琥珀色の戯言

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【読書感想】爪と目 ☆☆☆☆


爪と目

爪と目


Kindle版もあります。
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内容紹介
「あなた」は眼科で父と出会う。「わたし」の爪と「あなた」の目も必ず出会う。娘と継母の嫌悪と快感を斬新な語りで描く芥川賞受賞作


第149回芥川賞受賞作。
 前回受賞作の『abさんご』を読んだあとだと「とりあえず読みやすい作品でよかった……」なんて一安心してしまうのですけど、「二人称小説」というのは読みなれないせいか、読みながら、「えーっと、この『あなた』は、女の子の父親の愛人のこと、だったよなあ……」と、何度も自分のなかで確認してしまいました。
で、読みながらちょっと気になったのは、語り手である「わたし」が、明らかに知らないはずの「あなた(継母)」の行動をまるで憑りついていたかのように詳細に語ることでした。
見ても聞いてもいないことを登場人物が知っているって、少なくとも推理小説では、「ルール違反」とされていることなのです。
 その人物が「神の視点」を持っていることになってしまうから。
 まあ、大きくなってから継母に聞いたのだ、というふうに考えればいいのかもしれませんし、そんなこと気にせずに、というか、そういういいかげんさから伝わってくる不穏な感じこそが、この小説の醍醐味なのだ、ということなのかもしれません。
 実は、「あなた」と「わたし」は同一人物あるいは二重人格なのではないか?などと推理してみたりもしたのですが……
(それなら、「わたし」が「あなた」の行動を逐一理解していて当然なので)


この『爪と目』は、「なんとなく流されるままに生きていってしまう『からっぽの人間』を精緻に描写した秀作なのです。
僕は「ああ、また母と娘、そして『からっぽの人』の話か……いかにも最近の芥川賞を獲りそうな小説だな」とも感じたのですけどね。タイトルも『乳と卵』っぽいし、最後の「復讐のカタルシス」っぽいのも、ちょっと似てる。


芥川賞の選評では「ホラー」だと読んでいる選考委員が多かったのですが、僕は正直、読みながら、「ごく一般的な女性の話」「どこにでもある親子の関係」だとしか思えなかったんですよ。

 あなたはそのとき派遣社員だった。仕事は、好きでもきらいでもなかった。仕事は、あなたが好きにもきらいにもならない程度にむずかしく、かんたんだった。勤めに出ないという選択肢が現実的でないので続けているだけだが、苦痛ではなかった。あるいは、苦痛であっても、慣れなければならない苦痛だった。眼球の上で少しの乾きと痛みを与え続けるハードコンタクトレンズのように。

 あなたが、結婚式のことを考えていた。父とはまだそのことについては話し合っていなかったが、彼は結婚式を望まないような気がした。あなたの両親も、相手に連れ子がいるとあっては、そう強くは求めないだろう。結婚式をしないのはちょっとさみしい、とあなたは思った。しかし同時に、あなたには挙式する自分の姿を見せたい友人などいないのだということにも気づいた。大学時代や会社員時代の友人たちが、果たして今でも友人たちと言えるのかさえよくわからなかった。

 この2つめの引用部の「父」というのは、語り手の3歳の女の子の父親(=「あなた」の不倫相手であり、たぶん夫になるひと)のことなのですが、二人称小説に不慣れなためなのか、こういう「父」などの言葉が出てくるたびに、ちょっと引っかかってしまうんですよね。
そこでいったん軽くブレーキを踏んで、「そうそう、この女の子のお父さんのことだよな」と確認してから、リスタート。
 そういう「もどかしさ」を、この小説の「持ち味」「テクニック」とみるか、「小骨がひっかかってめんどくさい」と考えるか。


 この継母は、「からっぽ」というか、「自分の価値観を持たないで、ただ生きていくことが習慣になってしまった人」なんですよね。
 こういう人は、世の中に少なからずいるし、僕にだって、そういう面は多分にあります。
 これを読みながら、「僕の家は、僕が不在のとき、『平穏』なのだろうか?」なんて、ちょっと怖くなってしまいました。
 世の中には「不道徳なこと」をする人が3種類います。
 ひとつは、「悪いことをするのが好きな人」
 もうひとつは、「それが正しいことだと思い込んでやる人」
 最後は「善悪へのこだわりがなく、やりたい、あるいはやってみたいからやる人」


「なぜそんなことをするんだろう?」
 何度もそう問いかけてみます。
 でも、とくに理由もなく、やりたいからやる人というのは、「説得」のしようがないのです。
 風船が手を放したら飛んでいくように。
「邪悪」ではないのに、自分や周りを混乱に陥れる人。


 この小説には「墓標」のように、主人公の母親のブログが描かれています。

 しかし、容姿も年齢も、名前もどうだっていい。そんなことは、わたしの母が知ってほしいことではなかった。母が知ってほしかった母を、あるときあなたは見つけた。それは、日課として閲覧するようになったさまざまなブログのリンクをでたらめに辿るうちに出現した。「透きとおる日々」と題されたブログだ。写真を主体としてつくられたブログで、テキストは記事ごとに一行か二行ほどしか書かれていなかった。

「母が知ってほしかった母」「他人にこう見られたいという自分」
ネット上のさまざまなブログ(あるいはフェイスブックツイッター)を見たり、ネットの掲示板やブックマークコメントを読んでいると、「ネットに参加している人たちは、みんな家庭円満で、パーフェクトな子育てをして、お洒落な部屋に住んで、キャラ弁つくっているのだろうか?」と、落ち込んでしまうこともあるのです。
いや、実際には、たぶんそうじゃないのだろうと思うのだけれども。


「自分にとっての正しさ」とか「現実」は、なんだかよくわからない。
でも、「他人にこういうふうに見られたいというイメージ」だけが、ウェブには、いや、世界には、無数に漂っている。
あまりにもいろんなものが「可視化」されてしまったために、それが世界の必然になってしまったがために、かえって「イビツなもの」は注意深く隠されるようになってしまった。


僕にとっては、みんなが「ホラー」だというこの物語が、まったく怖く感じられなかったことが、ある意味「怖い」ことでした。
でもね、世の中の多くの人間は、みんなが思うほど「ちゃんとした人間」じゃないんだよ、たぶんね。

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