琥珀色の戯言

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【読書感想】ニュースの深き欲望 ☆☆☆☆

ニュースの深き欲望 (朝日新書)

ニュースの深き欲望 (朝日新書)


Kindle版もあります。

ニュースの深き欲望 (朝日新書)

ニュースの深き欲望 (朝日新書)

内容紹介
ニュースとはなにか。そもそも情報とはなんだろうか。
〈真実と偽り〉〈正義と悪〉の二項対立を超え、
その狭間の無限の事象をとことん見つめて発信を続ける著者自らの証言。
「どれが嘘でどれが真実かなどと議論しても意味がない。
フェイクを分別しようとの意識は大切だが、
情報とはそもそもが視点によってくるくる変わるとの意識を常に持つべきだ」。
オウム真理教、3.11、死刑、〈FAKE〉、常にタブーに身を照らし、
「世界はグレイゾーンで成り立っている」と唱える数々の挑戦の記録。
ラストの著者の言葉にひとつの答えが導かれる、ポスト・トゥルース時代必携の書!


 ドキュメンタリー監督、ノンフィクション作家の森達也さんの著書。
 森さんは、オウム真理教を取材したドキュメンタリー映画『A』で論議を巻き起こしました。

 1998年、監督第一作である映画『A』を僕は発表した。でもこの作品は、映画にすることを前提にして撮り始めた作品ではない。なぜなら当時の僕は番組制作会社に所属するテレビ・ディレクターだ。テレビでオンエアされることを前提にした作品だった。ところが撮り始めた直後の1996年3月、撮影素材の一部を見た制作会社と放送を予定していたフジテレビの上層部から撮影中止を命じられ、結果として(いろいろあったけれどここでは省略する)この指示に従わなかったために、僕は会社から解雇された。その後は一人で撮影を続けながら、テレビ各局のプロデューサーやディレクターを知っているかぎり尋ね歩いた。地下鉄サリン事件発生からは一年が過ぎていたが、オウムはまだまだメディアにおいてはキラーコンテンツだったし、施設内で自由に撮影ができる僕のポジションは、少なくともテレビ業界では他にいなかったはずだ。意義ある作品になるはずだとの自信があった。ところが撮影素材の一部を見せたプロデューサーやディレクターたちからは、これはテレビでは放送は無理だよと制作協力は拒絶された。
 テレビで放送できないと彼らが考えた理由は何か。当時の僕にはよくわからなかった。でも今ならわかる。観客から映画の感想を何度も聞いているからだ。多くの人は映画を観た後に、「オウムの信者があれほど普通だと思わなかった」とまず口にする(あなたがもし『A』か『A2』を観てくれているのなら、きっと同じ感想を持つはずだ)。要するに彼らは、オウムの信者を普通ではない人たちだとそれまで思っていたということだ。
 なぜそう思っていたのか。理由は単純だ。当時のメディアがオウムを伝えるときのレトリックは、
「邪悪で狂暴な集団」
「麻原に洗脳されて感情や判断力を失った危険な集団」
 この二つにほぼ限定されていた。この二つのレトリックはどちらも、「彼らは自分たちとは違う存在である」ことを共通して強調する。これは社会の願望であると言い換えてもいい。メディアは社会の願望に抗わない。むしろ煽る。なぜならそのほうが視聴率や部数が上昇するからだ。でも僕らのカメラの前で信者たちは、普通以上に普通だった。普通という言葉の定義は実は簡単ではないが、僕よりもはるかに善良で優しくて純粋だった。しかしメディアがそれを伝えることはほとんどない。狂暴で残虐、冷血で危険な存在であることを煽り続ける。本来ならば、これほど普通な彼らがなぜあれほど異常で残虐な事件を起こしたのかを、社会は考えるべきだった。煩悶すべきだった。でも結果として社会とメディアはその煩悶を拒絶した。彼らが普通の人たちであることを認めれば、自分と彼らとの差異が消失してしまう。それは困る。


 マスメディアには「あんな凶悪事件を起こした連中は、残虐な狂信者であるはずだ」という前提があったのです。
 そういうふうに伝えるのが、多くの視聴者が期待していたことでもありました。
 「普通の人」も、何かのきっかけがあれば、地下鉄サリン事件を起こしていてもおかしくなかった、というのは、自分を「普通の人」だと思っている側からすれば、受け入れがたいですよね。
 あいつらもお前も同じだ、と言われたら、「同じにするな!」と言い返したくもなる。
 森さんに対しては、映画を観ることもなく「オウムの宣伝に加担する、オウムの手先」というような批判も少なからずあったようです。


 この話を読むと、ホロコーストに関与したアドルフ・アイヒマンを「凡庸な悪」と評した、ユダヤ人哲学者、ハンナ・アーレントを思い出します。
 ハンナ・アーレントも、この言葉により、同胞のユダヤ人社会から大バッシングを受けたのです。


 森さんが撮った映画『FAKE』は、聴覚の障害を持ち、「現代のベートーベン」とまで賞賛された作曲家・佐村河内守さんを取材したものなのですが、観れば観るほど、「で、本当は聞こえていたの? 曲は自分で作れたの?」と、よくわからなくなってくる作品なんですよ。
 森さんというのは、わからないものを、わからないまま映像にするのはすごく上手い人だと思います。僕は大好きなのですが、もどかしいとか、すっきりしない、と感じる人がいるのもわかります。


