琥珀色の戯言

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教養としてのゲーム史 ☆☆☆☆


教養としてのゲーム史 (ちくま新書)

教養としてのゲーム史 (ちくま新書)

内容(「BOOK」データベースより)
「名作」「傑作」とされるゲームはいったいどこがスゴかったのか。新しいゲームジャンルはどのように誕生するのか。―それは、ゲームの歴史を「アイディアの進化史」としてとらえることで見えてくる。『インベーダー』『ゼビウス』『スーパーマリオ』『ドラクエ』『ときメモ』『ラブプラス』…数々の歴史的作品は、「創造性」「大衆性」「技術とアイディアの関係」などについて、大きなヒントを与えてくれる。ゲームを「学ぶ」時代の幕明けだ。

「テレビゲーム」はどこから来て、どこへ行くのか?


この新書では、『ポン』から『ラブプラス』まで、さまざまなゲームを紹介しながら、「どのようにして、その時代に、そのゲームが生まれることになったのか?」が考察されています。

 二人でやるテニスが、壁打ちテニスになった程度のようで、『ポン』と『ブレイクアウト』(『ブロック崩し』の原型となったゲーム)の間には埋めがたい隔たり、確かな進化が見て取れる。


1. ステージの一部であるブロックが壊れることで、プレイの「環境」が変化する
2. ブロックという「他者」の発明


『ポン』におけるテニスコートは、たとえ何時間が経過して、ラリーが無限に続いても、少しもかたちを変えはしない。しかし、『ブレイクアウト』の場合は、プレイフィールドの一部であるブロックを打ち壊していくこと=ゲームプレイに他ならない。ゲームシステムの側で能動的に仕掛けるまでもなく、プレイヤー自身が、ゲーム内の「環境」を変化させていくのである。

『ポン』から『ブレイクアウト』というのは、傍目にみれば「必然の進化」のように思えるけれども、テレビゲームの世界にとっては、大きなブレイクスルーだったのです。


僕は1970年代のはじめに生まれ、小学校低学年で「ゲームウォッチ」を体験し、高学年で、「マイコンとテレビゲームの洗礼」を受けました。
それから、もうすぐ40歳になるいままで、年齢や環境による濃淡はあるにせよ、テレビゲームの成長・成熟とともに生きてきたと自負しています。
カセットテープを読んでいたマイコン時代から、フロッピーディスク、カートリッジ、CD−ROM……


この新書を読みながら、「ああ、これはあくまでも『ゲーム史の概論』にすぎないよなあ、と考えていました。
「新書」という媒体の性格上しょうがないことだし、これ以上、マイコンゲーム寄りになってしまうと、みんな「そんなマニアックなゲームは知らないよ」って言うだろうとは思うのですが、読んでいると「歴史」を、著者も、もっともっと語りたいだろうな、という気がするんですよ。
でも、新書という媒体、商業出版という制約のなかでは、このくらいが「限界」だというのも伝わってきます。
夢幻の心臓』の名前を挙げても、たぶん、いまのゲーマーの大部分は知らないだろうから。


著者は1967年生まれだそうなので、僕より少しだけ年上、まさに「テレビゲームの歴史とともに生きてきた世代」です。
だからこそ、いま、「テレビゲーム史」をまとめておきたい、という気持ちは、すごくよくわかります。


こちらでも書かれているように、「テレビゲーム」は、生まれてから約40年でここまで劇的に進化し、世界中に広まり、一般化していきました。
「四角い玉を棒で延々と跳ね返すだけのゲーム」が、わずか40年で、『グランド・セフト・オート』になったのです。
これまで人類がつくってきた「文化」のなかで、これほど劇的な進化と普及をみたものは、他には無いのではないかと思うんですよね。
そして、いま、この時代であれば、「創生期・黎明期をつくった人たち」から、「2011年の最新ゲームの開発者たち」のナマの証言を、まとめて記録することが可能なのです。
そして、現在の技術であれば、「当時のゲームをそのまま遊んでもらうと同時に、その歴史的意義や特徴を語る」ことも可能なんですよね。
サンダーバード』や『必殺仕事人』の解説つきDVDを定期で発行する企画雑誌がありますが、ああいう形で、「日本のゲーム史DVD(遊べる実際のゲーム付き)」とかできないかなあ。
この時代ですから、ネット配信でも十分可能というか、そのほうが良いかもしれません。
絶対、ニーズはあると思うのだけど……


いくら昔のゲーム作者たちの年齢が若かったとはいえ、みんな年齢を重ねていきます。
僕が知っているゲームをつくってきた人たちのなかにも、鬼籍に入る人たちが少しずつ出てきました。

いまなら、「体系化されたゲームの歴史」を、当事者たちにインタビューしながら、つくりあげることができるでしょう。
もちろんそれは大変な仕事ではありますが、おそらく、10年後に同じことをやれば、初期の頃の関係者は、かなり少なくなってしまうはず。


