琥珀色の戯言

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【読書感想】ナムコはいかにして世界を変えたのか──ゲーム音楽の誕生 ☆☆☆☆☆

すべてはナムコからはじまった──
パックマン』『ギャラクシアン』『ニューラリーX』『ゼビウス』『マッピー
先駆者たちの試行錯誤と草創期の真実
いまや世界中で親しまれているゲーム音楽、その出生の秘密を探る


 僕が小学校高学年の頃、「ゲームセンター」が住んでいた地方都市にも誕生したのです。
 インベーダーゲームが大ヒットしていた頃は、コロコロコミックで『ゲームセンターあらし』に夢中になっていました。
 補導員の影に怯えながら、デパートの屋上のゲームコーナーのインベーダーゲームで「炎のコマ」を試してみて、即座にやられてゲームオーバーになったのを今でも思い出します。
 「コンピュータのCPUの処理速度を手の動きで超える!」なんて、いくら1980年代初頭とはいえ、どだい無理な話ではありますよね。
 当時は「コンピューター」と名が付くものに触れているだけで、なんだかとてもワクワクしていたのだよなあ。学校の成績的には、まったく理系向きではなかったのですが、テレビゲームやパソコン(マイコン)が、とにかく大好きだった。
 デパートの屋上の薄暗いゲームコーナーには、1プレイ100円のテーブル筐体のゲーム機が並んでいて、小学生だった僕には100円はゲーム1回に使うのは勇気が要る金額で、補導されるリスクもあるため、ずっと、ゲーム機のデモを眺め、プレイしている人から少し離れてゲーム音楽を聴いていた記憶があります。
 他の人がプレイしているところをじっと凝視するのは、なんだか恥ずかしかったし怖かった。当時のゲームセンターは、「ゲームセンターで不良からカツアゲされる(お金を巻き上げられる)のが珍しくもない、危険な場所でもあったのです。

 それでも僕は、テレビゲームが大好きでした。
 なかでも、ナムコゲーム音楽は、当時のゲームセンターでも、ひときわ鮮明に響き渡っていた記憶があります。
 僕の印象だったのか、ゲームセンターの「看板」として、大きめに音量が設定されていたのか。
 特に『リブルラブル』の音楽は大好きで、あのポップでキラキラ、キンキンしたサウンドは、「新しい時代の、コンピューターの音」で、ずっと聴いていても飽きることがなかったのです。
 『マッピー』とか『ディグダグ』も良かったよなあ。『ディグダグ』って、主人公が歩くスピードと音楽の速度がシンクロするのが、すごくカッコよかった。

 ……というような、昔のゲームセンターの思い出を語り始めると、長くなっていく一方なので、とりあえず切り上げますが、僕は物心ついた頃にテレビゲームという「新しいエンターテインメント」の直撃を受け、その進化とともに生きてきた、という実感があるのです。


 著者は、テレビゲームの黎明期、「音楽」が無いのが当たり前の時代から、「ゲームと音、音楽の歴史」を紹介しています。
 2024年の感覚では、ゲームとサウンドゲームミュージックは「切り離せない存在」なのですが、最初はそうではなかったのです。
 簡単な効果音からはじまった「ゲームの音」は、楽器をやっていた経験があるプログラマーたちと技術の進歩によって、だんだん「音楽らしく」なっていきました。

