ドキュメント高校中退―いま、貧困がうまれる場所 (ちくま新書)
- 作者: 青砥恭
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2009/10
- メディア: 新書
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家族みんな中退、二世代にわたる母子家庭、先行きのない若年出産。貧困スパイラル!…高校を中退していく生徒の家庭には、ひとり親の家庭も少なくない。離婚した母親たちが働く場所もパート等の不安定雇用しかない。少しでも高い収入を求めて、夜は水商売へ働きにでる母親も多い。毎日、昼働いた後、夜遅くまで店で客と飲み、体をこわして水商売すらできなくなり、いっそうの貧困へ落ちていく。
公立中学から、それなりの進学校経由で大学に行き、資格を取って就職した僕は、いわゆる「底辺高校」を、「勉強しないで遊んだり暴力ふるってばっかりのバカとヤンキーの集まり」だと内心嘲っていたのです。将来困っても、自分の努力が足りなかったのだから、「自業自得」だよ、と。
どんな「恵まれない環境」に生まれた人も、いまの日本なら、「努力すればなんとかなる」はずなんだから……
しかしながら、この新書に書かれている日本の「現実」に、僕はすっかり打ちのめされてしまいました。
これは、少なくとも子ども自身の努力で、どうにかなるような生易しいものじゃない。
埼玉県南部の「底辺校」SA高校の実態を、著者はこんなふうに紹介しています。
(入学生約200人の)SA高校では例年、一年生で退学する生徒が50人、二年生になってやめる生徒が20人ほどで、三年生でやめる生徒はさすがに少ない。だが2008年に入学した生徒たちは厳しく、一年生の間に約60人程やめた。生徒が起こす事件も年間100件は超え、二日に一件は発生している。生徒たちはよほどストレスを貯めていたのだろう。
教師たちによると、生徒たちの家庭の経済状態は「年収が200万円程度と思われる家庭が三分の一で、良くてもほとんどが400万円位まで」である。日本の平均的な世帯(570万円)とは大きな差があり、生徒のほとんどが生活保護程度しか収入がない世帯である。バイトが忙しくて学校に来られなくなる生徒も多く、なかには親に水商売をさせられている生徒もいる。家族の中で稼ぎ頭になっていて、バイトの給料をすべて親に持っていかれる生徒も少なくない。(中略)
生徒の学力は驚くほど低い。この高校では、定員割れすると中学からの成績がオール1でも入学できる。高校入学まで、小学校低学年レベルの学力のままで放置されている生徒が相当数いる。そのため、教師は1から100まで数えさせるといった補習授業をするのである。順番に数えていけば数えることができても、では「五五の次はいくつ?」と聞くと、10%の生徒はできない。SA高校の生徒にとって数字の理解は三十までで、それ以上の数を概念として理解するのはむずかしいようだ。一円玉、五円玉、十円玉をいくつか出して、「全部でいくらになる?」と聞いてもわからない生徒もいる。「一五三二五は?」と聞いても、高校三年生になっても読むことすらままならない。
(中略)
2009年の3月のある日、新入生のための説明会が開かれた。ある女子生徒(まだ中学生だ)のポケットにタバコが入っているのが見えた。注意したら、一緒にいた母親が「タバコを吸っているのは知っています」と何事もなかったかのように話していた。
その日は制服を採寸し、その場で制服代の支払いをさせる。教科書や靴類も同様にその日に購入させる。その場で清算させないと、買いにいかない生徒が必ずでるからである。(中略)
底辺校の教師たちはへとへとだ。その最大の理由はなかなか教育の成果が出ないからである。しかも、管理職は、学校が子どもの状況に適応したシステムかどうかより、教委からの指示をどうこなすかということに関心が集中している。行政からの支援もなく、毎日の徒労感と職場の連帯感のなさが底辺校の教師たちを疲れさせている。
生徒、親、先生、すべてがもう、「にっちもさっちもいかない状態」に追い詰められているという「底辺校」の現実。
僕は正直、「こんな状況でも、『勉強する気が残っているわずかの生徒たちを拾い上げるために』こういう高校が必要なのだろうか?」と疑問になりました。
こうなる前に、中学校、あるいは小学校、いや、子どもが生まれた家庭そのものが変わることがなければ、ぜったいに、この「底辺校」の状況は変わらない。
こういう高校がなくなったとしても、彼らが社会の「底辺」としてさらに厳しい現実にさらされる時期が数年早まるだけなのでは……
「勉強漬けの進学校なんて嫌だ!」と叫んでいた僕なのですが、この新書を読んで、いまさらながら、「勉強することに多少なりとも希望を抱ける環境」に置いてくれた両親や周囲の人に感謝せずにはいられませんでした。
