街の本屋さんが悲鳴「パートに出たほうがまし」…アマゾンやブックオフの台頭で苦戦(『痛いニュース』2010/6/14)
僕はAmazonのヘビーユーザーですし、Amazonのおかげで欲しくても買えなかった本が簡単に手に入るようになったことは非常に喜ばしいことです。
Amazonを使えるようになるまでは、天神コアの今は亡き紀伊国屋書店にでも行かないと、なかなか欲しい本を見つけられなかったし。
近所の郊外型書店に『ロードス島戦記』の最初の巻や『火吹き山の魔法使い』が置かれているのを見つけたときには、本当に嬉しかったものなあ。
「こんな田舎の書店でも、こういうマニアックな本(だと思っていたんですよ当時は)が置かれるようになったのか!って。
当時は、村上春樹さんが『ノルウェイの森』で描いていたように、「商店街のなかの小さな書店」がどんどん潰れていって、CDやビデオレンタル店が併設された「郊外型書店」が多数できていったのですが、それから20年以上が経ち、僕のまわりでは、昔通っていた郊外型書店が、続々と閉店していっています。
残された小さな書店も、扱っているのはマンガと雑誌とエロ本、せいぜい文庫。近所の書店で文芸書がいちばん充実しているのはTSUTAYA、というのが僕の周りの「中小書店の現状」です。
いやまあ、ショッピングモールには紀伊国屋などの大型書店があるのですが、仕事終わりに寄れるほど、遅くまではやってないしねえ。
冒頭の「痛いニュース」の記事では、「町の書店は、企業努力が足りない」というような厳しいコメントが多数書かれているのですが、僕はある意味、いまの「雑誌とマンガとエロ本だらけの中小書店」こそが、「企業努力の結果」のようにも思えるのです。これらが売れるというか、これしか売れないから、置かないんだよね、きっと。
Amazonやブックオフの隆盛をみながら、「これも時代の変化だし、しょうがないかな」と僕も考えていたのですが、1歳半の自分の息子をみていると、やっぱり、「街の本屋さん」が無くなっていくのは寂しいな、と思うんですよ。
僕が小学生・中学生の頃のことを思い出してみると、当然のことながら、当時は車の運転はできず、「自転車で行ける範囲」が僕の日常のすべてでした。
もちろん、たまに親に街の大きな書店に連れていってもらうことはあったけれど。
いまの子供たちだって、基本的には同じはずですし、自分でクレジットカードを作れない以上、Amazonで「本当に好きな本」を選ぶことは難しいでしょう。
「図書館」という手もありますが、「新しい本」を読むことに関しては、田舎の図書館は、十分なニーズを満たしてくれるとは言い難い。
Amazonは便利なのだけれど、子供にとっては、「フラットな気持ちで、本の海に溺れてみる」体験ができるのは、やっぱり書店だと思うんですよ。
Amazonは、主体性を持って使えれば、「自分好みの本を買える」のだけれど、「自分なりの基準」が無ければ、「ベストセラーに流されやすくなる」あるいは、「マスメディアやネットでの評判に流されやすくなる」危険性を孕んでいます。広大な海があっても、そこを覗くための窓は、あまりに小さい。
「あなたへのオススメ」は、親切な機能である一方で、「あなたの好みはこうですよ」と、Amazonに「自分を規定されている」面もあるわけです。
たぶん、ここで僕がどうのこうの言っても、中小書店はバタバタ潰れていくのでしょう。
それは、「歴史の必然」なのかもしれません。
でも、僕は自分が子供の頃に、コンビニの書籍コーナーと年に何回かしか行けない紀伊国屋とAmazonと図書館しかなかったら、生きていけただろうか?なんてことを想像してみたりもするのです。
そして、子供の頃に本に接する機会がなければ、大人になってから、本に親しみをおぼえることは難しいはず。
ただ、ネットのヘビーユーザーたちが考えているよりもずっと、「ネット通販はなんとなく気持ち悪い、とっつきにくい」という人はまだまだ多いし、「小さくても、安らげる空間として愛されている街の書店」もたくさんあるのですけどね。
「棲み分け」は、けっして不可能ではないと思うのです。
この話、まだ書き足りない気はするのですが、とりあえずここで一区切り。
とりあえずヒントになりそうなエントリを3つ挙げておきます。
参考リンク(1):すごい本屋!(和歌山県の山奥にある小さな本屋さん「イハラ・ハートショップ」の奮闘記)