参考リンク:急にハドソンのことが語りたくなった - Hisakazu Hirabayashi * Official Blog
↑の記事を読んで、僕も一ゲーマーとして、ハドソンのことをいろいろ思い出してしまったので、まとまらないまま書いてみます。
僕がシャープX1というマイコンを使っていた20数年前、田舎のパソコンショップでは、「ハドソンのソフトしかすぐには取り寄せられない」ということで、何度もクソゲーをつかまされたことがありました。
それこそ『ベーマガ』に載っているプログラムリストのほうが面白いんじゃないか?というようなものもたくさんありましたし。
今から20年前のハドソンといえば、「粗製濫造」の代名詞のようなメーカーだったのです。
そんなハドソンがアドベンチャーゲームを出す、という話を耳にしたときは、「どうせクソゲーなんだろ」と僕は全く期待していませんでした。
ところが、そのゲームが、『ベーマガ』の「山下章のチャレンジ!AVG」のコーナーで紹介されているのを見て驚きました。
この記事は、それまで禁じ手だった「アドベンチャーゲームのストーリーを紹介し、画面写真を載せる(もちろん全部ではないけれど)」という画期的なものだったのです。
「これ、ハドソンなのに、面白そうなんじゃないか?」
そして、僕はまた、ハドソンのゲームに手を出してしまったのです。
『デゼニランド』のパッケージには、「オールマシン語による高速画面表示!」「総画面数100画面以上!」なんて、単語が並んでいるのですが、たぶん、今のゲーム少年たちがこれを読んでも、全然意味不明だと思われます。
当時のマイコンのアドベンチャーゲームは、「いかに画面を速く表示するか」と「画面数(場面数、と言い換えてもいいかな)の多さとグラフィックの美しさ」が、何よりの評価基準だったのです。
「昔のアドベンチャーゲームは、画面が描かれるのをプレイヤーは何分も(ヘタしたら、10分くらい)待たなくてはいけなかった」なんて、今のゲーマーには信じてもらえませんよね。
ひどいのは、PSET(BASICのコマンドのひとつ)で点を1個ずつ打ってたもんなあ…
ちなみに、「デゼニランド」は「オールマシン語」(当時のマイコンとしては、一番処理速度の速い言語)で書かれていたのですが、それでも、僕たちは画面切り替えごとに、線を引いたり色を塗ったりするプロセスを見なければなりませんでした。
しかし、「デゼニランド」は、そんな中では、確かに画面切り替えは速かったほうだと思います。
そして、「デゼニランド」のもう一つの特徴は、入力方式。
当時のアドベンチャーゲームではごく一般的なのですが、このゲームは英語の単語を「動詞」プラス「名詞」で入力していきます。
たとえば「OPEN DOOR」のように。「鍵を使ってドアを開ける」というのは、
「OPEN DOOR KEY」というように、最後に使うアイテムの単語を入れるのです。
この入力方式(日本語の単語を入力するものもあり)は、「オホーツクに消ゆ!」で堀井雄二氏がコマンド選択をメジャーにするまで、日本のマイコンアドベンチャーゲームの主流でした。そして、「アドベンチャーゲームは言葉探しゲーム」とまで呼ばれるようになるのです。
その一方、ゲームの数にもお金にも餓えていたユーザーの中には、「コマンド選択方式なんて、速く解けすぎてもったいない」なんて人もけっこう多かった時代なのですが。
さて、本題に戻って「デゼニランド」の話。このアドベンチャーゲームは、ある大富豪が埼玉県に造ったテーマパーク「デゼニランド」の中に隠した秘宝「三月磨臼」(ミツキマウス)をさまざまなアトラクションを巡りながら探し出す、というストーリー。
このゲームの最大の記憶といえば、なんといっても「言葉探し」
やることの内容は合っていても、それをやるための単語が作者の設定したものと合っていなければ、クリアーできないのです。
たとえば、「鍵を取る」という場面で、作者が設定したのが「TAKE KEY」だけであれば、「GET KEY」ではダメ、ということなのです。
