- 作者: 内田樹
- 出版社/メーカー: ミシマ社
- 発売日: 2012/07/14
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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内容紹介
よみがえる、最後の授業!
言語にとって愛とは何か?
全国民に捧げる、「届く言葉」の届け方。
30年におよぶ教師生活の最後の半年、著者が「これだけはわかっておいてほしい」と思うことを全身全霊傾け語った「クリエイティブ・ライティング」14講。
「アナグラム」「エクリチュール」「リーダビリティ」「宛て先」・・・・・・こうしたトピックを有機的に連関づけながら、「生きた言語とは何か」を探る。
「この本がたぶん文学と言語について、まとまったものを書く最後の機会になると思います。そういう気持ちもあって、「言いたいこと」を全部詰め込みました」(あとがきより)
「街場シリーズ」最高傑作、誕生!
うーむ、ものすごく面白い。でも、「理解できた?」と問われると、「もちろん!」とはちょっと答えにくい気がします。
でも、こういう本こそ、「わからないことをわかろうとすることの喜び」を体験させてくれるのではなかろうか。
内田樹先生の講義を、その場で聴いているような気分にもなれますしね。
ところで、これってパワーポイントとかを使ってやっていたのか、それとも伝統的なシラバス+板書のスタイルだったのだろうか……
この本を読んでいると、「人間の言語能力のすごさ」というものについて、あらためて考えさせられます。
「アナグラム」についての、「あれはなんらかの『秘技』というか『方程式』みたいなものがあるのだろうか?」という「想像」に、内田先生は「人間には、無意識のうちにあれだけのことをやってしまう『言語能力』があるのだ」と仰っておられます。
いやもちろん、そこに「たしかな証拠」があるわけではないのですけど。
また、電子書籍の普及で、紙の本がなくなるのではないか?という問いに対して、以下のように答えられていたのも印象的でした。
僕は紙の本はなくならないと思います。というのは、iPadで読んでも、面白さが「何か」足りない気がするからです。いったい何が足りないのでしょう。いろいろ考えました。そのあと、友人の平川克美君と会ったときにも、彼からも同じことを訊かれました。「iPadで本読んでる? あれ、読めないだろう?」。その理由として彼が挙げたのは、僕が考えていたこととほとんど同じことでした。それは本の厚みがないということです。
だから、残りページがわからない。残りページがわからないと、本ってすごく読みにくいんです。たぶん、いろいろな理由がある。
内田先生は、その「第一の理由」を、「本のどの部分を読んでいるかによって、言葉の解釈が変わってくること」だと述べています。
たしかに、ミステリ小説を読むとき、最初の方に出てくる「いかにも怪しい人物」は、「あっ、こいつは犯人じゃないな」って思いながら読みますしね。
僕は「厚さで『そろそろ終わり』であることがわからないのは、電子書籍の大きな可能性」ではないかと考えているのですが、少なくともいまの紙の本に慣れている人にとっては、「いきなりぶつ切りになってしまうような作品」というのは、「一発芸」みたいなもので、メジャーにはならないのかもしれないな、という気もしています。
また、「言葉と階級」の話も興味深いものでした。
日本には、学者のするむずかしい専門的な話を、市井のふつうの市民の日常的なロジックや語彙で言い換え、わかりやすい喩え話を探し出す、そういう仕事をする人間がいて、そういう人間の書く本を好んで読む読者がいる。専門的な学者を評するときも「あの人の話はわかりやすい」というのは、日本ではけっして悪い意味ではありません。でも、ヨーロッパでは違う。そういう基準で学問的業績を評価する習慣はありません。わかりやすいかわかりにくいかは学問の質とは関係ないから。学問の質について正確な査定をするのは同業の専門家たちであり、彼らがわかればいいのなら、一般読者にわかりやすく書く必要はない。
でも、日本では「学問の質」とは別に、その学的知見が「どれくらい広い範囲に共有されるか」ということが問題にされます。せっかく世界の成り立ちや人間のありようについて価値ある知見が得られたのなら、できるだけ多くの人々に共有されるべきだという考え方を僕たちがするからです。でも、これは世界標準的には「常識」ではありません。
西欧社会に比べると、日本では知識の世界に「階級差」が存在せず(あるいは、存在することを認めたがらず)、「わかりやすくみんなに説明する」ということを尊ぶ傾向があるようです(僕は外国で勉強したことがないので、内田先生の受け売りですけど)。
僕はドラッカーの『マネジメント』を読んで、「なんでこんなにまわりくどく書いてあるのだろう?」と思ったのですが、あれは「ここに書いてあるようなことさえ理解できない、あるいは理解する気がないような人には、必要ない本だ」というサインなのかもしれませんね。
そう考えると、『もしドラ』は、まさに「日本でしか成立しえない、階級に風穴をあける本」だったのかな。
日本でも、ネット以前は、読む雑誌や本によって、ゆるやかな階層の棲み分けみたいなものがあったのではないかと思われます。
いわゆる「ビジネスマン」しか『プレジデント』は読まないし、『女性セブン』を中年男性が読むことはまずありませんでした。
ところが、ネットとなると、そういう「情報の敷居」みたいなものがものすごく低くなって、「本来想定していなかった読者」から、「意味がわからない」とか「これは自分たちをバカにしているのではないか」という反応が返ってくるのです。
もともと「敷居は無いのが当然」であった日本でさえこれなのですから、西欧では、その「壁」が取り払われた影響は、もっと大きいはず。
「メタ・メッセージ」の話とか、いまの日本の家族関係の話とか、興味深い話がたくさん含まれています。
内田樹先生がやってきたことの、ひとつの集大成となる講義と言えるのではないでしょうか(ご本人もそう仰っておられますし)。
直接講義を受けることはかなわなかった僕にとっては、こういう本が出てくれたのは、とてもありがたいことです。
(でもまあ、「やっぱりちょっと難しいところもある」のも事実なんですが)
この授業ではいくつかのテーマをランダムに提示しましたが、そのひとつは「言葉が届く」とはどういうことかという問いでした。修辞的に美しいとか、論理的であるとか、コンテンツが政治的に正しいとかいうようなレベルとは無関係に、「届く言葉」と「届かない言葉」がある。どれほど非論理的であっても、聞き取りにくくても、知らない言葉がたくさん出てきても、「届く言葉」は届く。どの言葉も語義明瞭で、文法的にも正しく綴られていて、美しい韻律に載せて語られても、「届かない言葉」は届かない。どこが違うのか。
違いは一つだけです。「届く言葉」には発信者の「届かせたい」という切迫がある。できるだけ多くの人に、できるだけ正確に、自分が言いたいこのことを伝えたい。その必死さが言葉を駆動する。思いがけない射程まで言葉を届かせる。
結局のところ「言葉が届くかどうか」は、「それを本気で届けようとする意思の力」にかかっている、ということなのでしょう。
足りないのは「届かせたい」という切実な思い。
いろんなことを考えつくした末に辿り着いたのが「ここ」だったんですね。