琥珀色の戯言

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差別と日本人 ☆☆☆


差別と日本人 (角川oneテーマ21 A 100)

差別と日本人 (角川oneテーマ21 A 100)

日本の中に蔓延る「差別」。日本人はいつから「差別」と関わり続けているのか?日本のタブーに論客2人が論じる日本の行方と日本人論の決定版。

 日本における「差別」の歴史の解説書というよりは、「部落民」として差別を受ける側として闘いながら、政治の世界でのし上がり、自民党幹事長にまで上り詰めた男(=野中弘務)の回想録として読むべき本なのではないか、と僕はこれを読んで感じました。
 あくまでも「野中さんの個人的な体験と思想に基づいている」というところが、この本の面白さでもあり、もどかしさなのかもしれません。

野中弘務:自分の町から中学の後輩を二人、大阪鉄道局に入れたんです。そして自分の隣に座らせて手取り足取り仕事を教えてやった。ある時、後輩にこう言ったんです。
「俺は旧制中学より上の学校に行けなかった。せめて関西大学の夜学、つまり二部に行きたかったけれども、戦後の男のおらない時代で重宝がられて、そのうちに競争の渦の中に巻き込まれたから学校に行く暇がなかった。俺はおまえたちの仕事をコントロールしてやるから、おまえたちは関大の二部へ行け」
 二人のうちの一人は、親戚が戦後の闇市で儲けていた関係で、そこの専務に誘われたので大阪鉄道局を辞めてそっちに行った。問題は残った一人。
 彼に対しては、学校から帰ってきて遅くなったら、僕が下宿で飯を炊いてやって大学を卒業させた。そいつに裏切られるとは夢にも思わなかったけれど、忘れもしない1950年(昭和25)年、偶然、こんなやりとりを耳にしてしまったんです。会議室のところで、僕よりも給料もポストの下の先輩が、僕の昇級に不満を持っているのか、こういった。「なんであいつだけ特待生のように昇級するんだ」って。塀ひとつ隔てた部屋に僕がいることは、その先輩は気づいていない。するとその先輩に地元の後輩がこう言うわけ、
「野中さんは大阪におったら飛ぶ鳥を落とす勢いだけど、地元に帰ったら部落の人だ」
 僕は、「ええー!」と思った。

 この体験が、野中さんを「政治家への道」に向かわせていくのですが、なんというか、野中弘務という人は、「情が厚い」人なんでしょうね。だからこそ、この「裏切り」が一生の傷になってしまった。
 「差別される側が、『差別されていること』を武器にしてはいけない」と野中さんは考え、それを訴えてきたのだけれど、その一方で、そういう姿勢が「差別する側」にとって、調整役としてうまく利用されてしまった面もあるのです。
 でも、「100%の正義のために、原理原則を振りかざして徹底的に戦う」のと「お互いの妥協点をさぐりながら、少しずつでも前に進めていく」野中方式と、どちらが「正しい」のか?というのは、本当に難しい問題ですね。
 商取引なら、後者でいいんじゃないかと思うけど、「差別」という行為が、(少なくとも今の日本では)「絶対悪」であるだけになおさら。

(辛さんの解説より)
野中氏のアメリカ観は、戦中派のアメリカ観のひとつのパターンだと思う。野中氏は、結果平等派といえる。
 アメリカ式平等とは、資源を分配するとき、公正な原理をきめて分配する。しかし、その結果、不平等が生じてもかまわないということで、つまり、機会の平等
 他方、野中式平等とは、結果の平等を求めること。資源分配の過程では、談合したり、裏取引したり、いろいろ画策をする。しかし、結果として、みんながそれなりに潤う。そうい構造を維持することに専心してきた。その視点からアメリカをみると、おぞましくみえるのだろう。弱者切り捨て。市場原理主義。野中さんは、その意味で、反原理主義者なのではないだろうか。

こういう世の中になってみると、「良い談合」というのはあるのか?という問いについて、あらためて考えなければならないと僕は感じています。「機会平等」ばかりがもてはやされる、「自己責任社会」は、日本人を幸福にしているのか?
「機会平等」と「結果平等」をある程度両立していくことは、できないのか?

最後に、僕がずっと疑問に思ってきた、野中さんの日本観、中国観について、興味深かった部分を御紹介しておきます。

辛:じゃあ、最後に、野中さんはどんな日本人ですか。


野中:「日本人」って、僕はそんな狭い感じで考えたことなかったですね。質問とはズレるかもしれないけど、もっと国際的な視野の日本人をつくっていきたいなあと。だけど島国ですから、大陸文化の恩恵を受けて、こぢんまりと平和で生きるような状況ができればいいなあと、そう思って政治と関わってきましたよ。


辛:自分が日本人だって意識したことはあまりない?


野中:ないな。

この本を読んでいると、野中さんの「親中国」っていうのは、「日本社会への嫌悪感」からきているのではないか、という気がするのです。御本人が意識されているかはわからないのだけれども、「お前ら『日本人』は、『部落民』を差別するけど、中国という大きな存在の前では、俺もお前らもみんな卑小な存在じゃないか」という気持ちがあるんじゃないかなあ。
ただ、そういう思想も、「日本より中国のほうが偉いと考えている」という点では、ある意味「差別的」だといえなくもないわけで。

差別というえば、昔、アメリカの大学に見学に行ったとき、こんな話を聞きました。
ある有名な病院の外来の医者は、ちゃんと、「枠」が決まっていて、全体の医者のなかで、白人が何人まで、黒人が何人以上、アジア系が何人以上、女性が何人以上……
これが「人種差別をなくすための、当然の対応」だと考えられている国、アメリカ。
もちろん、一般のクリニックではそんなことはないのでしょうが、日本人である僕からすれば、「人種に関係なく、有能な医者から登用したほうが、『平等』なんじゃないか?」と感じます。
「平等」というのは、本当に難しい。


そうそう、この『差別と日本人』は、かなり昔の話が多いので、現在の日本での「リアルな『部落差別』について」興味がある方には、↓の本をオススメしておきます。個人的には、『差別と日本人』よりも、こちらの本のほうを、より多くの人に読んでみてもらいたいのだけれど。

被差別部落の青春 (講談社文庫)

被差別部落の青春 (講談社文庫)

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