もちろん、ある程度融通が利くように創られている場面もあるのですが、このゲームで一番有名だったのが、棺桶に十字架を「はめる」シーン。
僕も死ぬほど悩みました。
入力が英語ですから、小学生だった僕は、和英辞典でやりたいことの単語を調べて、片っ端から入力していったものです。
そして、このゲームでは動詞だけ入れると、使えない単語では「ココデハ ○○ デキマセン」という反応が返ってきて、ゲーム中で使える単語だと「ナニヲ ○○ スルノデスカ?」という反応が返ってきます。
後者が出ると、「これは使える単語なんだ!」と一生懸命メモしていったものです。
それでも、一日かけて一画面も先に進めないことなんて、しょっちゅうだったのですが。
ちなみに、先ほど書いた「十字架をはめる」は、「SET CROSS」でも「PUT CROSS」でもなくて、「ATTACH CROSS」と入力しないと先に進めません。
そんなの思いつかねえよ!と当時のゲーマーたちは、涙を流したものです。
今みたいに、すぐにネット上に答えがアップロードされる時代じゃなかったから、ほんとうに解けない謎は、どうしようもなかったんですよ、当時は。
まあ、解けたときの喜びは、それこそ今の何百倍だったけど…
このゲーム、トリックも不条理なものが多くって、絵を暖炉に投げつけると爆発して通路ができたり、柱を磨かないといけなかったりで、かなりクリアするのは大変だった記憶があります。
いや、実は僕もクリアしてないんだけど。
でも、当時のゲーマーは、ほとんどの人が一度はやったことがあったんじゃないでしょうか、この「デゼニランド」を。
僕にとっての「心の中のハドソン」は、どんなに高橋名人が有名になっても、『デゼニランド』『サラダの国のトマト姫』そして、「Hu-BASIC」のハドソンだったんですよね。
参考リンク:「PC-8801 デゼニランド」(レトロゲーム大図鑑)
以下、話が変わります。
ハドソンは『スターフォース』『スターソルジャー』『高橋名人の冒険島』『天外魔境シリーズ』『桃太郎伝説』『桃太郎電鉄』など、さまざまなヒット作を出し、PCエンジンの開発にも携わっていたのですが、最近は『桃太郎電鉄』くらいしか、思いつくヒット作がありませんでした。
僕には、ハドソンの衰退というのは、「ゲーム文化」の変化のひとつの象徴のような気がしています。
もう4年以上前に、高橋名人が、こんなことを書いておられます。
TVゲームの目指す遊びって…(高橋名人公式BLOG『16連射のつぶやき』)
さて、今日は、ちょっと私の意見を書かせてもらおうと思います。
Wiiのゲームですけど、とある雑誌では、私と違う意見でゲームの意見を述べているところがあります。
その意見は立派なのかもしれません。確かにTVゲームとしての完成度だけに対して意見を言うことは、必要なのかもしれませんが、遊びのひとつとしてのTVゲームの意見は、もっとそのゲームを遊ぶ年齢や環境、そしてそのゲームが目指している遊びを考えなければいけないと思うのですよ。
今までにも、私は何回か言っていますが、いままでのゲーム業界が目指していたのは、ピラミッドの頂点であって、しかし実はもっと目指さなければいけないのは、ピラミッドの中腹から底辺に近いところにいるユーザーなのです。
テクニック重視のゲームも、もちろん必要かもしれませんが、そのピラミッドの中腹に居られる方にとって大事なのは、そのゲームが面白いという意見が直感的に出てくることだと思います
遊べるというのは、ゲームの完成度ではなく、それが直感的に遊べるかどうかだと思うのです。ピラミッドの頂点を目指したために、ダメになったジャンルがあるのに…
で、それを今でも引っ張ろうとしていて、それが頂点を走っていると勘違いをしている雑誌社とかがあるので、こういう意見を言いたくもなってきてしまいました。ゲーム業界では、これからのユーザーを育てていかなければいけないという話しも、もちろん出ています。
ただ、それがなかなか出来ていないことも事実ですね。
(以下は、僕(fujipon)が4年前に書いたものの再掲です)