 森さんは、オランダの映画祭に参加した際、周囲の強いすすめもあって、ボイマンス・ヴァン・ベーニンゲン美術館を訪れたそうです。

 映画祭スタッフがこの美術館を僕に勧めたもう一つの理由は、20世紀最高の贋作者と呼ばれるハン・アファン・メーへレンの代表作『エマオの食事(The Supper at Emmaus)』が展示されているからだ。
 オランダのオーファーアイセル州で生れたメーへレンは、画家を志すが挫折し、自分を認めない美術界への復讐として贋作を始めたと言われている。その最大の特徴は、単なる模写にとどまらず、作者になりきって描いたことだ。『エマオの食事』は、メーへレンのオリジナル作品だ。ただし彼は、この絵を「フェルメールの未発見絵画」として公開し、研究者や鑑定士たちもこれを認め、オランダ国立美術館が高額で購入した。
 いわば20世紀最大のFAKE。でもホンモノにそっくりとか精巧な贋作などのレベルではない。実際に絵を見て多くの人が感動するのだ。偽であり真でもある。


 このメーヘレンさんの贋作の話を読みながら、僕は考えていたのです。
 僕は美術館で、絵そのものに感動しているのか、それとも、その絵が有名な画家誰それの作品だとか、オークションでものすごい値段がついたとか、わざわざ海を渡ってここまで観にきたという自分の努力に感心しているのか、よくわからないと思うことがあるのです。
 美術館で、有名な作品の「複製」がなんらかの事情で展示されていることがあります(たとえば、会期のうち、展示品が入れ替わる美術展で、一部の作品の本物は会期の半分の期間しか借りられなかったので、残りの期間は複製をそれと明示して展示しておく、というような場合)。


 これ、「模写」と書いていなくても、僕に真贋を見分けられるだろうか?


 ……まあ、無理だろうな。


 自分で見分けることもできないのであれば、本物にこだわる必要なんて、ないのかもしれませんよね。


 森さんは、自らの経験も踏まえて、こう書いておられます。

 公平中立とは何か。客観的な情報は存在するのか。テレビニュースを例に挙げて、この命題について考える。用事がトラックに轢かれた交通事故を伝えるニュース番組があったとする。短いストレートニュースだ。ここに主観など表われようがない。そう思うのなら大間違いだ。路上に供えられた花から抜けるような青空にティルト・アップ(縦移動)するのか、あるいは猛スピードで疾走するトラックから路上に供えられた花へパン(横移動)するのかで、受ける印象はまったく違う。
 たまたま通行人が撮った場合や監視カメラの映像は別にして、無作為な映像など存在しない。もちろん映像に限ったことではない。文章だって同様だ。情報は視点なのだ。視点とは主観。この視点が変われば、描かれる事象や人物像はまったく変わる。100%の客観性などありえない。それは神の視点だ。


 中立の定義とは何か。字義的には両端から中間の位置だ。そこまではわかる。でもその両端の位置は誰が決めるのだろう。これが変われば中立点も変わる。両端は記者やディレクターが決めるのか。それとも彼らの上司か。会社や組織という抽象的な存在か。あるいは視聴率や部数に換算される民意なのか。
 絶対的な中立点など存在しない。配属されたばかりの記者がまずは教え込まれる両論併記も同様だ。Aの意見の対論はBと誰が決めるのか。CかもしれないしDかもしれないのだ。中立点と同様に、誰かが座標軸を設定しなければならない。その発想が抜けている。さらにAとBを同時に表出することは、映像でも文章でも不可能だ。ならば必ず後出しのほうが強い。公平などありえない。
 ただし、自らの立ち位置はつねに相対的な座標でしかないとまずは前提を置いたうえで、可能なかぎりの客観性や公平さを摸索する姿勢を否定するつもりはない。それはジャーナリズムの限界であると同時に、あるべき姿だと思う。ところが組織に帰属したとき、人は一人称単数の主語を失うと同時にこの前提を忘れる。自分はアプリオリに公平中立で客観的なのだと、いつのまにか思い込んでしまう。
 この瞬間に正義は発動する。こうしてメディアは権力を自らのうちに充填する。悪を挫き弱きを助けることを金科玉条にする居丈高な権力だ。


 森さんは、本当に「めんどくさい人」なんですよ。
 でも、僕は現在の「なんでも単純化しようとする世の中」で、こんなに回り道ばかりしている人がいることを、ありがたく感じているのです。 
 その一方で、もし自分自身や家族・友人がオウム事件の被害者になっていたら、「彼らも普通の人間なんだから」と受け入れるのは、難しいような気もするんですよね。
 いろんな立場の人がいて、たぶん、それぞれの「正しさ」がある。
 それを打ち消すことはできなくても、「視点」はひとつではない、と知っていて、意識しておくことが大事なのでしょう。
 

fujipon.hatenablog.com
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フェルメールになれなかった男: 20世紀最大の贋作事件 (ちくま文庫)

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