お昼ごはんを食べながら、同僚たちと、「眠れない場合、どうするか?」という話になった。
夜の病院には、「眠れない」という理由で受診する患者さんが少なからずいて、僕たちは仕事として問診をし、ときには睡眠薬を処方するのだが、「とくに明日の朝、早起きしてやらなければならない仕事もないのなら(不眠で来られる方には、高齢者が多い)、無理に薬を使って寝ようとせずに、眠くなるまで何かやっていてもいいんじゃないか?」とも思うことがある。
そんな話のなかで、いま研修をはじめたばかりの20代半ばの若手と、もうすぐ40歳になる僕との「世代間ギャップ」を思い知らされたので、ここに書いておく。
意外とこういう話って、誰も書いてないからさ。
僕が小学校高学年〜中学生の頃は、1980年代の前半だった。
当時、夜眠れないときにできることは、本を読むか、ラジオを聴くくらいしか無かったのだ。
自分でレコードを買えるほどのお金は持っていなかったし、深夜のテレビは「大人のもの」だった。
眠れないと、「死んだらどうなるか?」という丹波哲郎のようなことを、延々と考えていたりしたものだ。
家庭用ビデオデッキというものがそれなりに流通するようになったのが、この1980年代前半で、それはまさに革命的な出来事だった。
僕の記憶では、最初に録画したのは、水谷豊が出演していた『熱中時代』というドラマだったのだが、「何をどうやったら、同じテレビ番組を記録し、もう一度観ることができるようになるのか?」と、ものすごく不思議だった記憶がある。
少なくとも、ビデオデッキが家にやってくるまでは、「テレビドラマは、見逃したらおしまい」なもので、「今日はあのドラマがあるから、パパが早く家に帰ってくる」という時代があったのだ。
あるいは、贔屓の野球チームの試合経過を知るために、大嫌いな巨人の試合を観なければならなかった時代。
ビデオテープも、昔は、標準モードで2時間録画できるものが、数千円していたのだ。
録っては消し、の繰り返し。
しかも、タイマー録画もけっこう難しくて、よく間違えて泣いたものだ。
本を読むといっても、夜に電灯をつけると叱られるので、なかなか難しい。
そもそも、当時は家に「まだ読んでいない本」なんてほとんど無かったし。
もちろん、テレビゲームもない。
ゲームウォッチなどの「携帯用電子ゲーム」はあったのだが、うるさくて夜はできないか、液晶が暗くて電気をつけないと遊べないものだけだった。
小学校高学年くらいからの、唯一の「夜のお楽しみ」は、『オールナイトニッポン』を聴くことだったのだが、25時スタートの番組にたどり着くことは非常に困難で、「こんばんは〜中島みゆきです」という挨拶とビター・スウィート・サンバを聴いたら力が抜けて、そのまま寝てしまうようなことばかりだった。
本当に、あの頃は、「夜眠るのはイヤだったけど、眠れないのはもっとイヤな時代」だったなあ。
それに比べて、いまの時代の子どもたちは、夜、眠れなくても、そんなに困らないだろうな、とは思う。
インターネットがあり、テレビゲーム、携帯ゲームがあり、DVDでは、自分で録画したものだけではなく、レンタルで好きな映画やバラエティも観ることができる。
本だって、ブックオフで安く買ってくることができる。
もちろん、「お金がない」ことには変わりないだろうけれど、それでも、「夜、やることがなくて困る」ことは無いような気がする。
「人肌のぬくもり」を求める場合を除いては。
でも、僕は最近、CSの番組表や、TSUTAYAに並んでいるDVDや、ゲーム売り場に並んでいる知らないゲームを見ると、ちょっと不安になるのだ。
「ああ、いまから30年生きるとしても(あるいは、100年生きることができたとしても)、自分が「消化」できる創作物の量は、全体のごくごく一握りなんだよなあ、って。
そして、「その気になれば、24時間『消化できる準備が整っている』」この時代に生きている子ども、若者たちが、ものすごく羨ましいのとともに、心配にもなってくるのだ。
「夜だから、何もできないね」と諦めて、外からの刺激を遮断し、「死ぬの怖いな」と思う時間を持てない子どもたちは、何か、大きなプレッシャーを感じ続けているのではないか?って。
この時代に生きていれば、それが「あたりまえのこと」なのかもしれない。
物心ついたときから携帯電話を持っている人間が、「いつでも連絡がとれないと不安になってしまう」ように。
たいして変わっていないようで、この30年くらいでも、人々の「生活」は、大きく変化している。
僕は小学生のときに、インベーダーゲームを見て、レバーを倒した方向に自機が動き、ボタンを押すとミサイルが出ることそのものに感動した世代だけれど、僕の子どもは、生まれたときすでに、ニンテンドーDSやPS3が家にあった世代なのだ。
ああ、なんだかすごく羨ましいな。
でも、「真夜中でさえ、暇を感じることもない一生」というのは、なんだか、少し怖い。