として聞いていただければ助かります。
僕は医者なので、いろんな患者さん、そしてその御家族に接する機会があります。
そのなかには、癌で、痛みを抑える治療(緩和ケア)を続けている患者さんなど、長期入院を余議なくされている方もいらっしゃいます。
長期入院というのは、患者さん本人がつらいのはもちろんですが、ずっと付き添ったり、気にかけている家族にとってもつらいものです。
家族は、患者さんを心配するだけでなく、自分の生活への不安も生じてきます。
僕からみて、長い入院生活をうまく乗り切っている家族の共通点は、「うまく手を抜く(という言葉が不適切であれば、「がんばりすぎない」と言い換えます)こと」と、「厳しい状況でも、『楽しむこと』を忘れないこと」だと感じています。
ずっと病院に詰めていて、病人と向き合うというのは、けっしてラクなものではありません。
肉体的にも、精神的にも。
いくら、闘病しているのが、自分の大事な人でも、です。
あまりにキチンと、真面目に完璧に患者さんと向き合おうとしすぎる人の多くは、そんなに時間が経たないうちに「燃え尽きて」しまいがちです。
人が極限の状況に耐えられる期間は、そんなに長くありません。
どんなに強い人でも、せいぜい、1週間くらいのものでしょう。
「短い間でも、自分の時間をつくることができる人」や「冗談を言って笑いあえる人」「会話が途切れたら、無理に会話をせずに雑誌を読むくらいの距離を保てる人」のほうが、「長続き」するのです。
というか、そうじゃないと、1か月もベッドサイドに付き添うことなんて、まずできません。
ところが、もともと年に一度くらいしか遇わない、遠い親戚がやってくると、ずっとそばについていなければならない家族に「もっと真面目に患者本人と向き合わないとダメじゃないか」なんて言いがちなんですよね。
そういう言葉は、彼らなりの「善意」から来ているのでしょうが、付き添っている、あるいは、これからも付き添わなければならない家族にとっては、プレッシャーになり、罪悪感をあおるだけで、何のプラスにもなりません。
頑張りすぎて燃え尽きてしまったり、疲れ果ててしまって、かえって患者さんと距離を置かざるをえないようなことになりがちなのです。
あまりに「完璧」を追及しようとすると、人は、追い詰められてしまう。
そして、最終的には、「この人が病気なんかになるからだ」なんて考えてしまうことすらあるのです。
人間って、長い間ストレスにさらされ続けると、どんどん弱く、意地悪に、理不尽になってしまいがち。
僕も以前、長い間闘病していた母親の病室に、毎日通っていて、同じような経験をしたことがあります。
患者本人と家族は、けっこう「病状についての不謹慎なジョーク」で笑いあったりしているのだけれど、それは、現場にいる人間にとっての「ガス抜き」なんですよね。
少なくとも、あのときの僕たちには、ああいう「不謹慎さ」は有用でした。
もちろん、それを外部の人間に言われたら、本気で殴りかかっていたかもしれませんが。
被災者の方々には、しのびない気持ちはあるのだけれど、僕は、みんなが「それは不謹慎だ!」って言いあって、プレッシャーをかけあうような社会やネットは、危険なんじゃないかと思うんですよ。
あまりに厳格なルールをつくり、完璧を求めてしまうと、すぐに「息切れ」してしまいそうで。
「最初の3日間は患者さんにべったり張り付いていて、『もう疲れた』って、その後めったに顔も見せなくなるような家族」と、毎日30分でも1時間でも、いや、隔日でもいいから、コンスタントに最後まで患者さんに会いに来てくれる家族」と、どちらが患者さんにとってはありがたい存在でしょうか?
この地震との「闘病」は、まだ始まったばかりです。
いまは、生きている人を少しでもたくさん、助けなければなりません。
ただ、それは僕たちのような「後方支援部隊」の手の届かないところにある仕事です。
でも、そのあとにやってくる「復興」こそが、僕たち「家族」の大事な仕事なんですよ。
僕たちは、これから長い期間、被災した人たちに寄り添い続けなければなりません。
「家族側の身勝手」なのかもしれないけれど、僕が支援を続けるためには、やっぱり「日常」が必要なんです。
まあ、ネットでつぶやかずに心にしまっておけ、と言われるかもしれないけれど、ネットに書くのは、僕にとっては大切な「ガス抜き」なんです。
多くの「こんな雰囲気のなか、日常をつぶやいている人」も、そうなのだと思います。
僕は声高に誰かを叩いたり、不満をぶつけたりするのではなく、こうやって小さな「ガス抜き」をしながら、今回の災害や被災した人たちを少しずつ、そして気長に支え続けていくつもりです。
「不謹慎」だと後ろ指をさされても、僕にとっては、それが「自分にできる、最良の方法」だから。
長くなってしまいましたが、僕は、自分もそういう看病を経験してみて、「ずっと患者さんに寄り添っている家族って、本当にすごい」と思うようになりました。
「停電くらいで文句言うな、被害の中心にいる人たちの苦しみは、そんなもんじゃない!」って言うのは、誰も幸せにしません。
「被害の中心にいる人たちのために、停電という『ちょっと大変なこと』に耐えること」も、けっこうすごいことなんだよ。
お互いの足りないところを責めるのではなく、お互いの頑張りを褒め合って。
そして、持っているものを少しずつ分け合って、自分にできることを、あせらず、気長に。
僕のTwitterはこちらです。
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