琥珀色の戯言

3000冊以上の【書評】と500作以上の【映画感想】を、ちゃんと読んで、観て書いてきたブログです。話題になったあの本や映画の感想が、たぶんあります。新書、ノンフィクション、インターネット関連本が多め。

ゼロ・ダーク・サーティ ☆☆☆☆



あらすじ: ビンラディンの行方を追うものの、的確な情報を得られずにいる捜索チーム。そこへ、人並み外れた情報収集力と分析力を誇るCIAアナリストのマヤ(ジェシカ・チャスティン)が加わることに。しかし、巨額の予算を投入した捜査は一向に進展せず、世界各国で新たな血が次々と流されていく。そんな中、マヤの中でビンラディン捕獲という職務が狂気じみた執心へと変貌。ついに、彼が身を隠している場所を特定することに成功するが……。

参考リンク(1):映画『ゼロ・ダーク・サーティ』公式サイト


2013年6本目。
興行収入ランキングではちょっと苦戦しているようだったので、もしかして自分ひとりなのでは……と心配していたのですが、取り越し苦労で、平日の夕食時の回にもかかわらず、お客さんは10人くらい入っていました。


この映画の冒頭、画面は真っ黒なままで、NY同時多発テロの犠牲者たちが最期に交わした(と思われる)声だけが流れるのです。
僕はそれを観ながら、「ああ、日本でこの映画がつくられることがあったら、絶対にあの貿易センタービルに2機の飛行機が突っ込んでいく映像が使われていただろうな……」と思っていました。
アメリカには、あれから10年以上経っても、あの場面を正視できない人が、少なからずいるのです。
そして、アメリカがあの事件で受けた傷は、まだ癒えてはいない。
ビンラディン容疑者が殺害されても。


あの「被害者たちの会話」も、本物なのか今回の映画のために採録したものなのかわからなかったのですが、ネットでこういう記事を見つけました。

参考リンク(2):9・11の遺族が「ゼロ・ダーク・サーティ」に抗議(「映画com.」2013年2月27日付)

ゼロ・ダーク・サーティ」の冒頭では、アメリカン航空11便がワールド・トレード・センターに直撃する前のベティさんの生々しい音声が無許可で使用されていることから、謝罪を要求する書簡を同作の脚本家であり、プロデューサーを務めるマーク・ボールに送付。

あれは「本物」の音声だったのですね……
おそらく、アメリカの人たちにとっては、一度は聞いたことがある「最後の会話」だったのだろうなあ。
僕たちが、御巣鷹山に墜落した日航機の乗客たちの「最後のメッセージ」を一度は目にしたことがあるように。


この映画に関しては、まだ記憶も生々しいうちに「映画化」されてしまったことに対する反発も少なからずあるようです。
キャスリン・ビグロー監督は、かなり綿密なリサーチを行って、この映画を撮影したようなのですが、「この映画では、まるでアメリカが捕虜を拷問していた事実があったように描かれている!」なんて抗議も行われています。
うーむ、「このくらいのことは、やっていてもおかしくないよな……」とも思うのですが……
それを認めるわけにもいかないだろうしねえ。


それにしても、ビンラディンは「辺境の部族に匿われて、洞窟のような隠れ家を転々としている」というような話を聞いていたのですが、この映画によると、基本的には「定住」していて、強襲のずっと前から、「ここではないか、と隠れ家が同定されていた」のですね。
でも、この映画のなかでは「本人の姿を撮った映像のような、確固たる証拠がないから」という理由で、アメリカ政府は、主人公が訴える「かなりの確率で、ビンラディンが隠れている家」を攻撃することを、ずっとためらっています。
この場面、映画の観客としては、「そこに隠れているんだから、さっさと攻撃すればいいのに」と思うところではありますが、考えてみれば、「確固たる証拠がないのだから、間違いの可能性を考えると、そう簡単に攻撃はできない」という方が「正しい姿勢」ではないか、とも感じるんですよね。
正直なところ、この映画を観ているかぎりでは、「消去法で、あそこにビンラディンがいるに違いない」というような根拠だったように思えたので。


この映画、『忠臣蔵』みたい、というような評価を耳にすることが多かったのですが、終盤の「ビンラディンの隠れ家襲撃シーン」は、まさに「討ち入り」のようでした。
あの場面の緊迫感は、一気に目が覚めてしまうくらいのものがあったんですよね。
その一方で、アメリカの精鋭部隊が、わずかな抵抗を圧倒的な戦力で排除し、女性や子どものすぐそばで「復讐」をはたしていく光景は、観ていていたたまれなかった。
ビンラディンは、3000人ものアメリカ市民を殺した」
それは事実です。
でも、アメリカ軍だって、イラク空爆で、もっと多数のイラクの一般市民たちを巻き添えにしています。
「復讐の連鎖」は、まだ終わらないどころか、なおさら広がっていっているようにさえ思われます。


この映画は「ビンラディンを討ち取った」ことを誇る映画というよりは、「アメリカはビンラディンという『象徴』を討ち取るしかなかった。ところが、実際に討ち取ってみて得たものは……」という、なんというか、ものすごく大きな「空虚」を描いているように僕は感じました。
もちろん、ビンラディンの味方をしているわけではないのだけれど、主人公が最後に流した涙は、僕には「喜びの涙」だとは思えなくて。
逆に「忠臣蔵」の四十七士は、吉良上野介を討ち取ったあと、どんな気持ちだったのだろう?なんて、ちょっと考えたりもしました。


この映画は、わかりやすいヒロイズムや善悪の描写に頼らずに、「事実に近いこと」を淡々と描いています。
「知っているつもりのこと」でも、こんなふうに現場を見せつけられると、自分の「理解」がいかに浅くて偏ったものだったのかを思い知らされます。

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