琥珀色の戯言

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夏への扉(新訳版) ☆☆☆☆


夏への扉[新訳版]

夏への扉[新訳版]

内容紹介
ぼくが飼っている猫のピートは、冬になると“夏への扉”を探しはじめる。家にたくさんあるドアのどれかが夏に通じていると信じているからだ。そしてぼくもまた、ピートと同じように“夏への扉”を探していた。最愛の恋人と親友に裏切られ、仕事を失い、生命から二番目に大切な発明さえも奪われてしまったぼくの心が、真冬の空のように凍てついてしまったからだ。失意の日々を送っているぼくにも、ピートが信じる“夏への扉”は見つかるのだろうか。

未来は、ぜったいに過去よりよいものになる――
それぞれの”夏への扉”を探して現代を生きる人々へ、新しい翻訳で贈るハインラインの希望に満ちあふれたメッセージ。
新しい時代の『夏への扉』がここに登場。



内容(「BOOK」データベースより)
ぼくが飼っている猫のピートは、冬になるときまって夏への扉を探しはじめる。家にたくさんあるドアのどれかが夏に通じていると信じているのだ。そしてこのぼくもまた、ピートと同じように“夏への扉”を探していた―『アルジャーノンに花束を』の小尾芙佐による新しい翻訳で贈る、永遠の青春小説。

二十数年ぶりに再読。
もちろん、当時読んだのは、名訳として知られる福島正実訳のもの(ハヤカワ文庫)でした。
この『夏への扉』、中学校の図書館で借りて読んだんですよね。
その頃、マイコン少年だった僕は、たくさんのマイコン雑誌を(立ち読み含め)毎月購読していたのですが、『ログイン』や『コンプティーク』には、「SF小説を紹介するページ」が連載されていました。
マイコン少年であるのと同時に、本好きであった僕は、そこで安田均さんが紹介されている海外SF小説が、「知的な読み物」に思えて、それを読むことに憧れていたのです。
当時、海外のSF作家で「大家」として名前が挙がっていたのは、アーサー・C・クラークアイザック・アシモフJ.P.ホーガン、そして、ロバート・A・ハインライン
これらの「大家」のなかでも、J.P.ホーガンは「ハードSF」として、「コアなSFファン向け」のポジションにあり、ハインラインというのは、その対極にある「ソフトSF」(って、なんかちょっと変な言葉ですが、「SFマニアは敬遠する、軟派な女子供の読むSF」というイメージがありました(もちろん、僕の勝手な思い込みもあったのですが)。
あの頃は、自分の「読書力」に自信があった僕としては、読んだこともないのに「ハインラインなんてガキの読み物だぜ!」とうそぶきつつ、ホーガンの『星を継ぐもの』を読もうとしたりしていたのですが、実際のところ、ホーガンは当時の僕にとってはかなり敷居が高く、要するに読みこなせなくて挫折しちゃったんですよね、ああ、僕はSFはダメだ……性に合わない……と感じたのをよく覚えています。前置きの世界の説明部分だけで疲れちゃうんですよまったく。

そんななか、手にとったのが、この「ガキ向けのSF」とバカにしていた『夏への扉』でした。
読んでいたときの感覚は、「ああ、これなら僕にもわかる!」という喜びと、すべて完成間近のジグソーパズルのように「あるべき場所」におさまっていって、主人公には「完璧な未来」が待っているというストーリーの美しさへの感動が入り混じったものであると記憶しています。
僕は、中学校時代に図書館で借りた本のなかで、いちばん「好き」なのは、この『夏への扉』です。
読むと「幸せな気分」になれたし、「がんばってれば、いまはつらくてもいいことあるさ」と思えたし、苦手だった猫も少しだけ好きになれました。

あまりに好きすぎて、再読してがっかりするのが嫌だったのですが、今回、昨年出た「新訳版」をみかけて、あらためて読んでみたのです。

……うん、相変わらず、読み味が爽やかで、読後感も良い、素晴らしい小説。
ただ、あたりまえのことなのですが、ハインラインが「希望の未来」として描いた21世紀の初頭を過ぎてしまった現代に生きている僕にとっては、中学時代の初読の際ほどの感動はなかったんですよね。
コールドスリープはさておき、そんなに簡単に過去に行ったりはできないだろう、とか、ピートって、意外と出番少なかったんだな、とか、リッキーが大人になるまで従順で何の迷いもないなんて信じられない、とか、世界を「善玉」と「悪玉」にくっきり分け過ぎているんじゃないか、とか。
訳文は、そんなに変わらないんじゃないかと思って調べてみたのですが、新訳での「おそうじガール」は、福島訳では「文化女中器」だったんですね。そういう単語が改訳されるだけでも、だいぶ現在の読者には、引っ掛かりが少なくなったと思われます。

しかし、この作品を読み返してみると、昔、自分の「夏への扉」を探していた時代のことを思い出さずにはいられなくなりますね。
昔ほど素直になったのは、訳が替わったからではなく、僕が変わってしまったからなのでしょう。

それでも、読んでいると、「この先には、なんかいいことあるんじゃないかな」と、少しだけ未来を信じてみたくなる作品であることはまちがいありません。
とりあえず本棚にしまっておいて、息子が手に取る日を待とうと思います。

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