努力することよりも諦めることのほうが難しい。 - SENTIMENTAL BOY’S VIOLENT JOKE
↑のエントリを読んで。
北野武監督の『アキレスと亀』は、まさにこんな感じの映画でした。
会社での出世や政治の世界などでは、「生きているうちが勝負」ってところがありますよね。
「左遷された取締役が、死後に生きていたときの活躍が見直されて、社長に昇進」なんてことはありません。
それなりに「名誉回復」がはかられることはあるかもしれませんけど。
将棋の世界でプロ棋士になるための「奨励会制度」には厳しい年齢制限設けられていますが、これはある意味「このくらいの年齢で諦めさせないと、一生を棒に振ってしまう可能性がある」という「優しさ」でもあるのでしょう。
その一方で、「芸術の世界」には、「生きているうちは評価されなくても、死後に後世の人に見直される」という「希望」があるのです。
絵画ではゴッホがその代表ですし、いまブームのフェルメールだって、生きているあいだは、「なんとか絵で食えるくらいの画家」でしかありませんでした。
作家でいえば、カフカやスタンダールの名前が挙がります。スタンダールは生前全然売れなくて、死ぬときに「50年後、俺は発見される」と断言し、本当に50年後から『赤と黒』が売れ出した」そうですし。
(参考リンク:漱石と鴎外と太宰と藤村の「著作権ビジネス」(活字中毒R。))
ところが、現代の「情報化社会」「ネットによるグローバリゼーション」っていうのは、そういう人たちにとっては、「早すぎる絶望」をもたらすものなのではないか、と僕には思えるのです。
ゴッホやスタンダールの時代であれば、「知らない人が多かった」「見る目がある人に発見される機会がなかった」作品が後に「再評価」される可能性があるのでしょうが、現代ほど「優れた作品が、多くの人の目に触れるためのハードルが低い時代」「多くの人が『良いもの』『面白いもの』を見つけようとしている時代」であれば、「生きているうちに評価されなかったものが、死後に『発掘』されること」は、まず考えられないでしょう。もはや、芸術の世界でも「無名の作品が、後世評価される」というのは「幻想」になりつつあります。
まあ、ゴッホやカフカの時代でも、大部分の芸術家は、「無名のまま生き、無名のまま死に続けている」のですが。
「努力」がバカバカしく思えてしまうのは、あまりにも早く「世界の壁」みたいなのが見えすぎてしまうからなのかな、という気もするんですよね。
それはもう、どうしようもない「時代の流れ」なのかもしれないけど。