 ナムコは、1955年に中村雅哉が創業した有限会社中村製作所を前身とする会社で、最初の事業は横浜市内にあった百貨店、松屋の屋上に設置した2台の電動式木馬の運営であった。同社は1978年に発売したアーケードゲームジービー』を皮切りにビデオゲーム市場に参入すると、翌79年にはシューティングゲームギャラクシアン』を、80年にはアクションゲーム『パックマン』などの傑作を次々と世に送り出し、海外でも大人気を博した。
 その後も同社は、プレイ中にオリジナルのBGMが流れ続けるアクションゲーム『ラリーX』や『ニューラリーX』をいち早く開発し、多くのプレイヤーに衝撃を与えた。他にも、元YMO細野晴臣が監修、アレンジ曲を手掛けたアルバムが発売されたことでも有名なシューティングゲームゼビウス』のほか、巨匠すぎやまこういちも一目を置いたアクションゲーム『マッピー』など、ゲームファンだけにとどまらず、プロの音楽家からも高い評価を受けたBGMが流れる傑作を、ナムコは次々と発売した。
 またナムコでは、ビデオゲーム市場に参入して間もない時期から、同業他社に先駆けて音色を自由に作って鳴らすことができる、オリジナルのハード(カスタムIC)を次々と開発していたことも特筆に値する。つまり同社は、優秀なコンポーザーによる作曲(ソフト)と技術開発(ハード)の両面で、黎明期から業界のトップランナーだったのである。


 ここに名前が出てくるゲームの音楽、僕は今でもすぐに頭に浮かんできます。
 著者は、たくさんの関係者に取材をしているのですが、当時のナムコは、「新しいことをするためには、コストにこだわらない、高価な機材を買い、ゲーム音楽制作者の求人を芸大に出す、そんな自由な社風だった」のです。
 現在(2024年)は、「ゲーム音楽をつくるために、東京芸大の音楽科に入った」という人がいて、それが自然に受け入れられる時代になりましたが、僕がまだ子供、学生だった1980年代前半くらいは「テレビゲームをつくる、という仕事が、これから何年続けられるのだろうか、ブームが終わったら、テレビゲームそのものが消えてしまうのではないか」と疑っていた人も多かったのです(僕もそのうちの一人でした)。
 だって大人はやってないし……って。結局、自分は大人になっても、やり続けているのですが。

 ゲーム音楽誕生の歴史を語るうえで、絶対に忘れてはいけない人物がいる。『ニューラリーX』『ボスコニアン』『ギャラガ』『マッピー』『リブルラブル』『メトロクロス』など、80年代前半からのゲームファンにとっては垂涎の名作で作曲を担当した、元ナムコの伝説のコンポーザー、大野木宣幸だ。

 
 大野木さんは、デビュー作の『ラリーX』、その改訂版である『ニューラリーX』で、テレビゲームに初めて「本格的なBGM」を導入し、その後もゲーム音楽界に多大な貢献をされています。ここに居並ぶタイトルをみるだけで、オールドゲーマーはその音楽が頭の中で鳴り出すはずです。

 本作(『メトロクロス』)からC30(ナムコが開発した音楽専用のカスタムIC)を使用して作曲をすることになった大野木だが、ハードの性能が向上したにもかかわらず、逆に一種の危機感を覚えていたようだ。前掲の『Beep』の記事で、大野木は以下のように述べている。
「僕らの頃なんて、音3つしかなかったんですよ。ベースがあって、メロディがあってオカズがあって、3音作ればよかったんですけど、今は8音、10音の世界でしょ。まずプログラマーでなきゃいけないわけで。で、もちろん曲も作るんだから作曲者じゃなければいけないし、なおかつアレンジャーでもないといけない。生半可なことでは生き残れない世界なんですよ」
 また大野木は、ナムコを退社してゲームスタジオに作る間際に、ファミコン用ソフトの開発に使用するサウンドドライバを制作し、これに同じくゲームスタジオの設立メンバーとなった大森田が改良を加えたものが、合計9種類も作られた。小沢によると、実際に使われたのはそのうち1種類だけだったが、以後このドライバは社内で長らく使用されることとなり、後輩たちに素晴らしい「置き土産」を残す形で大野木はナムコを去った。


