琥珀色の戯言

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ブレイブ ワン ☆☆☆☆


ブレイブ ワン 特別版 [DVD]

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あらすじ: ニューヨークでラジオ番組のパーソナリティを務めるエリカ(ジョディ・フォスター)は、婚約者であるデイビッド(ナビーン・アンドリュース)との挙式を目前に控えた身。しかし、ある日の夕暮れ、愛犬を連れて散歩に出かけた2人は3人組の暴漢に襲われ、エリカは意識不明の重体となり、デイビッドは命を落としてしまう。(シネマトゥデイ

この映画についての事前の情報から僕が思い描いていた「ストーリー」は、「女性版ランボー」みたいな話だったんですが、観てみたら、あまりに「重い」映画だったので驚きました。でも、この映画が安易なヒューマニズムに逃げなかったところは、ものすごく良かったのではないかと思うのです。
「弱者」に対して自然災害のように降りかかる「暴力」の恐怖。
そして、「警察や社会は助けてくれず、『運が悪かったんだ』『そんな連中に関わるほうが悪い』と嘲笑される」という無力感。
「やった者勝ち」のように思える社会に対して、日本の「弱者」の心が生んだのが『DEATH NOTE』ならば、銃が容易に手に入る国(とはいえ、この映画での銃の入手方法はあまりにありえないというか、あの心境でホイホイ知らない人についていくなんて信じられなくはあるんですが)の「弱者」が生んだのが、この『ブレイブ ワン』なのではないかと僕には感じられます。
「復讐は何も生まない」と声高に主張する人は、ぜひこの映画を一度観てみることをお薦めします。
人は、何かを生むために「復讐」するわけではなくて、そうせずにはいられないから「復讐」するのだ、ということがすごく伝わってくる作品です。「第三者」としてなら「客観的な正義」を主張することができても、自分がこのエリカと同じ状況になったら、果たして、どうするのか……
正直「重い」映画ですし、観たあとはどんよりとした気分になります。
この映画には、「もう、弱者も銃を取るしかなくなってしまったのではないか?」という切実な虚無感がこめられています。

ちなみに、この映画について、ジョディ・フォスターは次のように語っています。

Q:本作における“正義”とは、何だと思いますか?


ジョディ・フォスターこの映画の正義をはとても複雑だと思うわ。エリカは自分の行動とそれが招く結果も含めて、すべてを理解していたはずよ。正義や裁くことの意味、暴力がすべてを破壊してしまうことも。被害者として、法で裁くのではなく自分の心情に沿った罰し方を求めた結果、犯罪者を裁く正義の処刑人として究極の裁きを下す。それは法に触れるし、間違った選択だと分かっていても自分では抑えることができなかったのね。それと同時に誰かに止めて欲しいとも願っていたと思うわ。


Q:では『ブレイブ ワン』での“モラル”について、どのように考えますか。


ジョディ・フォスターブレイブ ワン』は、モラルを描くタイプの作品とは少し違う気がするの。確かに物語の中で、多くの問いを投げかけてはいるけれど、答えは提示していないわ。こういった“一線を越える”という境界線って、とてもあいまいだと思うの。そんなふうには決してなれない! って頭ではモラルや正義を理解していても、特にそれを問われる状況下では自分がどんな人間になるのか分からないもの。だからこそエリカは、テレンス・ハワードが演じたマーサー刑事のことを自分のモラルと対を成す相手として見ているの。彼は決して、“一線を越える”タイプではないし、彼なら自分を救える! と思えたから。

以下はネタバレになりますのでご注意ください。
観る予定の方は、映画を先に観てから御覧になることを強くお薦めします。



 僕はこの映画を観ながら、「どうせラストは、エリカが刑事に取り押さえられるか、『改心』するんだろうな」と思っていたんですよ。でも、そうしなかったこどが、この作品をものすごく価値あるものにしています。「復讐は何も生まない」というのはよくわかるのだけれども、その一方で、他者からみた「良心」の枠で、誰かの「復讐心」を閉じ込めるのが「正義」なのか?
 あの連中に復讐しなくても、エリカは「すべてを忘れて幸せに生きていく」ことができたのでしょうか?
 そもそも、彼らがあんなことをしなければ、エリカは「復讐者」になる必要などなかったわけだし。
 

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