この記事は、『ファミ通』(エンターブレイン)に対するものなのではないかと巷間ささやかれていたのですが(ただ、同年12/8号の『ファミ通』には、高橋「名人」就任記念インタビューも載っており、両者の関係が「一触即発」とか「ものすごく険悪」であるとも思えません)、少なくとも12/8号のハドソンのWiiソフト(『ウイングアイランド』『コロリンパ』に対するクロスレビューの結果には、そんなに極端な印象は受けません。たしかに、『ウイング』21点、『コロリンパ』24点と、厳しい評価ではありますけど。
僕はこの名人の文章には深く頷いてしまうのですが、その一方で、いままでのハドソンの「商売っぷり」を考えると、正直「お前が言うか!」みたいな気持ちもあったんですよね。『チャンピオンシップロードランナー』をメディアで煽って「中腹」の人たちに売りさばいたのは、ハドソンの「罪」ではないかと思うし。
みんながクロスレビューに頼るようになってしまったのは、ハドソンやバンダイが徳間書店とつるんで「メディア戦略」で酷いファミコンゲームを売りまくったという歴史があったからでもあるのです。そもそも「低年齢層向け」や「ビギナー向け」であるからといって、「完成度が低くてもいい」という理由はありません。『スーパーマリオ』にしても『テトリス』にしても『ボンバーマン』(PCエンジン版)にしても、「多くの人が楽しく遊べる」というのは、「完成度が高い」からに他なりません。
確かに、最近の『ファミ通』の傾向が「より最先端へ」向かっていることは否定できませんし、そういう一部の「豪華オープニングムービー」「人気俳優が声を担当」なんていうゲームに対して、少し甘めの評価がされているのではないか、という印象は僕にもあります。Wiiソフトのレビューでも、高得点だったゲームにシリーズものや続編が多かったのも事実です。でも、これだけロンチソフトが揃ってしまった状況では、「完成度」を語らないわけにもいかないし、雑誌としては、「ゲームの最先端」をとりあげないわけにもいかないと思うんですよね。例えば、車の雑誌では、その売り上げに比べたら、はるかにカローラやヴィッツが語られることが少なく、多くのユーザーにはとが届かないヨーロッパの高級車がうやうやしく語られているのと同じです。「実際に買うもの」と「雑誌で読みたいもの」は、けっして同じではないわけで。もっとも、ゲームの場合は、価格にそんなに格差はありませんから、「最先端」でもなんでも、とりあえず手が届いてしまうものではあるんですけどね。ゲームの場合は、厳密に「棲み分け」ができているわけではなくて、「頂点」の人しか手を出さないゲーム(『ゼノギアス』とか『Killer7』とか『フロントミッション』とか)と、「頂点から中腹までのゲーム」(『ゼルダ』や『FF』)、「頂点から底辺までのゲーム」(『ポケモン』や『テトリス』『スーパーマリオ』)という分類のほうが、適切であるような気がするのです。
(再掲おわり)
結局のところ、ハドソンの凋落というのは、ハドソンのターゲットが、少なくともゲーム専用機の世界には、存在しなくなってしまったからではないか、と思うんですよ。
最近は昔ほどゲームをやらなくなった僕にとっては、小学校低学年が『ポケモン』で苦もなく遊んでいるのは、けっこう驚きなのです。
だって、『ポケモン』って、マイコンゲーム黎明期からゲームに接してきた僕にとっては、けっして「簡単なシステムのゲームじゃない」から。
ゲーム文化の成熟というか、人類そのものが進化して、小さな子供でもけっこう複雑なゲームに適応できるようになったのでしょうか?
子供は、トミカやプラレールから、いきなりニンテンドーDSの『ポケモン』に行ってしまうし、「ゲーマーとして底辺」の大人は「GREEの携帯ゲームで十分」になってしまっている。
この「ゲーム専用機」という山にはもう、「中腹から底辺」は存在しないか、あるいは、すごく層が薄くなってしまっているのかもしれません。
しかし、なんのかんの言っても、僕のゲーマー魂の何パーセントかは「ハドソン」でできている、そんな気もするのです。
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