いま、すでにこんな状況に陥っている子どもたちは、もう、どうしようもないのかもしれません。
でも、どこかでこういう「連鎖」を断ち切っていかないと、「希望を持てない子どもたち」は増えていく一方なのではないかと思う。
日本社会で「底辺」に落ちてしまうと、もう、「貧困ビジネス」のターゲットとして、「生かさず殺さず」の状態で、酒やギャンブルやセックスに溺れて、「死ぬまで搾取される」しかないんじゃないか?という絶望的な気分になります。
恐ろしいことに、当事者たちは、そういう自分が置かれている立場にすら関心がない。なぜなら、彼らは「まともな教育を受けておらず、自分で学ぼうという意欲も失ってしまっている」から。
関東地方南部のC高校の話。
民間業者が運営する学食では、一番の売れ筋は130円のポテトフライだ。安いのと油で腹持ちがするから人気があり、いつもこれには長蛇の列ができる。値段の高いメニューは売れない。うどん250円、そば250円、カレー300円、カツカレー350円、弁当350円、それらは40食以下しか売れない。学食にはないカップラーメンならC高校の生徒たちでも買える。校門から2分ほどの所にゴルフ場があり、外出は許可されていないが、食事がまともにとれない生徒が多すぎるので、教員たちは買いにいくのを見て見ぬふりをしている。
食生活以外でも、ふつうの生活を送ることはできていない。歯磨きをする習慣がなかったり、子どもの頃から虫歯ができても治療しなかったから、歯並びが悪かったり、前歯が溶けて、歯がなかったりする生徒も少なくない。歯医者に通う金がなく、親も子どもに関心がないからそのようなことが起こるのである。
2900円の体操着を買えない生徒、制服の下はほとんど裸同然の生徒、毎日、99円ショップで、パスタ、うどん、パン類など粉ものだけを買って食べている生徒、洗濯したり、風呂に入る習慣をなくした生徒……
僕は以前、「給食がなくて、ハンバーガーやフライドポテトなどのジャンクフードを学校で食べるアメリカの子どもたち」のドキュメントを観て愕然としたのですが、この日本の高校の現実を知らずにアメリカをバカにしていた自分が情けなくなりました。「アメリカはひどい」のではなくて、「アメリカもひどい」だけなのです。
こういう状況になると、「個々の親や学校だけのがんばり」でどうにかなるようなものじゃない。
でも、世間やマスコミは「学校の責任」ばかり追及したがる。
そうやって、「わかりやすく『犯人』をつくりあげる」ことによって、結局、「現在の教育、そして社会全体が抱える問題」は隠蔽され、「搾取されるしかない底辺の人々」が再生産され続けているのです。
中等教育の役割は、社会に安定した中間層を形成することだったが、現在の新自由主義化した教育政策は、逆に中間層の解体を進め、貧困層を拡大している。「教育は国家にとって安くつく防衛手段」といったのは、18世紀のイギリスの政治家エドモント・バークだが、いまの大阪府では子どもたちの貧困は主要な政策議題になっていない。社会全体で救われ、守られた子どもたちは将来、社会のために働き、尽くす大人に必ず育つ。教育とはそれを信じることによって成立する人間の営為である。
しかし、貧困のなかで苦しんでいる子どもを放置し、今の日本のように「自己責任」「受益者負担」だと突き放せば、その子どもたちの心の中に、社会に対する復讐心は生まれることはあっても、社会のために働こうなどという意識が生まれるはずもない。社会の分断は加速度を増していくことになるし、そのツケは将来の日本社会に大きな負担となる。
全国で公立高校の学区の拡大、学区の解消が進み、生徒の学力と親の所得を背景とした学校格差がつくられ、底辺校に貧困層の子どもたちが囲い込まれている。
いまの日本では、「毎年、10万人近い高校生が中退している」そうです。
「教育」っていうのは、目に見えた効果がすぐに上がるような「政策」ではないのかもしれないけれど、「高速道路無料化」よりも、こちらのほうが、よっぽど「未来のために大切なこと」だと僕は思いますし、自分の息子を、そんな「社会に対する復讐心に支配された人たち」がたくさんいる世界に投げ出すのはしのびない。
「自己責任論」では、どうしようもない状況に置かれている子どもたちを、どうにかしなくては、日本に、いや、人類に未来はありません。
以前紹介した『子どもの貧困―日本の不公平を考える (岩波新書)』とあわせて、ひとりでも多くの「現実を知らない大人たち」に読んでいただきたい新書です。
- 作者: 阿部彩
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2008/11/20
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『子どもの貧困―日本の不公平を考える (岩波新書)』の僕の感想はこちら。