 大野木さんは、数々のゲームミュージックを自分で作っただけではなく、後輩を指導し、プログラマーとして、「開発ツール」を生み出したのです。
 僕がゲームミュージックにとくに魅了されていた1980年代から90年代前半にかけては、音楽の心得があるプログラマーが余芸としてつけていた音楽に、プロがどんどん入ってくるのと同時に、ハードウェアの進歩で、これまでに出せなかった音色や一度に多くの音を重ねられるようになっていきました。
 それは、ユーザー、ゲーマーにとっては、ワクワクする成長期だったのだけれど、現場でゲームミュージックに携わる人たちにとっては、「自分の席が失われる危機感を常に抱いていた時代」だったのかもしれません。

 初期は、どんな優れたミュージシャンでも、コンピュータやプログラムを理解できなければ、ゲーム音楽をつくることはできなかったし、ゲームに合った音楽をつくるには、ゲームで出せる音の知識を持ったうえで、そのゲームの世界観や面白いポイントを知る必要がありました。
 作曲家としても、プログラマー(技術者)としても成長し続けなければ、ゲームミュージックの世界では生き残ることができなかったのです。

 ハードウェアの進化とともに、「普通の音楽」をゲーム内で流せるようになり、最近の大作RPGでは、有名ミュージシャンの曲が使われることが多くなっています。
 それは、本当にすごいことではあるのだけれど、僕は「昔、薄暗いゲームセンターで聴いていた、『リブルラブル』のBGM」の衝撃と高揚感が忘れられないのです。

 この本のなかでは、史上初のゲーム音楽アルバム『ビデオ・ゲーム・ミュージック』誕生の経緯も詳しく紹介されています。
 現在は、音楽のひとつのジャンルとして定着しているのと同時に、演歌や民族音楽など、商業的に成り立ちにくい音楽がゲーム内で使われることによって継承されていく「受け皿」としても機能している「ゲーム音楽」なのですが、『ゼビウス』などナムコの当時の代表曲が収録され、元YMO細野晴臣さんが監修し、アレンジ曲も担当された『ビデオ・ゲーム・ミュージック』は、発売当時、かなり話題になりました。僕の周りのゲームファンは「ゲームの音楽がゲームセンターに行かなくても聴ける!」と喜んだのですが、世間的には「ゲームの『音だけ』のレコード(そう、当時はまだアナログレコードの時代だったのです)なんて、買う人がいるのか?」と思われていたようです。
 しかしながら、このレコードはかなりのセールスを記録し(発売初年度で約45000枚)、比較的低コストでけっこう売れる「ゲーム音楽」は、レコード会社にとっても魅力的なコンテンツになりました。

 小尾によれば、同レーベル(『G.M.O.レーベル』)の中で最も売れたのは1987年に発売された『セガゲームミュージックVol.1』で、大型体感筐体を使用してアーケード用ドライブゲームの『アウトラン』とシューティングゲームの『スペースハリアー』、および家庭用ソフトの『アレックスキッドのミラクルワールド』の3タイトルが収録されていた。とりわけアーケードの両タイトルには、当時としては最先端の音源であるFM音源やPCM(サンプリング)が使用され、小尾の評価では「まるで普通の音楽CDを聴いているかのように楽しめる、実際の楽器で演奏したかのような、非常にクオリティが高い曲が収録できた」ことで、ゲーム音楽が1ジャンルとして定着した実感があったという。


 中学生のとき、クラス内の最小グループだったテレビゲーム好きの仲間たちと、4人で学校の近くのレコード店で『Beep』に載っていた『セガゲームミュージックVol.1』の広告を店員さんにみせて、みんなでこのレコードを予約したのです。『アウトラン』大好きだったなあ。

 学生時代の自意識過剰の僕は、「誰それのファンになる」というのがなんだか気恥ずかしく、アイドルやバンドを敬遠していて、映画音楽やゲームミュージックばかり聴いていました。
 この本を読んでいて、あの頃のテレビゲーム、その音楽、そして、自分自身や、もう長い間会っていない友達のことを思い出さずにはいられなかったのです。
 史料としても、個人的な記憶の扉を開くきっかけとしても、貴重で、懐かしさにあふれた一冊でした。


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