いまはまさに『ゲーム史』をやろうという人たちにとって、「最後の、そして最大のチャンス」だと思うのだけど……
ああ、僕がその仕事、できるものならやりたい……


すみません、この新書を読んでいて、こんなことを考えずにはいられなかったので、つい、長々と書いてしまいました。

この『教養としてのゲーム史』は、僕のような「この新書で紹介されているゲーム全部で遊んだことがあるゲーマー」にとっては、すごく面白い本でした。
当時は、ただ「面白い面白い」としか考えていなかったゲームの「歴史的な意義」とか「作り手の戦略」をあらためて知ることができましたし。

ドラクエ以前」の荒野を歩きまわるRPGの冒険は、しばしば「時間稼ぎ」でしかなかった。スムーズに攻略が進められては中古に売られやすくなり、セールスにも響きかねない。だから、あえて「迷わせる」のだ。町の住人との会話もなく、したがってヒントもほとんどない。そんなあてのない旅でも、初期のRPGに触れて高揚していた先駆けのプレイヤーたちは、試練のように甘んじていた。
 そんな「迷わせる」ゲームが主流のなかで、あえて「一本道」を取るのは明らかにリスクだ。しかも、設計・開発の手間もかかる。否定的なニュアンスを帯びやすい「一本道」だが、プレイヤーが予測不能な動きをする「広さ」を前提としたRPGでは、確たる計算なしには成り立たないのである。


(中略)


 主人公は勇者ロトの血を引く子孫であり、悪の化身・竜王を倒してくれと頼まれる。そうした「大目的」が掲げられる一方で、旅の途中ではローラ姫を助けてくれといった「小目的」が与えられる。それをクリアすれば次の「小目的」が手に入る。細かな任務をこなしていけば、いずれ「大目的」へとたどり着く仕組みである。
 後に「お使いRPG」と揶揄されたこの方式は、あてもなくさ迷う中だるみを減らしてくれる。まだ馴染みの薄かった非アクションRPGの世界にプレイヤーを誘うにはもってこいの構造だったのだ。

個人的には、当時のマイコンRPGでは、「クリアしたら中古に売られたから」というよりも、「あまりに早くクリアできるようなゲームは、コストパフォーマンスが悪いとプレイヤーに敬遠されるとメーカーが判断していた」のではないかと思います。
マイコンゲーム市場は、中古市場というより、違法コピーのほうが大きな問題で、これは「そのゲームが早くクリアできるか否か」は、あまり関係がありませんでしたから。
それに対して、「想定プレー時間は短くても、みんながエンディングまで楽しめるようなゲームのほうが良いのではないか?」と考えたのが、『ドラゴンクエスト』や『イース』だったんですよね。
僕が『ドラゴンクエスト』でいちばん驚いたのは、その映画のようなエンディングでした。
それまでの「テレビゲーム」では、エンディングって、「とってつけたような『コングラチュレーション!!』」が表示されるだけだったのに、『ドラクエ』のエンディングは、荘厳な音楽とスタッフロールに彩られた、素晴らしい「ご褒美」だったのです。
ボロボロになりながら、一部の人がエンディングに「たどり着く」ゲームから、みんなにエンディングまでを「きちんと魅せる」ゲームへ。

あのストイックな『ウイザードリィ』が大好きだったにもかかわらず、ゲームデザイナーとしては「『ドラゴンクエスト』という万人向けの観光ツアー的なRPG」をつくってしまった堀井雄二さんは、本当にすごい人ですよね。


ときめきメモリアル』についての、こんな考察にも感心してしまいました。

 逆にいえば、主人公がどう思うか、どう行動するかに関係なく時間はすぎ、年中行事は繰り返される。つまり、プレイヤーは『ときメモ』世界の中心にはいない。太陽が東から昇り、西に沈むような自律性のある世界に間借りしているにすぎないのだ。
 真の主役でありプレイヤーの憧れの対象となるのは、「学校生活」それ自体ではないか。本作は、三年間の高校生活を丸ごとパッケージした「学園生活シミュレータ」なのだ。そこで再現されるものは、美少女の一人も見かけないリアルな学園生活ではなく、そこかしこに出会いが転がっている「理想家された学園」である。
 すでに高校生活が夢の彼方に過ぎ去った大人のプレイヤーは、ただ恋愛ゲームをしたいのではない。あのころ叶わなかった学園内での恋愛を、学園生活ごとやり直したいのである。こうした方向性は、後に「街に営まれる暮らし」そのものを再現して世界的大ヒット作になった『Grand Theft Auto 3』などワールドシミュレータの先駆けとも言える。

 「そこに世界を構築する」という意味では、『ときメモ』と『Grand Theft Auto』は、同じコンセプトを持った作品である、とも言えるのですね。
 その「世界」そのものには、大きな違いがあるように見えても。


 正直、ここで紹介されているゲームで全く遊んだことがない、20歳以下のゲーマーにとっては、やや敷居が高い本ではないか、とは思うのです。
 でも、このエントリをここまで読んで、「面白そうだ」と感じた貴方には、きっと楽しめる新書ですよ。
 そして、この内容で、もっと詳しく、もっと体系的なものを、いつか読みたいなあ。

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